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2010年10月26日

レモン色の奇跡

14年前の春、大失恋を経験しました。ちょうど同じ時期に仕事が忙しい部署へ異動になり
「仕事に集中したら、彼を忘れることができる…。」大失恋の悲しさを感じたくなくて、自分をハードワークの世界に追い込んでいきました。
安らぎとか、余裕なんて遠い世界。ギスギスした心。いつも怒っている表情。人にも自分にも優しくできない。そんな嫌な自分になっていきました。

何か大切なことをあきらめている自分にどっぷりと浸かっていた6月。
高架道路を1人ドライブしていると、初夏の澄み渡った空に眩しく映えるレモン色の家が目に入りました。
「あのレモン色の家に行こう!」直感で高架道路を降り、迷いながら車を走らせました。

やっと着いたレモン色の家。近くの空き地に車を停めて、家の前に行くと「ワン!ワン!!」犬の鳴き声がします。
広い庭に作ってあるサークルの中で3匹のゴールデンレトリバーが楽しそうに水遊びをしていました。
「わっわっ!!かわいいーー!!!!」思わず笑顔になる私。やさしい気持ちになったのは、何ヶ月ぶりだろう…。

レモン色の家は、最近オープンしたばかりのペットショップだったのです。
イヌたちに近づくのを躊躇している私に、「どうぞ~遊んであげてくださいね!イヌたちも喜びますから!!」とご主人が声をかけてくれました。
イヌたちと遊んだ後、お店の中で冷たい麦茶をいただきながら、ご主人とお話をしました。
しつけのこと、食事のこと、病気のこと、ご主人はイヌを飼う上で大事なことをたくさん教えてくれました。
窓から入ってくるさわやかな風が時間を忘れさせてくれます。こんな平和な気持ちになったのは久しぶりでした。

家に帰ってから、レモン色のペットショップがずっと気になっていました。
ご主人のイヌが大好きという気持ちが、私のギスギスした固いハートがほぐしてくれたのか、子供の頃からずっと抱いていた夢を思い出しました。
「大人になったら、大きなイヌを飼いたい!!」

でも、もう1人の私は「飼いたいけど、もう、あの時のような思いはしたくない。」
実は昔、チロという柴犬を飼っていたのですが、病気が原因で虹の橋を渡っていくのを、見送っていたのです。
数年経っても、悲しかった気持ちは癒すことができず、もう2度とイヌを飼わないと心に決めていました。

そんな私を誰が、あのペットショップに連れて行ったんだろう?雲の上にいるチロ?ボロボロな私を心配してくれたのかな。
「チロ。私、またイヌを飼ってもいい?」なぜだかわからないけど、涙が出てきました。

一週間後、レモン色のペットショップに行きました。あたたかく迎えてくれるご主人にホッとしました。
そして先週来た時には居なかったフワフワなぬいぐるみのようなゴールデンの子と出会いました。
「ウチの子になる?名前はジュリだよ。」その子を車に乗せて家に帰りました。
ジュリは、私の家にすぐに馴染んだのか夜鳴きをすることなくグッスリ寝ていました。
生きる力の強いジュリは、家全体を明るく元気にしてくれました。
私は自分をいじめるような働き方を卒業して、ジュリのために働く生活に変りました。
長い時間をかけての散歩。しつけ教室に通ったり、食事は体にいいものを選んだり…。とにかく体力とお金がかかります。
自分が病気で倒れたらジュリに何もしてあげられなくなる。お母さんのような気持ちになりました。

成犬のジュリは、力があり過ぎて家の壁をこわしたり、私を転ばせたりと暴れん坊でした。
おとなしいのは寝ているときだけど、寝顔を見ていると平和を感じました。
ジュリは、私たち家族に何か特別なことをしてくれたわけではなかったけれど、そこに居てくれるだけで何度も救われました。

ジュリが歳を重ねていくと、死というものが見えてきました。「ジュリが…ありえない…。」怖くて仕方がありませんでした。
そんな私を無視するかのように、ジュリは死に向かっていきます。
ジュリが生きていることは当たり前ではないことにやっと気付いたとき、昔飼っていたチロを思い出しました。

チロには、してあげれなかったことがあったのです。それは、できるだけ一緒の時間を過ごしてあげることでした。
それができずに、ずっと後悔してました。

チロへの後悔から学び、今を生きているジュリにしてあげられることは、一緒にいる時間を大切にしてあげることでした。
ジュリとたくさん笑って、いたずらをしたら叱って。一緒にお昼寝をしたり。海を見せてあげたり。
毎日、ジュリが生きていてくれることに感謝しながら…。

