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2010年5月25日

会いたい人に会える壷

 僕の祖母は、女手一つで実家の料理屋を築いた人ですが、その気質
もいわゆる豪傑と言っていい人で、まるで島田洋七さんの
「がばいばあちゃん」の話のようです。

 そんな祖母にはたくさんの逸話があって、店に脅しをかけにきた、
やくざまがいの男達を一喝した事件とか、試作段階のラーメンをお客
さんが食べてしまった「ラーメン不味い事件」など、紹介したら一冊
の本が書けてしまうのではないかと思うくらいです。

 祖母は、豪快なところだけでなく、人間としての器の大きさも持ち
合わせていた人でした。
 我が家の宗教は、日本ではとてもオーソドックスな宗派の仏教です。
 僕の父も、孫である我々兄弟もお盆とお正月等、節目の時にしか
きちんと仏壇にお参りをしないアバウトな仏教徒ですが
(自慢出来ることではないですけれど)、祖母は、敬虔な信者だった
ように思います。

 面白いのは、それにもかかわらず、祖母は世界にあるすべての宗教
を認めていたことです。
 祖母は、NHKの宗教の時間を毎回観ていたのですが、仏教だけでな
く、キリスト教をはじめとするあらゆる宗教の話について熱心に耳を
傾けて、結局どの宗教も根本は同じだと語っていました。


 さて、そんな祖母の逸話の中でも僕がとても印象に残っているお話
を書かせていただきたいと思います。

 それは、タイトルにあります「会いたい人に会える壷」を祖母が見
せられたという話です。

 これは僕がすでに成人して、祖母が悠々自適な隠居暮らしができる
ようになってからの話です。
先にも書きましたように、祖母は自分の信仰する仏教を大切にしてい
ましたし、人間的にもよくできた人だったので、胡散臭い話には全く
反応しない人だったのですが、ある時、どうしてもやむえない事情が
あり、少し怪しげな団体の本部に行くことになったそうです。

 祖母が案内されたその場所は、とてもしっかりとした建物だったか、
部屋だったそうで、中にはきちんとした方が、なにやら宗教めいた話
を祖母に向かって丁寧に解説をしてくれたそうです。
 祖母はこの種の話を聞いても、自分が納得できることは素直に聞く
し、納得できないものは最初から相手にせず、きっぱりと「この部分
が矛盾している」と言える人でした。

 そうした祖母の態度をみて、その相手の方は、話を切り上げて、
祖母のところに大きなりっぱな壷を運んできたのだそうです。
 そして、この壷について、説明し始めました。
「この壷は不思議な力のある壷です。この壷をのぞくと、会いたいと
願う人に会うことができるのです。」
「あなたも会いたいと思いながら会えない人がいるでしょう。その人
にもう一度会いたいと思いませんか?。そう思ったら、この壷をのぞ
いてみてください。必ず会うことができます。」

 さて、その時、僕の祖母はどうしたと思われますか?


 もし、あなたの目の前にこうした壷が置かれたら、
 あなたはどうしますか?。
 
 会いたいと願っていても、会えない人がいるとしたら。
 例えば、もう亡くなってしまった大切な人がいるとしたら。
 事情があって、会うことができなくなっている
 大切な人がいるとしたら。

 僕だったら、のぞいてしまうかもしれません。
 僕は、親しい友人を何人か亡くしています。
 また、会いたいと思ったことはあるけれど、今どこにいるのか調べ
ようがなくて会えずにいる人もいます。
 そうした人の顔を見てみたいと思うのは、自然な気持ちである気が
します。

 祖母にはたくさんの亡くなった親しい人がいました。
 また、会いたくてもどうしても会えない人がいました。
 その人の顔が見たいと思う強さは、僕の思いをはるかにしのぐ
大きなものだったと想像します。
 波瀾万丈な人生を送ってきた祖母だからこその強い思いがあった
はずです。


 さて、祖母はどうしたか。
 祖母は、壷を持ってきた人に向かってこう言ったそうです。

 「わしゃ、瞼を閉じればいつでもその人に会える。
  壷なんかいらんわえ。」

 祖母はそのまま外へ案内されたそうです。

 祖母もかなり高齢になり、今ではこの話の詳細はよくわかりません。
 けれど、折に触れて思い出す、僕の大好きな逸話です。


 祖母は、若いときは苦労に苦労を重ねてきましたが、父に店を譲り、
我々孫が結婚して独立してからは、口癖のように「わしゃ幸せじゃ」
と言っていました。
 毎日、好きな畑仕事をしたり花を育てたり、曾孫と遊んだり。
 折々に集まってくると14人を超える大家族になる自分の子孫達と
食事をしたり旅行に行ったりする機会には、いつも「本当に自分は
幸せだ」と言っていました。
 幸せを感じられる時、人は自分自身を愛することができます。
 そして、自分自身を信じることができるようになります。
 祖母が壷を前に語った言葉は、自分を信じることができていたから
こそ、言えた言葉だったのではないかと思うのです。

