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2009年9月29日

経験がもたらすもの ~自己嫌悪が自信に~

以前、毎日のトイレ掃除に力を入れていたことがありました。
それも、素手でです。
ちょっぴり抵抗はありましたが、思うことがあり、やってみようと思ったのでした。


気合を入れて、除菌のできるピンクの化学ぞうきん(高額)を、わざわざ下ろしたほどです。
心理学的に見て、トイレは自分の中にある汚いもの(排泄物)、つまり自己嫌悪の象徴になります。
その自己嫌悪を大切に扱うという意味において、トイレの掃除は効果的といわれています。
おのれの自己嫌悪と立ち向かうために、トイレ掃除に取り組み……、といいたいところですが、当時、掃除が開運につながといわれており、中でも水周り、とりわけトイレのお掃除は金運を呼び寄せるという本が数多く出版されていた時期でもありました。
そう、トイレ掃除を始めようと思ったきっかけは、後者説による下心が大きかったことははなはだ蛇足ながら付け加えておきます(笑)。


とはいえ、トイレが清潔なのは、自分が気持ちいいものですよね。
冷え込みが続く冬場も、毎日、床や便器のまわりから便器の中まで、素手で掃除を続けました。
始めたころは、さすがに便器の中に素手を入れるのは、勇気がいりました。
名誉のために言いますが、キレイなんですよ。
ええ、十分キレイなんです。
それでも、やっぱり素手を突っ込むのは勇気がいりました。


ぞうきんは綺麗なピンクのままで、目に見えたヨゴレはないものの、そのあと、必死になってぞうきんをすすいだことを覚えています。
自分の体内にあったものなのに、自分の身体を離れると汚いものになってしまうのは、どこか髪の毛と似ていますね。


続けているうちに、気づいたことがありました。
毎日掃除していても、床とかは結構ヨゴレるんですね。
当時、昼間はほとんど外出して使っていなかったのですが、床を拭いたあとはぞうきんが真っ黒でした。
けれども、便器の中はあまり汚れないんです!!!
もしかしたら、一番キレイかもしれません。
考えてみれば、毎回流すのですから、使うたびに掃除をしているようなものですよね。


これは他のことにもいえるのかもしれません。
自分では嫌いだと思って避けたり隠したりしている部分に対して、キチンと向かい合って、手を伸ばしてみたら、実は、思ったほど汚いものではないかもしれません。
周囲を取り巻くものの方が汚いだけで、むしろ、自分が一番嫌っていた部分は美しいのかもしれません。


汚い表現で申し訳ないですが、私の心理学の先生は、よく、感情とウ○コは一緒だといいます。
ためると、大惨事になるけど、出してしまえばそれだけのことだと。
もう、私たちにとって必要のないもの、それが体から出て行くのかもしれませんね。


私自身、自分が嫌なものである、汚いものであるという観念がだいぶ薄れたのがこの経験です。
だんだん、ぞうきんを、必要以上にすすぐ時間が減ってきました。
汚いから避けなければ、という制限がなくなった度合いだけ、日常での気持ちが楽になりました。
気持ちが解き放たれたように、自由な感覚がありました。


そして、ただ単にトイレ掃除を続けただけなのに、自分を信頼できるようになったというか、心が安定してきたのでした。
自分との約束が、自分に力を与えてくれたようなそんな感じでした。
自分にもできるし、自分がそんなに悪いものではないのだ、と思えるようになったのです。


これは、予想と違い、始める前には想像できなかったような感覚です。
小さいことであったとしても、自分が「体験」したことというのは、どんな説明よりも、インパクトがあります。
それが、世間でよく言われていることであったとしても、以前から知識として知っていたことであったとしても、改めて言葉の意味を知る、そんな感じなのです。
こういうことだったんだ、というような。


