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2010年2月23日

「登り坂」「下り坂」「まさか」・人生にある3つ目の坂 ~上海から送られたCD~

 突然、上海から一枚のCDが送られてきた。

 送り主は、僕が中学生の時に、親の転勤の都合で高校に通うため、しばらく我が家に居候していた 親戚の兄ちゃんからのものだった
 歳があまり離れていないことや、その陽気な人柄から、兄のいなかった僕にとっては、文字通り兄貴として、いろんなことを教わった。
  音楽はその最も大きなものだった。当時、はやっていたフォークソングの流れにのり、兄ちゃんはギターを弾いて、暇さえあればいつも歌を歌っていた。毎日、 兄ちゃんの部屋からは、ギターとともにその歌声が流れ、当時は音楽に疎かった僕に、最新のヒットソングを教えてくれた。自然に僕も音楽を聴くようになり、 今、身近に音楽があるのは彼の影響が大きいと思う。
 大学進学して我が家からは出て行ってしまったが、自ら曲作りをしてライブハウスなどで歌うなど、ますますギターと歌に磨きをかけ、音楽とともに学生生活を送っていた。

 そんな彼も就職して結婚し子どもが生まれ、いつしか普通のおじさんになり、同じように僕も歳を重ねて、大晦日に顔を会うせる程度の付き合いに変化していった。

 ところが、この数年、兄ちゃんの周辺は激変ともいえる出来事が続けておこった。
 会社の倒産、親友の死、離婚。

 何もかも失ったかのような大きな失望の中で、勤めていた時に取引のあった上海の企業の社長から声をかけられた。日本を離れ、海を渡る決意をするのには、勇気は必要なかったのではないかと思う。その身一つしか残っていなかったはずだから。

そして、兄ちゃんに追い打ちをかけるように、兄ちゃんのお父さんが亡くなる。
僕自身も大変お世話になり、慕っていたその死は、我々親戚に大きな衝撃を与えた。
実の父を失った兄ちゃんにとっての悲しみは想像することができないほどたったと思う。
 しかし、こうした激動の流れは、時間と上海という異国の地とともに、大きな変化をもたらしていた。

 彼は、昨年の夏、中国人の女性と再婚をしたのだ。
 そして、今、手元には、今までの人生で少しづつ作り続けた彼の作った歌を収めた自主制作CDが届けられたのだった。

 CDに同封の手紙にはこう書かれていた。

「親友の死 父の死を経て思い描いたことは、とにかく躊躇せずにやってやろうと考えるようになった
CD制作もその一つというか、1番したかったことでした。」

ブログを始めたという兄ちゃんのページにこんな話が書かれていた。
「今の 厳しい時代の サラリーマン
 大企業でもそうだが 特に中小企業の場合 
 入った会社によっては 
 大きく伸びる会社もあれば  しぼんでしまう会社もあるし
 リストラもあるし
 転職できても それが吉とでるか 凶とでるかは 紙一重
 人生には
 登り坂  下り坂 と 別に
 もうひとつの坂
 まさか・・・・・   という坂があると
 以前の 上司の言葉で 教えられたが
 おいらの 人生 まさに その まさか・・と
 いきあたりばったり
 この ふたつの言葉に
 代表されるような 感じで 気がつけば
 異国で 暮らし 働き 歌をたまに歌う人生に・・・
 友が亡くなり   父が亡くなり・・・・
 いきあたりばったりでも 
 生きている間は
 たくましく 自分らしく生きていこう」


あなたは今、どんな人生の坂を歩いていますか?