 人は、自分を信じることがなかなかできません。
 そのために、自分が幸せになれることを信じることができなくて、
意識的にあるいは、無意識に、幸せになれないような言動を起こした
り、問題を作り出してしまうことがあります。
 けれど、逆に言えば、自分を信じることができるようになれば、
自らの人生は大きく変わるとも言えます。

 祖母が自分を信じられるようになったのは、自分の人生を生きて
いく中で、その宗教観や商売を営む上で培った人生観から築き上げて
きたものです。
 どんな方法だっていいと思うのです。
 そのひとつがカウンセリングであると僕は思っています。


 あなたもやってみてください。
 目を閉じて、会いたい人に思いをはせましょう。
 その人はあなたの目の前に現れましたか?
 どんな顔をしてあなたを見ていますか?
 その人はどんな言葉をあなたにかけてくれますか?

 誰だって会いたい時に会えるはずなんです。
 それができない時、
 それは自分が信じられない時なのかもしれません。

池尾昌紀のプロフィールへ>>>

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2010年5月18日

GO!GO! 幼稚園

こんにちは、吉見です。

今年の気候は、変ですね。
桜が散りつつある春先のに、雪が降ったりなんかしてね。
地球の変化を感じずにはいられませんね。

さて、突然ですが、皆さんは幼稚園に行くのが好きでしたか?
ボクは、きっとイヤだったと思います。
きっと・・・というのは、イヤだったかどうかは、はっきりとは覚えてないんですね。
ただ、その当時、おしっこに行く間隔がすごく早かったのは覚えています。

トイレに行って戻ってきたら、ムズムズしてまたトイレ!というのを繰りかえしていました。

心配した母親が、病院に連れていってくれましたが原因不明でした。

いま思えば、幼稚園に行くことへのストレスだったんじゃないかなぁ~?と思うわけです。

どうして、こんなことを思うかというと、我が子が、この春から幼稚園に行くようになりました。

初日は、機嫌よく行きましたが、翌日から夜鳴きがはじまりました。
そして、朝になると・・・

「幼稚園イヤ。おるすばんしとく。」

と、頑なに幼稚園に行くことを拒みはじめました。

これには、困りました。
親側としては、幼稚園の始業の時間も迫ってきます。それまでには、着替えさせたり、ご飯を食べさせなければなりません。

いくら余裕をもって起きたとしても、子供が幼稚園に行くことを察すると、とたんに、どこかに逃げていくのです。

それからは、「我が子 VS ボク&奥さん」の心理合戦が始まります。

幼稚園に強く行くように強要してみたり、帰ってきたらお菓子やジュースを飲もうってアメをちらつかせたり、もしくは、「じゃ、1人でおるすばんしときね。」と部屋を暗くしてみたり。

お菓子やジュースをあげるからなどと言って、幼稚園に行くようなことはありません。ましてや、幼稚園に行きなさい!と言ったところで、「イヤだ!!」と泣き叫ばれるばかり。。。

う~ん。なかなかのツワモノです(>_<)

心理学的に言うところの執着を手放すことでしょうか。
「もぅ、好きにしたらいいよ。」と子供のアマノジャクな気持ちをくすぐるようにするしかありませんね。子供は子供で、幼稚園に行かないといけないと思っているようで、好きにしたらいいと突き放されると、「行け!」といわれればイヤだけど、「行かなくていい」と言われると、気持ちが落ち着かないという気持ちになるのかもしれません。
最後に、「じゃ行こうか?」と言うと、なんとか幼稚園に行くという感じでした。

幼稚園に行くようになってから初めてのお休みの日に、三輪車で遊んでいた我が子が、急に目に涙をいっぱいためて、ボクに言いました。

「パパぁ、ようちえんイヤや。」

その一言をつぶやくと、オイオイ泣き始めました。

「どうしたの?なにがイヤなの?パパに言ってごらん。」
聞いても、ただ泣くばかり。

きっと、なにか思うところがあったのでしょうね。もしくは、幼稚園でなにかがあったのかもしれません。
いきなり、親から離されて幼稚園に行って、知らない子たちの中で自分がなにをしたらいいのか、自分がどのポジションにいたらいいのか、誰と接したらいいのか、すべてが???だと思います。もちろん、怖いし不安だったでしょう。

そして、この子に言われました。
「パパぁ、どうして幼稚園に行くの??」

幼稚園に行く理由って、なんでしょう?