私は、問題に行き詰まったとき、新しい分野に手を出すときには、いつでも基礎に戻って、小さなことを丁寧にすることにしています。
「これだけは」という最低ラインをきめ、単に続けるだけ。
もちろん、最低ラインの名のとおり、無理なく続けられる簡単なことで設定します。
実にシンプルです。
でも、一週間目、一ヶ月目、とバイオリズムがあって、やめたくなる時期があるんですよね。
もともと、簡単に続けられることで設定していますから、異常な負担や無理はありません。
文字どおり、精神面での自分との戦いないのです。
ふんばり続けると、底力のような自分への信頼が沸いてきます。
こうやって書くと、トレーニングのようでもありますね。


セラピーの現場でも、がんこなパターンを取り除いたり、未経験・未知分野のビジョンを引き寄せるためには、小さなことでも繰り返すことが効果的といわれています。
でも、案の定といいますか、一般受けしないんですよね。
内容が簡単すぎたり、地味なので、がっかりしてしまうのです。
でも、これほど手堅く、効果(配当)が高い方法はないと思っています。
続けられる要素は、そのこと自体を楽しむことかもしれません。


この掃除は、「素手でやること」と、「毎日やる」、というのが最低ラインでした。
それさえ守れば、使い捨てぞうきんを使ってもOKだったし、手を抜いてもOKだったのです。
例外なく毎日、1~2年ほど続け、私自身、大きく心に変化をもたらしました。
ちなみに、私は手帳に自分で自分を褒める「あっぱれ」コーナーを設けているので、毎日「トイレ掃除した♪」と書き込むのも、達成感というか、けっこう楽しい作業でした。
(単純ですね)


私にとっては成長と発見をもたらしてくれた素敵な体験でした。


最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。



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2009年9月22日

自由と束縛、どっちを選ぶ?

「自由と束縛、どっちを選ぶ?」
そう質問されたら、あなたはどう答えますか?
多くの人は、迷わず「自由」と答えられるのではないでしょうか。

でも、本当に人は「自由」を望んでいるのだろうか。
心理学を学んでいるうちに、この問いについて思いをめぐらす機会がありました。
その時に思い出したのが、以前このコラムで紹介させていただいた石坂尚さんの「石の花」というコミックです。
(池尾コラム「石の花と霧と夜」2008.参照ください。)

この話はとても複雑で、テーマもたくさん深く重いものを扱っている作品で、簡単に紹介することができません。
ですが、あえて、あくまで私個人の解釈でもって、「自由と束縛」について書かせていただきたいと思います。
舞台は第二次世界大戦中。ある二人の親友が全く反対の立場で生きていきます。一人はナチスドイツの将校として、一人はナチスドイツを倒そうと戦う連合軍の一員として。

この二人は、全く違う立場にありながら、それぞれが真剣に世界が平和になるにはどうすればいいか、を考え悩み、行動していきます。
一人は「人は自由よりも、絶対的な正義を持つ支配者に支配されたがっているのだ。」と言います。
一人は「人は自由だからこそ人であり、支配の中には本当の平和はない」と言います。

自由。自由であり続けることはこの社会ではとても大変なのだ。様々な選択肢があり、何が正しく何が間違っているのかわからない複雑な世の中。だったらいっそ、誰かに身を預けて指示どおりに生きていた方が楽なのだ。
そう言われて、自由を信じる彼は、反論することができません。

私がこの話を思い出したのは、「人間にとって一番の怖れは幸せになることだ」という話を聞いた時のことです。
幸せになりたいと思うから、誰だって悩むし、あらゆる努力をするんじゃないの?
そう思いました。
けれど、よくよく考えていくと、この話はなかなかに説得力のある話でした。

もし、今の自分に突然、何億というお金がもらえることになったら
絶世の美女がそばにいて
なんでもやってくれる執事がいて
どんな地位も名声ももらえるとしたら

うーん。ちょっと怖いかも。
当時の私はそう思ったのです。

これは極端な例ですが、実は人は深層心理の部分で幸せになることを怖れていると言われます。
だから、様々な問題を心は引き起こしていきます。

もしそれが本当だとしたら、と考えた時に思い出したのが、先の「石の花」のこのシーンだったのです。

自由であること。
幸せであること。

それを望んでいない人はいません。
それなのに、なぜ、それが実現しないことが多いのでしょうか。
もしそれが、心の奥底では「実現しない」と思い込んでいるからだとしたらどうでしょう。

