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2012年4月24日

紙ヒコーキでも頑張れ!

わたしの子供時代は、市営の大きな団地に住んでいました。

そのような団地では、団地の周辺などでいつでも同じような年代の子供達が遊んでおり、とくに面識などなくても、楽しそうな事をしている人達を見かければ、わーっと入っていって、「俺も仲間に入れて!」と言えば、そのまま友達として一緒に遊ぶようなことも普通の出来事でした。

ある時、母が私に向かってこう言いました。

「外でみんなが紙ヒコーキ飛ばして遊んでいるよ!あんたも行ってみたら?」

わたしは、それは楽しそうだなと思って、一体誰が何人くらい集まって、何をしているかなども確かめないまま、紙ヒコーキを折って、表に飛び出していったのです。

5,6人の男の子が集まっていたので、母が言っていたのは、きっとこの子達だろうと思い、

「紙ヒコーキ作ってきた!仲間に入れて!」

と大きな声で言いました。

そうしたら、全員がこっちを向き、その中の一人がこう言いました。

「ん?なんだ紙ヒコーキか?」

私は何故そんな不思議そうに言われるのか疑問に思いました。

そして、一瞬の間の後、その男の子は元気一杯に言いました。

「よぉし、みんなぁ、紙ヒコーキなんかに負けるなぁ!」

わたしは、その言葉を聞いて、はっとしました。

そこで集まっていたみんなが飛ばしていたのは、新聞広告で折った紙ヒコーキでは無く、市販のゴム巻き式のヒコーキだったからです。

わたしはそれを見て、急に寂しくなりました。

「みんなゴム巻き式なのに、一人だけ紙ヒコーキだなんて。。。」

わたしは手に持った紙ヒコーキを一度も飛ばすこと無く、しょぼくれて家に帰り、そのまま自分のベッドに倒れこんで泣きました。

「なんでお母さんはみんなはゴム巻き式のヒコーキだって言ってくれなかったんだよぉ。一人だけ紙ヒコーキなんかじゃ恥ずかしいじゃん。。。」

この経験はとても辛い出来事でしたが、いつの間にか忘れて、長い間思い出すこともありませんでした。

でも、何故か不思議なことに、特に社会人になってから、解決できそうも無い大きな問題や、災難に会うと、あの紙ヒコーキの出来事を思い出すようになっていきました。

「こんな不利な状況で出来る訳ないじゃないか。。。うまく行く訳ないじゃないか。。。」

そうやって、自分に言い訳して逃げ出す時は、決まって思い出すようになっていきました。

「それにしても、なんで最近特に、あの小学生の頃の出来事を思い出すことが多くなってきたんだろう。。。」

そんな風に考えていると、ふとこんな風に思いました。

「そうか、小さかった頃に一人だけ紙ヒコーキで不利だと思った時、恥ずかしくて勝負する前から逃げ出してしまったように、同じように不利な状況だと感じたときは、いつも逃げ出してしまうようになっていたのかもしれないな。。。」

私は、それが自分の心のパターンだと感じ、そのパターンは変えたいなと思いました。

そうしたら、何故かこんな事が心に浮かびました。

それは、日産スカイラインのカタログか何かに記載されていた話なのですが、ある車のレースで、優勝候補のポルシェを、スカイラインが1周だけ抜いて1位になったという話なのですが、そのレース当時は、まだ日本の車の技術レベルは世界からかなり遅れをとっていたようで、圧倒的に不利な状況だったようです。

そのカタログには写真も載っていましたが、それを見て私は、こんな風に感じました。

「うわぁ、自動車(スカイライン)が、戦闘機(ポルシェ)と競争してる!」

インターネットで改めて調べてみると、それはどうも1964年の第2回日本グランプリの話のようで、量産車をベースとしたスカイラインは1,100kgの車重量に対し、レース専用に設計されたポルシェ904GTSは650kgと、重さだけ比べても明らかに不利だったようです。