幼稚園に行かせる理由はあります。
お家でできることは限られています。だから、幼稚園では、いろんなことを学んで欲しいし、いろんなお友達に触れて、たくさんのことを吸収してほしいし、そんな環境に慣れて欲しいとも思っていました。
そして、それが後々は、この子にとっていいことだと思っています。

でも、それは大人の理由です。
現時点では、この子にとって幼稚園は、苦痛以外の何者でもありません。

ボクには、しっかりと答えられる理由がありませんでした。
もしかしたら、しっかりとした答えをこの子に伝えることができれば、この子は納得して、明日から幼稚園に行ってくれるのかもしれません。

ある年齢になれば、幼稚園に行って、それから小学校に行って、そして中学校に行って。。。
それが、大人の普通の考えです。

でも、子供は違います。
「なぜ、自分が行きたくもない幼稚園に行かされるのか?」という思い。
そりゃ、思いますよね。自分が行きたいと行ったならまだしも、無理やり連れて行かれているわけですから。

そして、その理由を尋ねても、納得いく答えが返ってこないんですからね。

でも、ボクはこの子の真剣な嫌がりを、「そのうち慣れるよ」と済ますことは、この子に失礼だと思いました。

そして、パパ自身理由は分からないことと、幼稚園に行かせる大人の理由を泣いてる子供に伝えました。

そして、こうも伝えました。

「なぁ、こうちゃん(我が子の名前)。なにがイヤや??なにがあったの??
パパもママも、こうちゃんが言ってくれないと分からないんよ。お友達に悪さされたの?先生に怒られたの?言うのは、恥ずかしいことでもなんでもないよ。

パパもママも、こうちゃんを助けたいのに、言ってくれなかったら、どう助けてあげたらいいか分からないやんか。先生が怖かったら、そう言ってね。そしたら、パパが先生に言うたる。

うちの大事なこうちゃんが、怖がっています!先生が、こんなことした、こんなこと言うたのが、すごく怖かったみたいです!って、パパが先生に言うたる!!だから、イヤやって泣くんじゃなくて、パパやママに言うてな。」

・・・・

「パパ・・・せんせーにいうてくれるん??」
子どもは、ボクに聞きました。

ボクは、思い出しました。
ボクが幼稚園に行ってたとき、先生がお弁当の時間に走り回っていた子に手を上げたこと。
他には、同じクラスの女の子に、いつもお弁当の時間にお箸を隠されたこと。

ボクは思っていました。
幼稚園に行ったら、あの叩かれた子みたいに、自分が叩かれるかもしれないという恐怖。そして、またあの女の子にお箸を隠されるんじゃないかと思って、イヤだったこと。

でも、親には言っていませんでした。言えませんでした。
その理由は分かりません。でも、そんなことを親に言えば、きっと僕は泣いちゃってたと思います。きっと、次から次へと涙が溢れ出てきたと思います。

だって・・・、情けないから?恥ずかしいから?その気持ちは分かりません。

だけど、きっといまの我が子のように、泣いてたでしょうね。
だから、この子になにがあったかは分かりません。だけど、涙があふれ出る気持ちは、少しだけ分かる気がします。

そして、自分の親の気持ちも、いまになって分かるのです。
あのとき、たとえ恥ずかしくて、情けなくて泣いたとしても、伝えて欲しかっただろうなって。

お父さんが、お母さんが、なんとかしたるって言ってくれたんじゃないかなって。

だけど、子どものときって言えないんですよね。
親が忙しそうにしてたり、そんなこと言えば怒られるような気がしたり、恥ずかしかったりしてね。

幼稚園に行くこと・・・、
それは、人として依存から自立に向かう大きな大きな出来事かもしれません。そんな痛みを伴いつつ、人は大きくなるんだと思います。

我が子の泣く姿は、親としては痛いですね。辛いんですね。
だけど、それを見守って、味方になってあげることしかできないんですよね。

どんな方法がいいかは分かりません。
でも、一番の方法は、子どもとともに家族全員で、前に進むことを決めることなのかもしません。


そんな、いろいろと勉強させていただいている幼稚園の春なのです(笑)

吉見太一のプロフィールへ>>>

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2010年5月11日

ゆるし

私の、最近のテーマです。


だれかの考え方や行動を見て、“それはないんじゃないの?”と非難したい気持ちになったり、“あ、それはちょっと・・(^^;”と引いてしまうような気持ちになったりすることがあります。