そしてジュリは、2年前の11月、虹の橋を渡りチロがいる場所へ行きました。

私をレモン色のペットショップへチロが連れて行ってくれたこと、そこでジュリと出会えたことも、私にとっては奇跡のような出来事でした。
チロとジュリは、一日一日を大切に生きるということを教えてくれるために、私の家族になってくれました。
そして、これからも雲の上から私を見守っていてくれて、ピンチな時にはそっと助けてくれそうな…そんな気がします。

また、あのレモン色のペットショップに行ってみようかな。

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2010年10月19日

言えなかった言葉

この夏、実家に帰る機会がありました。
法事があったからなのですが、わたしには気の進まない帰省でした。

わたしは高校を卒業後、美容学校に行くために上京をしました。
それからは東京暮らしですから、すでに人生の半分以上を東京で過ごしていることになります。

美容学校時代ゴールデンウィークや夏休みになるたびに、帰省を楽しみにするクラスメイト達の心情を、わたしは複雑な思いで見ていました。

わたしは実家に帰りたくなかったから、です。

美容師の仕事を始めてからは仕事を言い訳にして、どうしても出なければいけない冠婚葬祭以外は、帰省しなくなりました。気がつけば7年間も帰らないこともありました。

どうしてそんなにも故郷に帰りたくないのか?
素朴でとても美しい故郷でありながら、気が進まないのです。

それを言葉にするのは難しいのですが、「開けたくない記憶の箱」があるような気がするのです。

しぶしぶ帰っても、故郷は何も変わらずにそこにありました。
ただ、家族が何か違っていました。

駅まで迎えに来てくれた弟は、トンネルに入る前の料金所にいるおじさんに通行券をもらいながら「どうもありがとう」と言いました。
昔は挨拶すら苦手なシャイな弟だったのに、その言葉がとても自然だったこと。

夕食で焼肉を食べに行ったら、父がみんなの分の肉を焼き始めました。
「昔は、こんなことする人じゃなかったのに」と、わたしは眺めているのに継母や弟にとってはあたり前のように受け入れていること。

父に対してグチを言わなかった継母が、「一緒に出掛けたりしてくれないから本当にお父さんってつまらないのよね」とわたしに笑いながら言った会話。

かつてなかったことが、あったのです。ごく普通にあたり前のように。

両親の離婚、その後の父の再婚が受け入れられずに出た家ですが、わたしが出た後も長い年月を経て、父・継母・弟は、家族というものを形成し直して来たのでしょう。

家族である姿がそこにはありました。

「わたしがいると、この家はうまくいかない」
18歳のわたしはそう思いましたが、「家族になること」を嫌い避けてきたのは、わたしだったのです。どこにいても「根付くことが出来ない水草のようだ」という感覚を、いつも心のどこかに持っていました。

わたしは故郷と共に自分の存在を消してきました。

故郷に帰るということは、「家族であること」「娘であること」「姉であること」という、わたしの存在を認めざろう得ないことだったのかもしれません。

わたしはわたしとして存在することを、故郷は教えてくれました。
家族の中のひとりとして存在する場所があるということも。

わたしもまた長い年月を経て癒しを学び、心に形成し直して来たものがあったようです。

今度故郷に帰る時には、心を込めて言えるかもしれません。


ただいま!

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2010年10月12日

憑き物事件

今年の3月に母と電話で話していて、ちょっとしたことで久しぶりに衝突しました。やっちゃった感はありましたが、そのおかげで学んだこともいろいろあったので、まあいいかと思っていました。私はそのケンカを引きずる気分はなかったし、母もしばらくしたら忘れるだろう、ぐらいの感覚だったのです。

だって、かつて母は何度となくヒステリーを起こし、子どもの私はけっこうつらかったのです。今回は私が言い過ぎたところはあったけど、今までのことと合わせて考えれば、チャラよ、チャラ、母だってそう考えてくれるだろう、と思っていました。

そして5月の連休に帰省して母と会ったのですが…

私の予想に反して、母が3月の言い合いのことをかなり根に持っていることがわかりました。「もう電話であんたとは話したくない、用がある時はファックスを送れ」と言われてしまったのです。さすがに「およよ」と思った私。

でも、そういうことを言いながらも、数日一緒に過ごした間、母の態度はいつもどおりだったので、私は楽観的でした。気にせず電話すれば母が出るだろうし、何度か話しているうちに母のわだかまりも消えていくだろう、と。ところが、その後、たまに電話をかけても、母は一切出ないのです。電話口に出るのは父です。今まではいつも母が出ていたのに。

えー、そんなに怒らなくてもいいじゃない、はっきり言ってお互い様じゃないの、と思いながらも、段々と、そっちがそうならこっちだって…の気分になってくるのが人間です。だって、もとはと言えばお母さんが、何かというとお姉ちゃんを優先するから腹が立つんじゃない、3月のケンカだって、それが元になってるんじゃない、お母さんのバカ!