登り坂でも下り坂でもない「まさか」という人生の坂。
その坂は、当初、真っ逆さまに闇の中に落ちていくような状態を作り出すかもしれない。けれど、実は、今までの状況の中では飛躍できなかった、「大ジャンプ」のための「坂」なのかもしれない。

カウンセリングを通じて、大きな困難を乗り越えて幸せをつかんだ方々の話は、まさにそうした「まさか」の先にあるものだった。

今、もし「まさか」と思うような人生にいるとしても、それは人生が新しい展開をじっと待っている「まさか」という坂を 登ろうが下ろうが、その先の角を曲がったら、新たな何かが待っているかもしれないのだ

きっと兄ちゃんが歩いた道もそうだったのではないかと思う。

今、兄ちゃんは上海で仕事と家庭を持ち、週末には上海のライブハウスで一人で、あるいは仲間とバンドを組んで歌を歌っている。

 僕は、CDの最初の曲を聴きながら、兄ちゃんが上海の地でギターをかき鳴らしながら楽しく深い彼のバラードを歌う姿に思いをはせた。
 その曲の名は「ファミリー」。
 兄ちゃんが日本で家庭を営んでいた頃に作られた、平凡な我が家を歌った曲だ。
 いろんな事があった兄ちゃんだろうけど、あえて平凡な家族の日常が大切だと歌った この曲をCDの最初にしたのが、なんとなく、分かるような気がした。


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2010年2月16日

伝統、慣習、愛し方~~新年の満月に想う~~

 満月が彩る、今年の元旦でした。
 
 子供の頃のお正月の景色はかけらもない昨今。あの頃は羽子板やコマ、凧が並んでいた近所の文具店の、シャッターの白さが冬の寒さを増すようです。


 いつもより随分大きな半紙での、書初め。家の前の路地で、友達や家族と楽しんだ羽つきにコマ回し。新聞紙で作った長い足をつけた凧を、父親と共に自慢げに飛ばしに出かける男の子たち。

 着物をまとった母親が甲斐甲斐しく運ぶ、お節の重箱。薬草を入れたお屠蘇。お雑煮用の、蓋つきのお椀。

 こんな風に、過ごしたお正月を、今年は珍しく思い出していました。

 両親が見せてくれたのはおそらく、自分たちがしてもらったこと、またはこうありたいと思ったこと。それはお正月の風物だけではなく、生活、人生全般にそうだったのだなあ、と改めて思います。


 仕事がら、色々なひとのお話を伺わせていただく中で、ご両親やごきょうだいなどについてのお尋ねをすることが少なくないのですが、それは、例えば、同じ年齢で同性、同じ出身地の方がおられたとしても、ご両親の年代や出身地が違っていることで、その生育歴に違いを感じることが多く、とても参考になることがたくさんあるからなのです。


 私たちの世代は、まさに高度成長期と共に生まれていますので、それ以前の両親たちの世代の苦労は、聞くにとどまります。ただ全般的に言えることは、この国においては、ご本人やご家族(特に親)に第2次世界大戦の影響がどの程度あったのか、が、とても大きな影響力を持つのだ、ということです。

 その世界観を一瞬にして覆された、昭和1桁~15年あたりの方々の新しい日本は、教科書を墨で塗りつぶすところから始まったのだろうと思います。文字通り、全てを覆す作業の第一歩だったことを、親から聞いたことがあります。
 
 その年齢が高ければ高いほど、つまり、自我と共に育ってきた価値観を覆さねばならないのですから、これはとても大仕事になることは想像に難くありません。人間不信、拝金主義といったことが蔓延するのも、無理からぬことだったのでしょう。

 また高度成長期とは、頑張れば頑張るだけの成果が、おそらくは手に入った時代でもあり(お金や地位や数字などのわかりやすい形で)、安定を重んじる風潮も強まっていったと思います。

戦後減少していた人口を取り戻し、社会や文化の再構築のために、頑張っていたその世代の人たちの背景にはこういったことがあった筈です。
 
 しかし、今はそうではありません。第1次ベビーブームに生まれた、いわゆる団塊の世代(昭和22~24年生まれ)の、子供世代、第2次ベビーブーム世代(別名・団塊ジュニア世代、昭和40年代前半生まれ)が、中堅を担っている世の中。 

 国中のどこにいても電話がつながり、殆どの場所ではスイッチひとつで灯りが点る。それどころか、携帯電話でテレビが見れる。世界中のどこにでもメールが送れる。

 こんな世の中を、私自身もまだ影も形もなかったあの頃、誰が想像したでしょうか。

 余談ですが、あの手塚治虫さん(やはり、昭和1桁世代)が唯一、その作品の中で描いていなかったものが、今ではものすごく普及してるものなんですが、何だかお分かりですか?