一言でいうと、だれかの考え方や行動に対して、ネガティブな感情を抱いてしまうことがあるのです。


以前であれば、“まぁ、そうはいっても、それはその人の問題だしなぁ・・”なんて考えて、自分のこととは切り離して考えていたんですね。

所詮は他人が考えること、その人がよかれと思って行動していること。それに対して自分が何を感じたとしても、その人たちはそれでいいと思って考えているのだろうし、行動しているんだろうから、別に自分が何か言う権利もないし・・。まぁ、自分なりに思うことはあるけれど、それをぶつけられても相手は気分よくないだろうしなぁ・・、なんて風に。

よく言えば、見守るスタンス。悪く言えば、見て見ぬふりをしている。
そんな風に、目の前で起こる出来事を見ていました。


ところが、です。

心理学を深く学んでいけばいくほど、それら(私がネガティブを感じる他人の考え方や行動)は、実は自分の内側にも存在するものであり、自分の中にもそれらが存在するという事実を自分が認めていない・受け入れていない、存在すること自体ゆるしていないんだ、ということに気づかされました。
だから目の前の人がそれらを見せてくれたときに、自分の内側にもそれらが在るということを見たくなくて、ネガティブなものを感じることで自分から切り離して、跳ねのけていたんだなぁ、ということがわかってきたのです。


たとえば、他人の考え方を分析しては否定・非難する、そんな人が自分の目の前で話をしているとします。

以前の私であれば、その人に対して、きっとこんな風に感じていました。
“いま、この人は、こういう風にしか人を見れないときなんだなぁ。人を否定・非難しても良い気分にはならないと思うけど・・。それに、言われているこっちも気持ちよくないなぁ。でも、言うなというのも変だし・・、とりあえず落ち着くまで聴いておこうかな。”

シンプルに書けば、“嫌々聴いている”という情態です(^^;;
そして、こういうことが何回も続くと、話に付き合い切れなくなってしまい、その人と距離を取ろうとする、それが私のパターンでした。

でも、「自分以外の人の考え方を分析しては否定・非難する」なんてこと、人間生きていれば、一回はやっているんですよね。意識的にも、無意識的にも。
自分の内側と照らし合わせてみると、当たり前ですが、私もやっていました。
そして、さらに自分の内側を深く覗いていくと、“そんなことをしてはいけない”と裁く自分、“人を非難するなんて最低だよ”と責める自分、“人にやったことは自分に返ってくるんだから”と脅す自分・・
とってもたくさんの、【そんなことする自分をゆるさない自分】と出会いました。

身の回りで起こるいろんな出来事に対して、この考え方(他人を見ていて感じたことを、自分の内側と照らし合わせること)を適用していったときにわかったことがありました。自分をゆるしていない度合いが強いほど、それに比例するかのように、ゆるせないことを目の前でしている人に対して強いネガティブ感情を感じるんだ、ということです。
決して、その人のことを厭(いや)になったわけでもなく、嫌いになったわけでもなく、その要素を内側に持つ自分のことを厭になり、嫌いになっていたんだ、ということに気づきました。


気づいたのはいいけれど・・、じゃあどうしたらいいんだろう?と考えたときに出てきた答えが、『ゆるすこと』でした。

その要素を感じる自分、上記で言えば、「自分以外の人の考え方を分析しては否定・非難する」自分のことを『ゆるして』みました。すると、ネガティブ感覚から解き放たれるのを感じることができたのです。

具体的にどうゆるしたのかというと、「自分以外の人の考え方を分析しては否定・非難する」自分のことを、『そういう自分もいるよね♪』と、良いも悪いもなく、正しいも間違ってるもなく、裁かず、責めず、脅さず、ただただ『人間生きてりゃそういうときもあるよね♪』と、そういう自分の存在を認めて、受け入れただけ、なのです(^^)

『そういう自分もいるよね♪』
『そういうときもあるよね♪』
『そういう自分もありだよね♪』

そこになんの判断も加えず、ただただ、そういう自分がいる、その存在を認める。これが、私にとっての『ゆるす』ということでした。


実際、こうしてゆるしてみると・・あら不思議!^^
あんなに嫌だな~とネガティブなものを感じていたあの人を見ても、自分に対してと同じように、『そういうときもあるよね♪』と思えるようになっていたのです。

別に、その人が何か変わったわけではありません。
私の見方や感じ方が、変わったようなのでした。

その結果、その人を見てもネガティブなものを感じないので気持ちがすごく楽になりましたし、そうなれた自分に対しても、すごく嬉しい気持ちになれました(^^)
やっぱり、人のことは嫌いになりたくないですし、ご縁があって出会った人と距離が出来てしまうのは単純に寂しいですから、そうならずに済んで、すごく嬉しかったのです。心がすごく晴れやかになるのを感じました♪