と、ついつい思ってしまう私。考えないようにしようと思っても、「どうせお姉ちゃんの方が大切なんでしょ!」というひねくれた思いが湧いてきます。お母さんにもいろいろ事情があるし、私の考え過ぎもあるかもしれないし、もうそんなことどうでもいいやん、という声も心の中にはあるのですが、私の中のいじけ虫はなかなかおさまりません。

そんなある日、カウンセラー仲間の友人に、雑談がてらこの話をしました。自分でも何をそんなにこだわっているのかわからないのよね、でも、「どうせ大事なのはお姉ちゃんでしょ」っていうのが頭から離れなくて…、と話しているうちに、ふっと、「あれ?」という感覚がしました。私の無意識が何か言ってるぞ…。

実は、母にも似たような痛みがあることを私は知っています。母の場合、自分より妹の方ばかり家族からかわいがられた、という思いがあるらしく、以前はその話をよくしていました。ただ、さすがに年もとってきて、この先はその妹とも仲良く支え合っていかなくてはならない、という気持ちもあるのか、過去の不満を口にしなくなりました。実際、母の妹である私の叔母は今ではとてもしっかり者で(昔は泣き虫だったそうです)、ちょっと変わり者の私の母をとても上手にサポートしてくれる存在です。

でも、母の痛みがなくなっていないことは、何となく感じます。そして私は、どうもその痛みに反応して、そこに重なる自分の痛みを強く感じていたようなんです。共鳴してしまっていたんですね。そこには、「母を痛みから救い出してあげたい」という願いもあったようです。

これって「癒着」なんですよね。自分の感情と相手の感情がいっしょくたになっているわけですから。

ともかく、どうも私自身の痛みは、さほど大きなものではなかったみたいです。確かに姉を優先されたという感覚はありますが、いろいろな事情を考えると仕方がないとも本当に思うんです。

母は病気がちでよく入院していて、いつも親戚に預けられていた姉。一方、7つ下の私が産まれた頃にはかなり回復していて、母のそばで育った私。母が姉に対して「十分なことをしてやれなかった」という負い目がある、というのは、私も親となった今はよくわかります。ですから私たち姉妹が大きくなってから姉を優先するように見えたのは、母なりに愛情のバランスを取ろうとした結果なのでしょう。

ということで納得できる気持ちがあるのに、しつこくこだわってしまうことが本当に不思議だったんですが…。

共鳴、母を救いたいという思い、癒着。そんなものが隠れていたなんて、自分でも驚きでした。っていうか、気付いてみればこれは心理学の親子関係の基本的なこと、なんですけどね~、いや~、自分のことは見えていないものです!はっはっは~!(と笑ってごまかしたい気分です…)

無意識の声に耳を傾けてみて、どうやら母の痛みに共鳴してしまっていた、ということに気付いた瞬間、私のこだわりはすうっと小さくなりました。そして、まるで憑き物が落ちたように、心は平静を取り戻しました。

あれれ、何をあんなにこだわっていたんだろう???

って感じです。

えっと…、あー、特に考えるようなこともないなあ、あー、以上ですか、ふーん。

って感じです。

でも、ちょっとこじれてしまった母との関係をどうしたらいいのかなあ…。でもまあ仕方ないしなあ…私だって悪気があったわけじゃないし…流れにまかせるかあ…。

今回の憑き物事件、これにて一件落着、ということにしておきましょう。

心って本当に不思議。ミステリアス。これだからはまってしまうんです。


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2010年10月 5日

伝えていますか、本当の気持ち ~~コミュニケーションの真髄~~

 自分のやりたいことが わからなくなった。
パートナーのことを好きなのかどうか わからない。
 
 これから仕事を探そうとするとき、やりたい事が把握できていない。
 離婚の危機かもしれないけど、あるいは結婚を控えているけれど、本当にパートナーを愛しているのか、自分の気持ちがわからない。

 こういった内容は、実は随分な割合を占めているのですが、伺っていくと大抵は、ああそうなんだな、と言う手ごたえがあることが多いものです。

 たとえば、一流大学を卒業し、誰でもがなれるわけではない職業に就いているのに、上記の疑問があるような場合も多いのですが、自分で選んでいると言う感覚が麻痺しているようなときに多いと思います。