誰もが絶対にかないっこないと思われるレースで、1周とはいえ1位に躍り出て、最終的な結果は2位という大健闘に、観客は大いに盛り上がったようです。

今では世界的なブランドとなっている日本の車メーカーの昔の話と言うのは、とにかく世界を相手に不利な状況で頑張ったという話が多くて私は好きです。

そして、私は思いました。

「不利な状況だと感じても、逃げ出さずにやるだけやってみたらいいんだ。それで駄目でもいいじゃないか。でも、もしもいい結果になれば、きっと賞賛されるんじゃないのかな。」

不利な状況だと感じても、逃げ出さずにやってみる。

自分の心も、そんな風にありたいなと思いました。

そして、一人だけ紙ヒコーキだからといって逃げ出した当時の自分に言ってやりたい。

「紙ヒコーキでも頑張れ!」

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2012年4月17日

猫背が教えてくれていたこと

こんにちは。
4月も半ばを過ぎましたね。
今月から入学や就職、また異動された方は、新しい環境に慣れてこられたでしょうか。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざがあります。
新しい環境では、知らないことがあって当たり前。
自分の中に溜め込まずに、勇気を出して周りの人に「教えて下さい!」とお願いしてみましょう。
周りの人たちは、きっと、ニューフェースのあなたの役に立ちたいと思っているはずです。
新しい人間関係を作るきっかけにもなれば一石二鳥ですね。


さて、話は変わって、先日私のブログでも少し触れたのですが、ヨーガを体験する機会がありました。
普通の屋内スタジオではなく、海岸が間近にある屋外の芝生の上で、しかも早朝(6:30から9:00)の時間帯にヨーガをしてきました。
3日間の体験だったのですが、心身ともにリフレッシュされ、気持ちよく一日をスタートできた貴重な体験でした。

ヨーガのポーズをとったり、呼吸法を試してみたり、アイソメトリック負荷と言って、息を吐きながら体の各部分に負荷を加えてみたりと、初めてのことをいろいろするうちにあっという間に時間が経ちました。
それだけヨーガの間は集中していたということなんだろうと思います。
自分の筋肉の動き、血流の感覚、呼吸の際の息の流れや速度などを感じることを通して、自分の体と心に意識を向けていました。

普段の生活、特に会社、学校、家事の際には、外部から入ってくる情報に意識を向けざるを得ませんね。
自分に意識を向けることが疎かになりがちです。
でも、一日、あるいは、一週間の内で少しの時間でもよいので、自分自身に意識を向けることで、自分が生きている感覚、自分が今ここに存在している感覚を取り戻せるのだそうです。


私がヨーガをしながら気がついたのは・・・・・、体がかたい。(笑)
「最初はみんなそんなもので、続けて行くうちに柔らかくなっていくものですよ」という先生の言葉に励まされながら、いろんなポーズを取っていました。

足をあぐらのように組んで、背筋をピンと伸ばすポーズを取っていたときのこと、体がかたいので、たったそれだけのことが結構大変だったのですが、背筋を伸ばしながらフッとある考えが浮かびました。

 「なんで僕は猫背なんやろう??」

そうなんです。私は、猫背なんです。
いつの頃からかは覚えていないのですが、気がついた時には私は猫背になっていました。
中学時代には、母親が「猫背矯正ベルト」(!!)を購入するくらい、姿勢が悪く背中が曲がっていました。(結局、「猫背矯正ベルト」は窮屈だったので使いませんでしたが。)
母親からは、何かの度に、「背筋伸ばしなさーい!」と背中をよくたたかれたものです。

もう何十年も背中が曲がっていますから、「背骨にまっすぐなパイプが通っているような感じで背筋を伸ばしてー」と先生から言われても、ものすごくきつかったんです。
きつかったからこそ余計に意識できたんだと思いますが、「猫背が、自分ではあまり意識していない心の一部分を反映しているものだったとしたら、それは何なんだろう」と思いました。