人は過去の体験から、自分に与えられるのは、こんな程度のものなんだと自らを束縛しています。

私の手に入る自由はこれくらいのものだ。
私の幸せはこれくらいのものだ。

でも、それは自らが縛っていることなのです。
真の幸せ。真の自由。真の平和。
それは理想だ、現実は簡単ではない、そう言う声もあるでしょう。
けれど、真の自由や平和を誰ひとり経験したことがないから、現実がついていかないのだとしたら。
そして、その実現を心の底から怖れているのだとしたら。

あきらめるのは、その怖れを取り除く作業をしてからでも遅くないのではないでしょうか。

私が心理学を学び、実際のカウンセリングの中で実体験として得たものは
自分を癒すことが怖れを軽くする、ということでした。

「石の花」の中で、先に書いた自由を信じる彼の弟が別のシーンでこんな言葉を言っています。

人には目に見えない翼がある。持って生まれたこの翼で、何も怖れることはなく触れてみましょう。
目を開き、耳をすまし、嗅ぎ、味わいましょう。
自由である限り何も怖れることはありません。翼は軽やかにはばたき続けるでしょう。


私は、ここにきて、信じられるようになってきたように思います。
その翼が存在することを。

池尾昌紀のプロフィールへ>>>

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2009年9月15日

Imagine!! ~~想像の持つ本当の力~~

 今は亡きジョン・レノンの遺した名曲に『Imagine』があります。

 天国も国境もなく、ただ空と地球があるということだけを想い描く。

そんな言葉が、ピアノに乗せて始まるすばらしい曲なのですが、すばらしい音楽は、人の心に深い感銘とインスピレーションを与えてくれるものです。

私たち心理カウンセラーは、心の中のイメージを使い、癒しを進めていくことが多いのですが、イメージを使う、ということにどうも抵抗があったり、そんな能力はない、と思われたりすることもあるのですが、イメージ(想像)、というのは人間がもつ、ある意味ありふれた能力ではないかな、と私は思っています。

イメージの力を使った癌の治療法があり(サイモントン療法といいます)、実際に約20年前に、脳腫瘍の子供の患者さんが主治医や家族とで行ったイメージ療法で、脳腫瘍が消失した症例がとても有名です。

また、私はSFも推理小説も子供のころから大好きなのですが、そういった分野にかかわらずフィクションは、作家の頭の中の世界から生み出されたもの。その世界を楽しむことが大好きでした。

余談ですが、感想文は上手じゃなかったな。思ってることを書ききれないんですから。

想像、イメージということは、私たちは日常的に行っていることだと思います。それも、太古から延々と。

たとえば、満月に関して。

満月にまつわる伝説は、世界中にあるようです。月の中に兎、は日本の伝説ですが、さまざまな国に固有の伝説があることは聞いたことがあります。

Lunaticという英語の意味は、常軌を逸したという意味ですが、Luna(月の女神)から派生した月にまつわる単語以外に、月の満ち欠けがもたらす「気分の変化」、いつもならしないようなことをしてしまったり、犯罪が多いというレポートも(真偽のほどは・・・?)あるみたいですし。

狼男伝説もあるし(平井和正さんの狼男(ウルフガイ)シリーズは愛読書だった)、満月には出産ラッシュがあるのは既知の事実でもあるし、不思議なことは確かに多いのだと思いますけど・・・。

月だけではなく、空にはたくさんの伝説があります。

太陽が東から昇る理由。月食や日食の言い伝え。星座の名前の由来。なぜ秋が終わると冬枯れになるのか。

多くの神話を彩るのは、こんな自然現象からのことが多いと思います。意外に、国や地方が違っていても似た伝説・神話が多いのは、自然に対して感じる感性自体に、人間固有の何かがあるのかもしれません。

さて、前述のサイモントン療法で脳腫瘍が消失した小児科の患者さんのイメージ療法は(NHKで放映もされたことがあります)、がん細胞を免疫細胞や抗がん剤が、ミサイルのように攻撃する、というようなものだと記憶していますが、あるとき患者さんが母親にこう言ったのだそうです。