 そう、携帯電話、なんだそうです。

 あの頃に無かった物に溢れている世の中。取り残されていく気がするのは、私の世代以前の人々だけではなく、もしかしたら、物に溢れている環境に生まれ、なじんできた、私たちの子供世代や、団塊ジュニアの子供世代にも少なくない気がします。

 希薄なつながりが語られて長いこの国。誰に話すことも無く一日を過ごすことの増える人々。

 便利さの生み出した「魔法の国」の諸刃の刃の部分かもしれません。

 
 いろんな方とお話をさせていただく中で、じっくりと聞かせていただく長くは無い時間の中に、こういったことが見え隠れします。

 お正月の風景がかわりゆくのは、些細な変化のひとつなのかもしれません。

 
 70~80年の間に、こんなにも変化のあった時代を、脈々と継がれてきた様々と共に、これからも生きていく私たちには、おそらく、戸惑うことの方が多いのでしょう。

 価値観の多様化の、背景のほんの一部に過ぎないと思うのですが、個々の理解や思いやりの中に、この激しい時の流れを考慮に入れる必要があると、私は感じています。

 それぞれの世代を育んだ「上」の世代の全てが、次の世代にとっては決して正しいものばかりではないと思います。が、そこに込められた願いや愛情まで、否定できるものではありません。

 むしろ、愛情からきたことが多いのですが、そのことが次世代・・・子供たちを苦しめていることだって、実は少なくありません。

 時には、「愛情があるから」の言葉のもと、子供たちに向けられた、子供側からすれば言われの無い抑圧もあり、このことが成長して後にも、心に射す影にことも目立つ昨今です。


 過日、「子ども虐待と子育て支援」*と言う、公開講座に参加させていただいたのですが、その中でも特に印象に残った言葉があります。

 「虐待の定義とは、親の想いの如何(しつけである、愛情があるなど)によらず、子供の側からみてどうであるか」

 現時点で、年齢的・身体的には十分成長していたとしても、幼い頃に負った、親からのプレッシャーによるパターンは、易々とは変えがたいものがあります。これは、大人である私たち、社会で十分な活動をしている私たちにおいても同じです。

 子ども虐待の場面だけではなく、セクハラ・パワハラ・アカハラ等と呼ばれる、時には犯罪に結びつきかねない、対人関係においておこる「捉え方の違い」の齟齬においても、同じことが言えるのではないか、と、聞きながら感じていました。

 パートナーや家族、友人、職場、地域において、さらにはもっと大きな社会的な状況や場面での、問題の種や、時には問題そのものになっていることが、本当に少なくありません。


 そうなると、昔はよかった、と一概に済ませないことが多いと思うのですが、身に染み付いていることが多く、気づいたときには、とんでもない状況になっていることもまた、残念ながらあるのです。

 起こってしまったこと、生きてきた時間や社会の全ては、否定するわけにはいきませんが、そんなことが自分の身にも起こっていたことに気づき、向き合うことは、例えば自分を含む特定の誰かのせいにし続けて生きることを、やめるきっかけになるのではないでしょうか。

 大きなことは、言えません。かく言う私にしても、「パターン」に気づき、直していく途上にあります。いや、これはきっと誰にしても、この世を去るまで続くのでしょうね。

 これからも、繰り返し、変化しながら、個人だけではなく社会自体が成長したり、時には退化したり老化したり、していくのかもしれません。

 さて。

 今年の1月は、満月が2回あったのだそうです。2度目の満月はブルームーンと言うのだそうですが(因みに、”Once in a blue moon”と言う『めったに無い』と言う、意味の英熟語があります)、文字通り青く美しい満月でした。
 
 地球上の、ささやかな国にいる私たちを、あの月はただそこに在り、見守ってくれています。

 親世代が子ども達にして上げられる最高にして最上の愛し方は、もしかしたら、こんな風なのかもしれません。


   *「子ども虐待と子育て支援」
  大阪市立大学医学部看護学科・都筑千景準教授による第137回市民公開講座より



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2010年2月 9日

愛しいカラダ 愛しい私

心と体。これって別々のものだと思いますか?それともひとつのものだと思いますか?はっきりとした答えはないのかもしれませんが、私はこの頃、自分の心と体はひとつのものだという実感を持つようになりました。