猫背の姿を思い浮かべていただくとわかる通り、目線は下、手はだらりと垂れ下がり、とぼとぼと元気なさげに歩いている姿を想像されると思います。
そういうイメージから真っ先に連想されたのは、「私は悪い、罰せられなければならない」という罪悪感と、「私は生きている価値がない」という無価値感でした。

その時に思いついたのが、「自分って帝王切開(母親のお腹を切って子どもを取り出す出産)で生まれてきたんやった」ということでした。
臨月まで子宮の中で、正常に頭が下の姿勢で育っていたのに、どういうわけだか急に頭が上(いわゆる逆子)になってしまい、逆子を元に戻す体操(そんなものがあるんですね)をする間もないまま、帝王切開で生まれたと、幼い頃によく母親から聞かされていました。

私が幼い頃、母親はお風呂に入る時に度々、下腹部の帝王切開の傷跡を見せながら、「麻酔の注射が痛かった」、「切った傷口が痛かった」とよく話してくれました。
今にして思えば、「それくらい苦労してお前を生んでよかった」ということを言いたかったんだろうと思えるのですが、もしかしたら、幼かった私は、

 「自分を産む時に、お母さんを傷つけてしまってごめんなさい。」(罪悪感)
 「お母さんをひどい目に遭わせてまで自分は生まれてきてよかったのかな。」(無価値感)

と、自分でも知らず知らずのうちに、思い込んでしまったのかもしれません。

「なんで僕は猫背なんやろう??」と思ってから、ここまでの考えが浮かんでくるまで、おそらくほんの一瞬のことだったと思います。
天から降ってきたという表現がぴったりきます。

幼かった私が、そのように思い込んだかどうか、真偽の程は今となっては確かめようもないのですが、今の自分がそのように理解することで、自分が猫背の理由が妙に腑に落ちたんです。
(但し、帝王切開で生まれた方でも、背筋がピンと伸びている方は大勢いらっしゃるはずですので、あくまで私にとっての感覚です。)

そう思えると、猫背でいることがなんだか馬鹿馬鹿しく思えてきたんです。
罪悪感とか、無価値感といったものを、猫背と言う形で表現していたのかもしれない訳ですから。

実は、前々から、このように思うようにはしていました。

 「お母さんの体を傷つけてまで自分を産んでくれてありがとう。」
 「お母さんがそこまで苦労してこの世に産んでくれた命なんだから、本当に有り難く、価値があるんだ。」

意識の表面ではそのように思うようにはしていたものの、潜在意識や無意識と言われる、心の大部分を占めている部分では、罪悪感や無価値感にはまり込んでいたのでしょう。
私がそのように思いながら生きて行っても、母親はちっともうれしくなんかないはずですよね。
ですので、この部分に関する罪悪感や無価値感は心の底から手放して、猫背も直そうと思いました。

それ以来、猫背になっているなと気がついたら、胸を開いて背筋を伸ばすようにしています。
何十年来の猫背が直るんでしょうか。
背筋を伸ばして、堂々と歩いている自分・・・、生まれ変わったような気分になるでしょうね。


さあ、もうすぐゴールデンウィークですね。
日本では、「仕事」の対極として「休み」を挙げる人がほとんどとのことですが、欧米では「仕事」の対極は「遊び」なんだそうです。
今年のゴールデンウィークは、体を動かしたり、行ったことのないところに行ってみたり、新しい経験をしてみたりして、「遊び心」を刺激してみてはどうでしょうか。
私はやっぱり、大好きなキャンプに行って、大いに遊んでこようと思っています。

中山けんたろうのプロフィールへ>>>

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2012年4月10日

桜の園

桜の季節ですね。
さくら開花予想によると、このコラムがアップされる時には、ちょうど東京の桜が満開のようです。

この季節になると、私は必ず思い出す本があります。
漫画家の吉田秋生さんが描かれた漫画「桜の園」です。

もう、20年以上も前に描かれたものなので、今読み返すと、時代の移り変わりを感じますが(制服のスカートが長い、携帯電話がない等)内容は今でもとても新鮮で素晴らしいと思います。