「敵がもういないんだけど、どうしたらいいの?」

そして検査をし、その結果癌が消失していることがわかったのだそうです。

心は、思う以上に私たちの中を占めているのかもしれません。もちろん、イメージ療法に先立つ、ほかの治療があってのことなので、勝手に消えたのではなく、効果がよりあがった、相乗効果があった、ということですよね。

他には、笑いの効果がよく言われますが、ノーマン・カズンズというアメリカのジャーナリストの話がとても有名です。強直性脊椎炎という難治性の膠原病を、入院中に笑うことを徹底的に追求し、寛解させたという事例です。

日本にも、「笑い学会」というのがあり、会員は、医師、看護師、落語家、僧侶、教師、セラピストetc.と幅がとても広いようです。

いろんなことを想像したり笑ったり・・・。

それは子供の仕事だ、と、どこかに追いやってはいないでしょうか。成長するとともに社会で生きていくために切り捨てていった能力が、実は、自分たちをより健康に、幸せにするのだとしたら、いったい何のために人は努力を重ねて生きるのでしょうか。

努力はもちろん、大切です。こんな風に言っている私も実のところ、意外にも努力家だったりします。でも、年とともに「無駄な努力」は減ってきた気がします。その分、子供時代の楽しさをまた、面白がってもいいなぁと思っているのかもしれません。

クライアントさんに、お勧めする話や映画がいくつかあります。これは、それぞれの生き方や個性をもっと、輝かせるのに役立つと感じるので、読んでみたら?観てみたら?とお勧めするのですが、私自身がインスピレーションをいただいたものが、やはり多いです。

というか、子供のころからの愛読書、も多いんです、前述の狼男もそうなんですが。

そのいくつかを列挙しますと、

「となりのトトロ」・・・子供心について
「赤毛のアン」のシリーズ・・・女性が少女から成熟してゆくプロセス
「ジキル博士とハイド氏」・・・人の二面性
「星の王子様」・・・男性的なものの見方について
「スターウォーズ」のシリーズ・・・感情の持つ力について
「インディー・ジョーンズ」のシリーズ・・・男と女の心のメカニズム
「ハウルの動く城」・・・自己嫌悪の男女差
「百万回生きた猫」・・・人生観について
などなど。

私の心は、身長と共にずいぶん前に成長が止まったみたいで・・・。

映画や小説は、それ自体人それぞれの読み方(心理的に言えば投影、ということになりますが)があるので、そのことを伺うだけでも、いろんなことが見えてきます。

作品について見るとすれば、たとえば、「赤毛のアン」の作者はモンゴメリという、女性。「星の王子様」はサンテグジュペリという男性。

女性の私から見た観点と、男性が見た観点はまた違うかもしれないのです。

しかしこうして並べると、何か通しのテーマでできそうな気がしてきた(笑)。

少し違う話になりますが、音楽好きな私、最近では、不思議にも30年以上も前から好きだった何曲かの楽曲が、どれもラフマニノフにインスパイアされた曲だった、ということがわかりました。
当時はあまり考えてなかった、私にとっての偶然性(必然性?)がここ最近出てきて、「想像」することと、「創造」するということは、日本語の音が同じだけではなく、何か心の奥深くでつながっている感じがしたのです。

そんなことを考えていたら、これまた偶然、ラフマニノフを扱ったテレビ番組をやっていて、初演の失敗から自信喪失してしまい、心理療法を受けて再起した、という内容なのでした。

すばらしいピアノ協奏曲を作る、という暗示を受け、作った曲が「ピアノ協奏曲第2番」、私が昔から大好きな曲たちの「イメージの種」の曲でした。

偶然はなく・・・必然かもとよく言いますが、ピアノ協奏曲はとても壮大な曲で、いろんなイメージができる曲。そのエピソードを知って改めて聞くと、あれこれ浮かんでくるものがありました。ここでは今、披露できませんが。

