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2010年12月28日

まだ見ぬ、あなたへ。

先日、古い友人達と集まる機会がありました。
本当に久しぶりの再会で、気心の知れた仲間と昔話や家族の話を語り合ううちに、今、どんな仕事をしているのか、という話題になっていきましたが、僕の職業が一番、みんなの興味を引いたようでした。

誰に話しても聞かれる質問は、「心理カウンセラーって何する仕事のなの?」でした。
心理カウンセラーという言葉は聞いたことがあるけど、身近にいないし、具体的にどんなことをしているのかイメージしにくい、と。

納得です。
「ここにいるよ。」
と言うと、一同、笑い。

説明しろよ!の声に、きちんと説明します。
具体的に話せば納得してもらえますが、遠い世界のような印象を受けるようです。
「どんな相談でも気楽に聞いてくれる場所がある」ということが、驚きだと言われました。

欧米では、「かかりつけの医者」と同じように、「かかりつけのカウンセラー」を持っていると聞くけど、日本では、そうした感覚がないんだろうな、と仲間たちのコメント。

でも、そういう人がいたら楽だよな、と言ってもらえるのはうれしかったです。


それからしばらくたったある日、その仲間の一人と会う機会があったのですが、その時、「カウンセリングサービスのホームページを見たよ、びっくりした」と感想を語ってくれました。

その友人も、いろいろな悩みを持っていたらしく、ホームページの記事を読んでいるうちに、自分と当てはまるところがたくさんあると気づいたり、解決のためのヒントを得たりと、気がつけば、あらゆるページを読み続けたんだ、と言った後で、自分もカウンセリングを受けてみようと思う、と語りはじめたのです。

友人は、遠方に住んでいるので、僕のカウンセリングではなく、住居近くのカウンセラーに話すことにしたそうです。
今まで、ずっと抱えていた問題は、「誰にも話してはいけない」と思っていたこと。
「誰かに話してもいいんだ、話をすることで、カウンセリングを受けることで、変われる可能性がある」こと。
「今まで自分は変われないと思っていたけど、変われるかもしれない」こと。
そうした事に驚いたんだ、と素直な気持ちを語ってくれました。


もっと早く知っていればよかった。
でも、知っていても、無理だったかな。
こうして、君と話をできたから、それが身近に感じられた
から勇気が出たのかもしれない。

そんな話をしてくれた後、最後にこう言ったのです。

「このホームページをいつも見ていながら、実際に相談できずにいる人が、たくさんいると思う。」


わかってるよ、と言いたかったけれど、僕のほうが黙ってしまいました。

わかっているつもりで、実は、そのことを本当にわかっていたのだろうか。
自分の声が聞こえた気がしました。


そう、僕自身がカウンセリングの門を叩いた時がそうだったじゃないか。

あの時の勇気。
初めて予約センターに電話をした時に、どれほど勇気が必要だったか。

それを思い出したのです。


人は問題や悩みに直面した時、一人でも親身になって話を聞いてくれる信頼できる人がいたら、その負担は本当に軽くなります。
そうした人がいるだけで、いろんなことにチャレンジしたり、自らの道を歩く支えにすることができます。

「人生で苦しいことがあった時には、本当に辛くなった時には、あの人に聞いてもらえればいいや」

そう言ってもらえる存在になること。

カウンセラーになった時、先輩から聞いた言葉を思い出しました。
そうなりたいと誓ったことと一緒に。


誰かに話を聞いて欲しいと思いながら、勇気を持てないと思っているあなたへ。

どうか話を聞かせてください。


僕も最初はそうでした。

でも、今、その時の気持ちを思い出して、こう思います。
相談しようと勇気を出して話を聞いてもらったことが、今の幸せな自分になるきっかけだった、と。

そして、今は、お話しを聞かせていただく立場になりました。
あの時、僕が救われたように、今度は、僕が誰かのお話しを聞いて、できる限りのお手伝いをさせてもらいたい。

「もらった恩や教えは、誰かのために使いなさい。」
カウンセリングの師匠から教わったこの思いを、実践しようとカウンセラーになったのでした。


誰かに話を聞いて欲しいと思いながら、勇気を持てないと思っているあなたへ。

どうか話を聞かせてください。

僕はここにいます。
ここで、お待ちしています。

池尾昌紀のプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 23:30 | コメント (1)