以前は、心と体が別々のもののように感じていました。そうとは意識していませんでしたが、例えば、心はがんばろうと思うのに、体が動いてくれない、悔しい、情けない、そんなことを何千回となく思った日々がありました。がんばれないのは、うまくいかないのは、この体のせい、と体を責めていました。同時に、でもやっぱり体をうまく動かせない心が悪いんじゃない?という疑念もあって、心も責めていました。

また、体に嫌悪感を感じていました。体って当然のごとく汗もかくし、排せつもする。欲しくはない脂肪だってつくし、顔にはシワもシミもできる。入浴しなければ汚れて臭う。ニンニクでも食べればかなりの口臭がする。げっぷも出る。体調が悪い時は吐き戻すこともある。そういった生理的な体の反応すべてに対して、何か「汚い」という感覚がありました。

赤ちゃんや幼い子どもは肌もつるつるしててキレイですが、大人になるにつれて、年をとるにつれて、体全体がどんどん汚(けが)れていく・・・そんなふうにも感じていたように思います。ですから、大人になることへの拒否感も持っていましたね。

さらに、どこか自分に生身感がありませんでした。体で生きてる実感がイマイチないというか。自分のことをサイボーグのように感じていました。

『サイボーグ』ってところが我ながら笑ってしまうんですが・・・。『ロボット』より若干は生きてる感があったんですかね~。

ともかく、そのせいだと思いますが、体を大切にしようという気が起きませんでした。頭では、理屈はわかってはいました。体をケアすることは大切なことだと。気持ちのコンディションにも影響しますしね。でも、体のケアをすることにあまりやる気を感じられなくて、がんばってやっていても、ムダなことをしているような、無意味な感じをよく感じていました。

今は自分の体に生身感がちゃんとあります。ふわふわとさまよっていた魂が、体にすとんと入ったような感じです。心と体が切り離せないひとつのもののような感覚を持てます。

カウンセリングの勉強を通して自分と深く向き合うという作業を繰り返す中で、数年をかけて変わってきたのだと思いますが、はっきりと変化を感じることができるのはここ1年ほどでしょうか。

そして生身感を実感できるようになると同時に、私は自分の体を愛おしく思うようになりました。頭の先から足の先まで、体のすべての部分が、細胞のひとつひとつまでもが、一生懸命生きているのを感じるのです。私の体で、生命のダイナミックな営みが絶え間なく繰り広げられているんだ、すごい!、その営みの中で、私の心も生きているんだ、って。

自分の体が愛おしくなると、体に対する嫌悪感を感じなくなってきました。自分の体が汚(けが)れているという感じもなくなりました。体のたるみやら、顔のシミやシワなども、生きてきた証のように思えて、妙に愛おしいのです。

自分の体を愛おしいと思えるようになってから、『自分を愛する』ということがとてもしっくりくるようになりました。

思えば、6年ほど前にカウンセリングを受け始めた頃は(かつては自分がクライアントの側だったのです)、「心だけでもラクになりたい」という思いがありました。体も調子が悪かったのですが、心と体を別々に考えていたので、そういう発想だったのでしょう。そして、カウンセリングを数回重ねた頃、心の変化はまだよくわからなかったのですが、体がとてもラクになっていることに気付いて驚きました。

そんな経験もしているのに、心と体が分離している感覚はその後も長い間あったわけで、私にとってはなかなかに手強い課題だったということなのでしょう。

自分で言うのも何ですが、心も体も年相応にいい感じで成熟していることをこの頃感じます。今年は40代に突入ですが、「年増の魅力を発揮するわよ~!」なんて思う今日この頃です。


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2010年2月 2日

言葉を覚えててよかった

『言葉を覚えててよかった』
父が笑顔でそう伝えてくれました。

私の父は聴覚言語障害者です。
音は全く聴き取る事ができません。
言葉も、父が小学生の時に、父の母にあたる祖母が付きっきりで言葉を教えていました。
祖母がまだ生きていた頃にいつも私に伝えてくれていた事です。