想像するには、もともと何らかの土台があるのかも知れません。でも、想像を絶するとか、想像すらできないことだって、あり得ます。でもそれって、何が、誰が基準なのか・・・。

個々の心の中では今日も、インスピレーションの渦が巻いていることでしょう。それがどんな色で、形で、現されるのか、誰に見せるともなく潰えていくのか・・・それさえも、自分でさえもわからないかもしれません。

「夢かもしれない
 でもその夢を見てるのは
 君一人じゃない
 世界中にいるのさ」

                 (『イマジン』詞/忌野清志郎より)

今はその不思議さや理由を辿っていくよりも、想像する力や、そこから感じられることをもっと使って、その人らしく、有意義な時間・人生を生きるお手伝いができること。

それが、今の私にとっては、一番楽しい想像です。

癌を消失させる、なんて大それたことは出来ないかもしれないのですが、「今・ここ」の等身大の自分自身をもっと大切にできるお手伝いなら、たくさん出来るな。

どうですか?

私と一緒に、想像の世界で楽しんでみませんか?


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2009年9月 8日

娘に教わった幸せの秘訣

娘が生まれてから8ヶ月が過ぎました。

最近は興味の対象がはっきりしてきていて、右に左にゴロンゴロンと寝返りを打ちながら興味のあるものに向かっていく様子は、実に微笑ましい姿なのであります。

不思議なもので、おもちゃよりも、ビニール袋とかおしり拭きとか、おもちゃじゃないものでよく遊ぶんですね。

その多くが「触っちゃダメ!」と取り上げられるようなものに興味津々なので、困ったものです。

触ってみたかったもの取り上げられてしまうと、当然のことながら、フンガー!と吠えます。

そして、「よこせーっ!」とばかりにジタバタしているのであります。

そうして自分の意思を表現するようになった姿を見て、娘の成長を感じるのでありました。


そんな娘が何より大好きなこと、それは、抱っこです。

僕が仕事から帰り、僕の顔を見るや、ニカッと顔をほころばせ、目をキラキラさせながら、抱っこされるのを待っています。

着替えて手を洗ってから抱っこをしようと思う僕は、意味がわかるのかどうかはわかりませんが、「ちょ~と待っててねー」と言いながら自分の部屋に向かいます。

すると、背後からは「フンギャーーーッ!」という泣き声が聞こえてきます。

その声に振り返ると、何とも切なく悲しい顔で泣いているではありませんか。

僕は胸がつぶれそうになりながらも、「せめて手だけは洗わねば…」と洗面所に向かいます。

振り返って一旦目が合ったにもかかわらず去っていく僕の姿を見て、泣き声が一段と大きくなります。

ダッシュで手を洗い、服を脱ぎ散らかしながら娘の元に駆け付けると、娘は僕の目にビシッと視線を合わせながら、アゥアゥと喘ぎながら目に一杯涙を溜めています。

真っ赤になって目に一杯涙を溜めている娘を抱き上げると、娘は、僕の腕の中に収まるまでのわずかな間に、もう泣きやんでいます。

僕の腕の中で僕の顔をじーっと見つめてニッコリ微笑んでいる娘の目は、帰ってきた僕の姿を見つけた時と同じ目をしていました。

その後は、僕の眼鏡を取ろうとして阻止され、僕の鼻をもぎ取ろうとして阻止され、唇を引っ張ろうとした手を僕にバクッと食べられそうになって、驚きながらキャッキャと喜びます。