2010年12月21日

あなたの中の”はらぺこあおむし”

”ちっちゃなカ~マ~ゴ~、おちゅき~しゃまが、そ~らから、みて~、い~ましたっ”
あるとき急に、うちの息子たっくん(当時2歳)が、こんな歌を唄うようになりました。
あまりにもデタラメな歌詞・メロディーだったので、何の歌なのか分からず、託児所の保育士さんに尋ねてみたら、「ああ、それは、たぶん、最近うちで頻繁に流している歌ですね☆」と教えてくれたんです。

それは、エリック・カール原作の「はらぺこあおむし」というお話の歌でした。

葉っぱの上に産み落とされた小さな卵。
暖かい日曜日の朝に、その卵から小さなあおむしが生まれるところから、このお話は始まります。

そのあおむしは、お腹がぺこぺこで、すぐに食べ物を探しはじめました。
月曜日には、りんごを1つ食べますが、それでもお腹はぺこぺこ。
火曜日には、梨を2つ食べますが、やっぱりお腹はぺこぺこ。
水曜日には、すももを3つ、木曜日には、イチゴを4つ、金曜日には、オレンジを5つ、というように、あおむしは、いろんなものを食べます。なのに、あおむしは、やっぱり腹ペコです。

食べても食べてもお腹がいっぱいにならない、あおむし・・・。
とうとうヤケッパチになったのでしょうか、土曜日には、チョコレートケーキ、アイスクリーム、ピクルスなどなど、どう考えても小さな虫が好んで食べそうにないものをかたっぱしから食べまくります。

その夜、あおむしは、お腹が痛くて泣いてしまいます。そりゃあ、そうですよねえ。人間でも、お腹を壊しちゃいます。

ここまで見ただけだと、このあおむしは、めちゃめちゃ食いしん坊なのか、はたまた満腹中枢がやられているのか、と思ってしまいませんか?でも、このあとのお話を見ていくと、どうもそうではないようなんですね。

つぎの日は、ふたたび日曜日。あおむしは、緑の葉っぱを食べます。葉っぱを食べたあおむしは、お腹の具合もよくなりました。お腹がいっぱいになって、どんどん肥え太り、大きくなっていきます。

あれだけいろんな物をたくさん食べても、腹ペコだったのに、なぜ、あおむしは、葉っぱを食べただけで、お腹がいっぱいになったんでしょう?
だいたい、あおむしの食べる物といえば、葉っぱと決まっています。そして、その葉っぱは、あおむしが生まれた卵の下に、ちゃんとあったんです。なのに、なぜ、生後一週間になるまで、すぐそばにある葉っぱを食べずに、他の物ばかり食べていたのでしょう?

むむ~~~、なんともミステリアスなお話、そして、ツッコミどころ満載なあおむしさんです。

でもね・・・私たちも、このあおむしと同じことをしていないでしょうか?

本当は、旦那さんともう一度ラブラブになりたいのに、旦那さんと向き合うことから逃げて、不倫に走ってしまったり。
本当は、大好きな人と恋におちて幸せになりたいのに、恋を諦めて、「私には仕事があるから」と、仕事に生きようとしたり。
本当は、心を通わせられる家族や友達がほしいのに、人を遠ざけ、「頼れるのは、これだけ」と、お金や物にしがみついたり。

私たちは、本当にほしいものがあっても、わだかまりや意地、恥ずかしさ、傷つく恐れ、自分や周りへの不信感などがあると、それを感じるのが辛くて、乗り越えられないような気がして、ついつい、本当にほしいものを手に入れることを諦めて、他の物で、寂しさや空しさなどの”心の空腹感”をまぎらそうとしちゃうんですよね。

でも、まぎらしでは、モヤモヤや寂しさ、空しさは、なかなか消えないんですよね。心は、腹ペコのまんまだったりしませんか?また、まぎらしがすぎると、あおむしみたいに、心が痛くなって泣いたりもするかもしれません。

「本当は何を望んでいるのか」自分の本当の気持ちと向き合い、そして、本当にほしいものに手を伸ばさなければ、心は腹ペコのまんまなんですね。

ときには、それをしようとしたときに、いろんな痛い感情が出てくるかもしれません。でも、それでも、私たちにとっての”緑の葉っぱ”を手に入れるには、心を満腹にするには、そうすることが必要なのかもしれません。

さて、葉っぱを食べて、大きく太っちょになったあおむしは、どうなったのでしょうか?