私は、幼い頃から運動が苦手で、おのずと室内での遊びに没頭することが多かったので、「男らしさ」から縁遠いと感じていました。
男らしくない自分にとても劣等感を抱いていたし、長男で家の期待を担っていたこともあって、そのことにとても苦しんできた思春期でした。

そんな時に、妹が読んでいた少女漫画をたまたま読む機会があり、その世界に描かれた当時の少年漫画にはなかった(というより私が気がついていなかっただけですが)、繊細な心理描写に心を奪われた記憶があります。

それからは、少年漫画やアニメなどに熱中する一方、少女漫画の世界にも熱中していた思春期でした。

そこには「男らしくない」自分に対して、「男らしさ」に憧れて少年漫画を読み、「男らしさ」では表現できない、繊細で柔らかい女性性に憧れて少女漫画を読むという、二つの心を同時に満たしたいという欲求があったように思います。

当時の私にとって、この二つの全く違う感覚は、身を引き裂かれるような苦しみでした。

男なのに、繊細で柔らかい感覚を持ち合わせているなんて。
男なのに、力強さよりも繊細さに心惹かれるなんて。

男とは、こうあるべき。
女とは、こうあるべき。

心理学を学んだ時、これが「観念」という心の働きで、「こうあらねばならない」といった環境等から自分が作り出した思いであり、自らが自らの心を縛っているというものであることを、初めて知りました。

この観念によって、私は、自分を「男らしくない」のは「男ではない」と判断してしまい、苦しくなっていたのです。

また、心理学では、女性性と男性性というものの見方があります。

男性性は、力強さ、責任感、与えること、リーダーシップ等を。
女性性は、柔らかさ、繊細さ、受け取ること、美しさ等を。

優しさや包容力といったものは、どちらにもあって、一般的に母親をイメージさせる女性的な優しさ・包容力もあれば、同じように父親をイメージさせる男性的な優しさ・包容力もあります。

これは、一見すると女らしさ、男らしさと見られがちですが、
責任感が強い女性もいますし、柔らかい物腰の男性もいます。

女性だから女性性しか持っていないとか、男性だから男性性しか持っていないというものではなく、心の状態やバランスを表すもので、どちらも女性・男性が必ず持っているものといわれるものなんですね。

こうしたバランスに善し悪しはなく、人それぞれであり、このバランスこそが、その人の個性を作り出していくものなんです。

そうしたことを知らなかった私は、長く、自分の中の男性性と女性性のバランスに苦しんでいました。
心理学を学んで、そのことを知った時、やっと長い間自分の中で葛藤してきた気持ちが解放されたと感じたことを思い出します。

私にとって苦しみのもとだった、こうした繊細さや柔らかさは、実は、自分を作っている大切な個性でした。
この部分を受け入れて認めてあげることができた時、同時に、自分の中の男性性である力強さやリーダーシップも開花させることができるようになりました。

心の中にある潜在意識には、表面意識で区別しているような善し悪しという判断がありません。
心を閉ざしていると、良いところも悪いところも全部、閉ざしてしまうことになります。
男らしくないから、隠さなければ、との思いは、女性性と男性性の両方の良いところを隠してしまっていました。

心を開いていくことができた時、今度は、隠れていた良いところの両方が表に出てきたのです。

その結果、リーダーシップが取れる上に、繊細で柔らかい、と評されるようになっていきました。

「桜の園」を読むと、当時の苦しかった自分のことを思い出します。
同時に、こんなに繊細な物語に素直に涙していた自分の感性を、改めて褒めてあげたくもなります。

こんなことを思い出していたら、以前に記事に書かせていただいたことのある、佐野藤右衛門さんという有名な造園家の方が語っておられた、桜を見る時は「必ず、花の下に入ってみて欲しい」という話を思い出しました。

その理由は、花は太陽に向かって上向きに咲くけれど、桜の花は全部下向きに咲く。
だから、木の下に入って桜を見上げると、花全体に包まれるような感じがするのがいいのだ、というお話でした。 