こうした経験から、私の中で『ゆるし』が一大テーマとなったのです。

私の周りの人は、みんな私の内側の鏡となって、私に何かを教えてくれます。
今回は、『ゆるし』を教えてくれました。

これだから、人との関わりは止められないな、と思います(^^♪
これからもたくさんの自分を『ゆるして』、もっと自由で、もっとたのしい人間関係を築いていきたいなぁと思っています。


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2010年5月 4日

日常のしあわせ

先日、友人からメールが入りました。
その内容は、「モニターでこれがもらえるよっ。ワタシも申し込んだけど、ちなみちゃんもどう?」というものでした。
はて?
なぜこんなメールが入ったんだろう?
と思っていると、ふと何日も前にこんな会話をしていたことを思い出しました。

友達「最近、ネットでモニターやってるねん」
私「へえ~、いいわね。どう?」
友達「いいものや大物は倍率が高いけど、けっこういいわよ」
私「私もやってみたいわ~」

それも会話と会話のつなぎのようなもので、話していたことすら忘れてしまうほどの短時間でした。
でも、彼女は覚えていてくれたんですね。
そして、わざわざメールをしてきてくれたのでした。


数日前に、お部屋の掃除をしていたときのことです。
後輩からの手紙が出てきました。
ちょっとでこぼこしていた封筒に何が入っているんだろう、と思って中身を取り出してみると、ネックレスでした。
かつて、私が彼女がしているネックレスを褒めたことがあり、そのときに、これ安いんですよ~、今度買ってきましょうか~、なんて話をしていたら、そのあとに本当に買ってきてくれたのでした。
「いつも悩みを聞いてくれるちなみさんに、ささやかだけれどプレゼントです」
という手紙を添えて。


さらに、こんな日記が出てきました。
もう何年前のことでしょうか。
飲み会の席で、
「私ね、ちなみちゃんに感謝してるねん」
いきなり、友人が切り出してきたのでした。
話しを聞くと、たわいもないような内容でした。
私は、全く、たいしたことはしていませんでした。
「えー、そんなこと」
「でもさ、うれしかったのよね」
「ふうん……」
「ちなみちゃんはさ、感謝するときにいついつにどこそこでっていう具体性が大切だというよね……。私もそのこと実感しているの」
続いて、彼女の口から出てきたのは、それがいつのことだったかということ。
7年前の○月は、彼女にとっては初めてのヒーリングワークショップ(母体のカウンセリングサービス)で、そのとき私と一緒だったが、
「××のとき、ちなみちゃんが○△って言ってくれたの」
私はびっくりです。
それまでなんとなく絵空事のように思えていたことが、〇年の〇月のこのとき、と聞いたとたんに、急激にリアルに私の心に食い込んできたのです。
本当に思ってくれているんだ、そんな実感がわきあがったのです!!!
そうでなければ、7年も昔の、本当に他愛もないことを、覚えているはずはないと感じたからです。
じ~ん。


全てに共通することは、「私の見ていないところで思っていてくれたこと」なんですね。
私は、知らなかったのです。
でも、ちゃんと、思っていてくれたんですよね。
心の大切なところに、私をしまっていてくれたのです。


そして、きっと。
私の知らないところで、もっともっとたくさんの思いがあったと思います。


このコラムをご覧いただいているあなたにも、似たようなことはないですか?
あなたの場合は、どんなことがありましたか?


私は、愛情の扉を開く鍵があるとしたら、それは「感謝」だと思っています。
ただ、なんの掛け値もなく、与えられた想いを受け取ること。
ただ、静かに受け取ったとき、それが力になる。
誰かに強制されるでもなく、扉が自然に開くような気がします。


だからどうしなくちゃ、とか、こうならなきゃ、ではなくて。
そんなこと考えなくても、自然にそれらはわきあがるんですね。
優しい気持ちになって、他のひとにも優しくしてあげたい、とか。
こんな優しい気持ちを誰かに贈りたい、とか。
私たちは嬉しいことがあると、それを誰かに分かちあいたいと感じる生き物のようです。


「受け取ることは与えること」
「受け取ったものしか与えることはできない」
そして、
「受け取り手に準備ができたとき、与えるものが現れる」


もっともっと、見逃さずに受け取りたいと思うのです。
私を思ってくれるひとは、テレやさんが異常に多いので、あまり大々的にしないんですね~。
だからこそ、見逃さずに、ちゃんと受け取って、ありがとう、といいたいです。
(*^^*)


そんな日常が、なんだか、嬉しいですね。


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