そんな娘とのやりとりの一時、僕は幸せを感じます。


そして、そんな娘を見て、感心することがあります。

それは、あれほどまでに泣いていたのは一体なんだったんだろう?と思うほどの、彼女の変わり身(?)の早さです。

僕の姿を見た途端にキラキラしたかと思えば、僕が背を向けただけでこの世の終わりを迎えたかのような悲しい泣き声を上げます。

かと思えば、ほんの数秒の間に泣きやみ、目をキラキラさせながら、僕の眼鏡に夢中になっています。

だからといって、僕が背を向けて離れていって、抱っこしてもらえなかったのがそんなに悲しくなかったのかというと、そうでもなく、それはそれは悲しそうで…

さりとて、ずっと悲しみ続けるわけでもなく……


娘は、常に“今”を生きているんですね。

「すぐに抱いてやれなくてごめんよ~、でも手を洗わないと、バイ菌がついちゃったら困るから…」などと、過去のことをクヨクヨしながら言い訳をしている僕とは違い、

「少し前まではすごく悲しかったけど、今は抱っこされているのでうれしい♪」

「抱っこされてうれしいけど、今は眼鏡に夢中!」

そんなふうに、“今”あるもの、“今”感じる気持ちのままに生きているのです。


「“今”あるもので感じられる“今”の気持ちをそのまま感じて生きることができれば、もっともっとたくさんの幸せや喜びのある人生になるんだろうな…」

彼女から、そんな幸せの秘訣を教えてもらったように思うのでありました。


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2009年9月 1日

本当に欲しいものは何??~過去の忘れもの~

以前、心理学のセミナーに参加していたときのこと・・・。
欲しいものは、何ですか?という質問がありました。
そこで考えついたことを発表していくわけですが、欲しいものを話しているはずなのに、自分の様子がおかしいことに気づきました。
欲しいものを話しているとき、わくわくして笑顔になったりしそうなものですが、
話せば話すほど、どれをとっても嘘っぽく感じて落ち込んでいく私がいました。
おかしいことには気づいているのですが、原因が分からずモヤモヤした時間を過ごしていました。

そして、セミナーは進んでいき、ヴィジョン(未来像)を思い描くというテーマでセミナーが進行されました。
未来像は自由に描けるはずなのですが、私のテンションは、ますます落ちこんでいきます。
それでも、原因が分からず、更にモヤモヤする自分がいました。

欲しいものを考えることと未来像を描くこと、私にとっては、どちらも落ち込む内容ではないと自分では思っていたので、
頭の中には『???』がいっぱいでした。

もちろん、心理学的にいえば、欲しいものの話で落ち込む時は、『手に入らない』と思っていると考えることができますし、
ヴィジョン(未来像)で落ち込む時は『ポジティブなヴィジョンは手に入らない』と思っていると考えることができます。
でも、それに当てはまるとも思えず、当てはまるとしても、何故、自分がそう感じているかが分からずにいました。

そして、この様子の納得いかない様を仲間に話すると、仲間がこういうのです。
未来に答えがないのなら、過去に答えがあるのではないかと・・・。
カウンセラーをやっていても、自分のことは見えませんね。
そこで、私は過去に答えを探すことにしました。

しばらく、思いめぐらすと・・・

ありました!!
私の欲しいもの、それは『仲の良い家族(育った頃の家族)』でした。

新しい家族を作ることは、今からでも可能ですが、私の両親は離婚していますので、もうそれは叶いません。
それは充分理解しているつもりでしたし、過去の話だと思っていました。
『大人だから』
『終わったことだから』
『もう、望んでも手に入らないんだから』
いろんな理由をつけて、私は1番欲しいものをないものにしていたことに気づきました。
1番欲しいものを、抑圧したり、ないものとして扱うと、世界はモノクロになってしまいます。
自分にとって、1番価値のあるものですからそれをないものとするとなると、
それ以外のものに価値や魅力を見れなくなってしまいます。
それが分かった時、見つけてもらえた感情がぽろぽろと涙となって流れたのを覚えています。
1番欲しいものを認めることができたときに、景色はモノクロからカラーに変わっていきました。
1番め以外の欲しいものを欲しいものとして感じることが出来るようになりました。

私たちは、欲しいものが手に入らないと感じた時に、本当は欲しいのに『もう、いらない!!』ということをよくやります。
それをやり続けると、欲しいものは欲しいものとして認識されません。
そして、認識されないものは、手に入らないんです。もったいないです。

今回の私の欲しいものは、もう手に入らないものでしたが、これを欲しいと認めることで次なる欲しいものを認めることへの一歩になりました。
欲しいものが見つからないとき、それはどこかに欲しい気持ちを忘れてきたときかもしれませんね。

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