 実際には、自分で選んで進学し就職しているのですが、どこかで他人ごとのように感じていたり、あるいは必要以上に「何らかの」責任を感じていたりするケースに遭うことがあるのですが、これはじっくり話していると、多くはあることにぶつかります。

 それは、両親が願っているだろうと思っていたことを自分が叶えている、と、どこかで感じている場合なのですが、いくら自分で望んだ生き方であっても、満足ができない状態が起こってしまっています。

 これは、パートナーシップ、特に結婚に関しても多く、相手のことを嫌いではないけど、親が気に入ってくれそうとか、時にはもっと消極的に、これならば反対されないだろうと言う相手を選んでいる場合。これは、自分の想いが解らない、と言う状態になってしまうことが多いのです。

 年数がかかればかかるほど、取り返しはしんどくなります。もちろん、無理ではないですが、軽自動車でUターンするのと、大型トレーラーでUターンするのと、くらいの違いがある気がします。

 私たちカウンセラーから見ると、ご主人のこと、奥様のことを本当に好きだからこうなっているんだな、と感じるのですが、ご本人にはそうは思えないくらい、しんどい関係になっていることがあり、もうごめんだわ、と言うことになってしまうことも。

 私を挟んだ年代と、それ以上の年代に多いのですが(もっと下の年代は、『好き』を上手に感じ、伝えられる方が多いと思います)、どこかで仕事も結婚も義務になっているからです。

 そのルーツのは、多くは親由来。これは私たちより上の、「団塊の世代」にも多いのですが、それより上の世代は、ある日(終戦記念日)を境に、与えられていた価値観そのものがひっくり返ると言うことがあったために、アイデンティティを持ちづらいか、逆に頑ななものにしないと生き延びれなかったのではないか、と私は個人的に考えています。

 人生のすべてを「戦後の復興」にかけてきた、私の親世代です。この世代の方々の努力でこの国は目覚しい進化を遂げたのですが、かたやで、子供世代への理解は皆無と言った状態であった、と言っても過言ではない気がします。
 
 まあ、それどころじゃなかったんですね。親なりの愛情は、もちろんたくさん戴いているわけですが、子供を理解すると言うことは、後回しにならざるを得なかったのだな、と思います。

 自分がいいと思うものを与え、自分たちが「善し」としてきた生き方を子供に望むのですが、遺伝子はその体に脈々と流れていても、育った社会はまったく違っているわけですから、情報の大海に泳いでいるような私たち世代(前後の世代を大きく括ってしまいましたが)の多くは、親の理解を求めて続けて、あるいは諦めて、生きてきている、と思います。

 自分の住む社会でありながら、少し退いた目で見ると、旧態然とした生き方は、親世代が思うほど楽ではないし、安定するわけでもないのですが、どこか信仰とか時には妄信のようにも見えます。

 そういった背景や地盤があると、好きなもの、愛している人を自分に与えにくくなってしまいます、たとえ目の前にあり、実は手に入っていたとしても。
 
 最高のものを受け取るには、大げさな言い方かもしれませんが、全身の血を入れ替える、くらいの気持ちが要るのかもしれませんね。

 昨今、人生のまさに『有終の美』を飾る姿を目にすることが増えましたが、まだ充分に若い年代で思わぬ病魔に冒された自分を悔やみながら、惜しみながら、おそらくは最後の力で、誰かに何かとても大切なことを伝えて去るその姿は、神々しいものです。

 たった一本動く指で、配偶者の手を握り締める姿。開いているけれど(と言うより、もう閉じれないのですが)見えているかどうか解らない瞳で、大切な人の姿を追っている。

 語りかける優しい声に、何とかして応えようとする姿は、美しく切ない。

 それでも、間に合ったな、って思います。伝えることができてよかったな、と。

 そういう姿に出逢うたびに、私もまたそのために生まれてきたんだな、と感じます。

 でもね、元気な時には難しいんですよね。恥ずかしさもあるし、今までの積み重ねで、またどうせ解ってもらえない、無視される、って思ってしまうんですよね。否定されるのは、誰だって怖いですもの。

 今、ちょっと振り返ってみませんか?素直な気持ちで生きているかどうか。

 できているな、と思ったら、それはもちろんOKです。言うことなし。

 なんか違うな、ずれてるかも。そんな風に思ったとしたらそれは、チャンスだと思います。自分が一番ほしいもの、抱きしめたいものに正直になれる時ではないでしょうか。

 全身の血を入れ替える代わりに、勇気のエッセンスを1滴。

 あなた自身が今より輝くために。輝いたあなたを待っている、誰か(何か)のために。


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