実際に桜の木の下に入ると、本当に桜の花に包まれているような感じがします。
その安心感や温かさ。

この包まれた感じは、女性的なものなのか、男性的なものなのか、と考えてみると、答えは「どっちだっていい」と思えてきました。

自分を温かく包んで見つめてくれているような感じ。
それを感じるのは、私の心ひとつ。

それだけでいいじゃないか、と改めて思ったこの春でした。

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2012年4月 3日

反応する事のススメ

先日、実家の父の介護のため実家に帰ったときのお話です。

ベッドに寝ている父が母に向かって
「ありがとう」
と伝えておりました。

しかし、耳の聴こえない母は気づきません。
一生懸命、父に背を向け仕事をしています。
私が反応して「どういたしまして」と伝えても、どうやら私ではなく母に伝えたいらしく、父はこっちを振り向いてくれません。

父は母の背中に向って一生懸命
「ありがとう」
と言い続けます。

それでも母は気づかず背を向けて仕事をし続けます。

そうすると、母に気づいてもらえない段々と父が不機嫌になってきます。
「ありがとう」
それを、大きな声で何度も何度も叫び続けます。

そこで、ちょんちょんと母の背中をつつき父の様子を伝えます。
そこで、母は父の「ありがとう」に気づき
「どういたしまして」
と反応したんですね。

そうすると、今までイライラとしていた父の空気が一変。
ぱぁっと明るい笑顔になり嬉しそうに何度も何度も
「ありがとう」
と伝え続けるんですね。
ずっと母に伝えようとして伝わらなかった一つの想いが伝わり本当に嬉しそうに嬉しそうに伝え続けてるんですね。
その父の姿に、いつも母を想う気持ちと感謝の気持ちを感じ、少し胸が熱くなりました。


私たちは、自分自身の気持ちや想いを伝えたくて一生懸命頑張ってみたり、チャレンジしてみたりする事っていっぱいあると思うんです。
そして、自分の気持ちがちゃんと伝わったときはとっても嬉しくて幸せな気持ちになります。
しかし、自分の気持ちがちゃんと伝わらなかったり、折角出したサインに対して反応してもらえなかったらとても寂しくて悲しい気持ちになってしまうんですね。
そして、不機嫌になってみたり、怒ってしまう事があるんです。
でも、その気持ちって本当は気持ちや想いを伝えたい人に対して抱きたい感覚や感情ではないと思うんです。
もっと、あったかくほんわかした感覚や心と心が繋がっているという感覚等を感じたいんじゃないかな、と・・・

そんな気持ちを知っているからこそできる人間関係を潤滑にしたり、その場の空気を和やかにするポイントがあります。

それは『反応する事』なんです。
私たちは反応したり反応される事で、すごく気持ちが明るくなったり、ホッとしたり、和んだりする事や瞬間が色んな場面であります。

春は色々な人と出会ったり、新しい環境に入って行く機会が多い季節かもしれません。
そんな時に、ちょっと周りを見渡して誰かが何かのサインを発してくれてるなと感じたらちょっとした『受け取ったよ』『気づいているよ』という反応を返してみませんか。

それは、ちょっとした挨拶だったり、アイコンタクトだったり、手振り身振りだったりするかもしれません。
ちょっとしたサインにちょっとした反応をする事で、なんだか心が暖かくなったり、相手との心と心の繋がりを感じる事ができるんじゃないかな、と思うんです。

周りの人の伝えてくれた事に対して反応する事で、新たな人間関係を育む切っ掛けを作ったり、今以上に有効的な関係を結び易くなる確立がグンと高くなります。

そう、私の父が母に「ありがとう」を伝え、母に気づいてもらえた時の満面の笑顔のように、色んなサインに対しての様々な反応で今までいた場所の空気もがらりと変わるかもしれません。

『反応する事のススメ』

この春にもしよかったら、皆さんも一緒にチャレンジくださいね。

中村季代乃のプロフィールへ>>>

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