あおむしは、まもなくサナギになります。
そして、数日後・・・

あおむしは、きれいなチョウチョになりました。

私も、そして息子も、どんなときでも、自分の本当の気持ちとしっかり向き合って、”緑の葉っぱ”を食べて、いつか、きれいなチョウチョになれるといいなあ・・・☆

息子のハチャメチャな歌(はらぺこあおむしの歌をCDで聞きましたが、息子の歌はほとんど原形をとどめていませんでした・・・^^;)がきっかけで、こんなことを想ったのでした。

あなたの中の”はらぺこあおむし”さんは、チョウチョになれそうですか?


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (2)

2010年12月14日

自分を信じることの大切さ

「天才」とか「奇跡が起きた」とか「あの人は運がある」などと言われている人を見たり
聞いたりするたびに、どれだけ自分のしていることを信じて頑張ってきたのだろう
と思います。

例えば、大リーガーであるイチロー選手の場合。
日本でも大活躍をし、アメリカに渡ってからも第一線で活躍をしていることは
誰もが知っているくらい有名な話であり、「彼は天才だ」ともよく言われています。
でもイチローは言います。
「僕は天才ではないし、その一言だけでかたづけてほしくない。」

イチロー選手に才能があることは誰もが疑う余地はありません。
でも、才能があったとしても原石のままでは輝きません。イチロー選手は小さな時から毎日通っていた野球の練習以外にも、毎日父親と一緒にバッティングセンターでの練習を欠かさなかったそうです。
友達とも遊ばす野球づけの毎日だったといいます。
そして「プロ野球選手に絶対になれる」と信じて練習をしていたそうです。

又、数ヶ月前にチリでの落盤事故が世界的なニュースとなり、遭難された全員が無事
「奇跡の生還」として報道されたことは記憶に新しいと思います。
でもあの「奇跡の生還」も遭難した人々が生きる希望を途中で諦めていたならば、起きなかったかもしれません。
「家族に逢いたい、恋人に逢いたい、そのために生還したい」という強い気持ちが暗く密閉された空間のなかでお互いを励ましあい勇気となって過酷な時間をすごしきれたといえます。

そして「あの人は運がある」と言われたりする人達も、詳しく見ているとある共通点が
あります。
それは「運を掴み取る準備をしている」ということです。
実は運というものは色々な所で転がっているものだともよく聞きます。
ただ求めているレベルや状態に達していないとその「運」にきずく事ができなかったり
他人の所へ行ってしまうことがよくあります。
いつ自分のところに運がくるかなど誰にもわかりません。
「必ず来る」と信じて準備をしておくことだけが一番の近道だそうです。

そしてこの3つに共通していることは
「自分を信じてやりたいことを持続し続ける」ということ。
実は一番の応援団は他人ではなく自分自身であり、その反面一番に出来ないと
思っているのも自分自身であるとも言えます。

以前の僕や、少し自分に自信のない人達が陥ってしまう罠といえば、
出来ることよりも出来ないことを先に考えてしまい、できない理由をどんどん強化してしまい、目標に対してやろうとしない作戦。

僕の場合、
「したくない」・「できない」と思えば思うほど普段では考えつかない言い訳の連発。
例えば、このコラムを書く時にも
「パソコン使うと目が疲れるからやめよ」
でも、暗いところで本を読んでいたり
「ネタを考える時に頭使ってカウンセリングに影響するからやめよ」
でも、この日はカウンセリングがなかったり
「ネットを見てしまうからやめよ」
実は初めから見ることを前提になっていたり、
「2時間しか時間がないから中途半端になるからやめよ」
実際には1時間も集中力が続かないはずなのに(笑)
などあげていくときりがないです。