「あんたのお父さんが小学校のとき、いつもろうあ学校に一緒に行ってたんやで。
 そしてな、おばあちゃん学校で教えてはった事、お父さんに一生懸命教えてたんやで。」

当時の祖母も、父が小さい頃に聴力を失ってから、相当の間必死に父の教育に対して一生懸命だったのです。
父の言葉を借りると

「おばあちゃんはとっても厳しかった・・・
 言葉を覚えるまで、ちゃんとしゃべれるまで何度も何度も繰り返した・・・」

相当スパルタだったみたいです。
そして、幼かった頃の父は言葉を覚えるのが相当苦痛で辛かったそうです。


昨年、父が脳梗塞で入院をしました。
一時は回復したものの、退院間際に病院内で転び不自由ではない手を負傷し、両手が全く動かせない状況になってしまいました。
今現在も、毎月少しでも毎日介護をしている母の負担を減らすべく実家に帰って父と一緒に過ごす時間を作り側についている状態です。
そして、ある日、父の入院している病室で2人きりになった時、笑顔で私に伝えてくれた事がありました。

「お父さんな、言葉覚えてて本当によかった。
 おばあちゃんはとっても厳しかったし、覚えるのも辛かったけど。
 でも、こんな状態でもちゃんとお前と話が出来る」

と、嬉しそうに、そして饒舌に話してくれるんです。

父は、元々口話(口を使って言葉を発しそれを聴き取る事)より、手話(手でサインを作りそれをみて会話をする事)を好んでおりました。
そして、私にも強制的に覚えるようにと強く言われ、当時の私は意固地になり口話での会話しかしない、といういわゆる父に対して相当反抗していた時期もありました。

しかし、そんな父が、言葉を使って、それも嬉しそうに『話す事が出来て良かった。会話できるのがとっても嬉しい。』と何度も何度も繰り返して伝えてくれるんです。

そして、その時に病室に看護士さんがやってきました。

「中村さんの娘さんですね。
 お父さんに『痛い?』って聴きたい時ってどう手話で伝えたらいいんですか?」

と訪ねてくださったんです。
私は、知っている限りの手話を看護士さんに身振り手振り伝えていました。
その時、父は嬉しそうに、そして優しい笑顔でその姿を見ていたんです。

その時に、感じた事は『もし、お父さんが“言葉を覚えてて良かった”って嬉しそうに話している姿を祖母が見てたら今のお父さんと同じような顔でお父さんを見ていたんだろうな。』という事でした。

『おばあちゃん、良かったな、お父さん嬉しいって言ってるで。
 おばあちゃんの努力は決して無駄じゃ無かったんやで。』

と思いながら胸が熱くなるのを感じました。

一生懸命、必死に相手の為を想って心を鬼にする事もあるかもしれない。
それをされている方はたまったものではありませんし、相当厳しくする相手を避けたり、若しくは憎んだりする事もあるかもしれません。
しかし、それが数年、いや数十年経った時に『やってて良かった』と感じれる事っていっぱいあると思うんです。

そして、そこには厳しくした側にも、された側にも深い愛情があるんですよね。
心を鬼にする事、そしてその行動の裏に深い愛情が隠れていた事に気づく事、その両方ともにあるものなんです。

父の笑顔と、その笑顔を見て笑顔になっているだろう祖母の顔を思い浮かべてそう思わずにはいられない出来事でした。

皆さんにとっても、とっても辛い事やしんどいと思った中からも何か後々にやってて良かったって感じる事があるかもしれません。

かつての私が、手話を覚える事に反発しながらも、根気づよく手話で会話を徹してくれた父のおかげで、基本の手話での会話が出来るように。

そして今、父は病院でだいぶ動けるようになった手を使い看護士さんに手話を教えているそうです。

そこから、また何かのコニュニケーションの繋がりが広がっていくんだろうなと、ワクワクしている、そんな自分がいます。

中村季代乃のプロフィールへ>>>

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