すぐにしないといけないことでもかなり抵抗するのに、何年も先の話で成功するかどうかもわからないことの目標を持続し続けることなど無理と感じてしまうのも当たり前かも
しれません。

でも持続させることがなぜ大切なのか?
持続するためになぜ「自分を信じ目標を立てた方がいいのか」

スポーツで例えるとわかりやすいかもしれませんが、
スポーツでは「体が無意識に動くまで練習する」という言葉をよく言います。
その練習方法とは単調な反復練習の繰り返しになります。
それは、何千回、何万回と体が覚えこむまで繰り返します。
同じことの繰り返しですから時間がたつにつれて飽きてきます。辞めたくもなってきます。

でも、目標や目的があればギリギリの所で踏みとどまることが可能になってきます。
なぜなら、「勝ちたい」や「上手くしたい」と目標を達成したときの気持ちよさ
を味わってみたいからです。

自分を変えたいと思う時も理屈は同じです。
変わるためには何度も挫けそうになっても同じことを繰り返しチャレンジする。
そして「変われる」と信じきること。
そうして繰り返しているうちにやり方や感覚が体に馴染んできます。
いつの間にか雰囲気が変わったり、視野が広がったりします。
変化が楽しいときづけば、しんどくてもまたしたいと思う力が強くなり、なりたい自分に
近づくことでさらに変化を求めていきたくなります。

これはある偉人が言った僕が好きな言葉の一つです。

「僕には失敗がない。なぜなら成功するまでやり続けるから」

自分の未来は自分でプロディースできますよ!

なるみたかふみのプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (1)

2010年12月 7日

冬の燕

ウルトラマン列車と言うニックネームのある私鉄に、毎日のように乗っています。
私が乗るのはたった2駅なんですが、神戸の中心地と北部を繋ぐこの線に乗らずには、どこにも行けないのです。大阪に行くのにも、京都にしても、新幹線や飛行機に乗るとしても。

たった2駅、それもすぐに潜ってしまう。その僅かな間の光景に季節を読むのですが、カーブを丁寧に通り抜ける金属音が、そこに色を添えます。

最近は京都にご縁があるのですが、大阪に向かうにつれ景色が変わり、大阪の市街地を通り抜け、やんわり京都の色に変わっていきます。

それぞれの、個性豊かな町並みを、ぼんやりと、流れるままに眺めていると、同じ様に頭の中も流れていきます。

浮かんでは消え、また新しいことを思い浮かべ・・・の繰り返し。何度も土を練って陶器を形作る様なときも有れば、書く度に破り棄てるメモのような時も。

季節は、秋を通り越して街の気配は早々に冬。冬籠もりと言いますが、どこかの町には、あの幸福な王子の足元に寄り添う燕がいるはず。

なんてことを、また滔々とめぐらせるのです。神戸から京都にへと乗り継ぐ電車のように、趣を変えながら。

それ自体は、つまらないことも多いし、役に立たないことも多いのですが、頭の中の押し入れや引き出しにストックされるのか、文章を書くとき、話すときに、出てくることもしばしばです。

その昔、あんまりぼんやり考えていることが多いので、母に注意されたり、熱でもあるのじゃないかと心配されたことも多々。

ぼんやりさんの自覚が皆無だったのは、頭の中は忙しかったからかもしれないな。

皆さんの周りで、人とペースが違ったり、何を考えているのかわからない、と言う様な方がおられたら、頭の中は忙しいんだな、って思ってあげてくださいね。

日々こんな調子なので、出力しなければいけません、デッドストックになってしまいます。

こんな方は私だけではないはずですね。話すこと、表現することは、自分の中の流れをよどまさないので、新しいことに繋がるんですね。

そして季節も緩やかに、時に唐突に変わっていきますが、取り残された寂寥感に捉らえることもしばしば。

景色にしろ、季節にしろ、そして人との関係性にしろ、表現することは、生きていることの証、と言えるかも知れませんね。

冬の町を通り抜ける電車を見たら、…そこには私がいて、燕のことなんかを考えているかも知れませんよ。


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)