« 2008年8月 | メイン | 2008年10月 »

2008年9月30日

両親の夫婦喧嘩で学んだこと ~癒着を手放す~ 

ワタクシの実家は食堂を営んでおります。

両親はその昔、父が経営していたお店に母がアルバイトとして入ったことをきっかけに結婚。それから40年近いこれまでの歳月、業態を何度か変更したものの今は食堂に落ち着き、家族経営の小さなお店をずっと続けています。

自宅兼職場の小さな空間に24時間一緒にいる父と母は、「チャーミーグリーンのようなラブラブカップル」(例えが古いですね)というわけではないけれど、口も利かないくらい険悪というわけでもない。でも、夫婦喧嘩は日常茶飯事で、時々は食器が飛び交い、夜中に大声が響き渡ることもある。そんな、下町にありがちな夫婦でした。

今から2年前のある日、私が職場から家に帰ると、不穏な空気が家中に充満していました。夫婦喧嘩はいつものことだけど、その日は少し様子が違うようだったので、とりあえず、(いつものように)喧嘩して興奮している2人の間に入り、話を聞くことにしました。

話を要約すると「この不景気の中、もっとがんばらなきゃだめなのに、母が協力的ではない」と、父の怒りが爆発した様子。 その中で「店をたたむ」「生か死か」という話にまでなり、それが不穏な空気の正体のようでした。

話すうちにどんどん感情的になり、激高する父。
父の怒りが収まるのをダンマリを続けて待つ母。

2人の間に入りながら、父の、「一人でいろんな経営判断をしなければならない。女3人、男1人の家族で、誰にも認めてもらえない孤独。」母の「無力感と、失敗したらどうしよう、という恐怖感や変化への恐れ。怖くて動けない」というような感情が勝手に私に流れ込んできました。
そして、私自身は、「小さいときからこうやって親の喧嘩の仲裁してたな・・・。」「両親が喧嘩するのは2人の問題で、私がいくら仲裁しても2人が喧嘩をするのは、私が失敗してたわけじゃなかったんだな・・・。」「夫婦喧嘩は犬も食わない、っていうけど、子供が食べてもだめなものだったんだなぁ・・・」というようなことを感じていました。

その日は3人で話し合い、「みんなで協力しあっていこうよ」と、納得しあって終了。私は会社勤めだったので、PCでのメニュー作りなど外部的なサポートをすることに。

翌日の営業終了後もまた3人で話したものの、前日よりは穏やかな雰囲気でした。


当たり前のことなのですが、父も母も私も、別々の人間。
父と母の関係性
父と私との関係性
母と私との関係性
父と母と私の関係性
は、それぞれ似ているけど違って当たり前だし、
なにより、「父と母の問題は私自身の問題ではない。」
そのことが、感覚的に、でもはっきりと理解できた夜でした。

それまで、家族の中の関係性はとっても近くて、その為に境目がわからず、私自身の中でごちゃごちゃになっていました。

「境目がわからず、ごちゃごちゃしてしまって何もうまくいかない」
これは、私のパターンのひとつでした。
例えば仕事では、「どこまでやっていいのか」がわからず、人の分まで奪ってしまいどんどん仕事が増えて終わらなくなる。 → 仕事の質が下がる → 評価が下がる → 自分を責めてもっとハードワークをしてしまう
例えば人間関係では、友人の問題を自分の問題として解決しようとしてアレコレ指図したり、自分で引き受けてしまう → なぜかうまくいかなかったり、友人から恨みを買う結果になってしまったりしてしまう。
例えば恋愛では、彼の人生=自分の人生になってしまう。 → 彼氏が自分と同じ行動・考えをしてくれないことに怒る、不安になる → 破局 ・・・・

この状態を「癒着」というのだと、心理学で習いました。そして、「癒着は手放す」と、問題が解決するのだとも。
家族は、それぞれ別の人間なんだ、そう認識することが、私にとって手放しになったようです。

3ヵ月後、私は自宅暮らしをやめて職場近くで一人暮らしを始めました。
そのときは、仕事が忙しすぎて通勤の時間がもったいない、というのが理由だったんですが(仕事が忙しすぎた理由は上述の通り)、心の中で両親との境目ができ、距離が取れるようになって、物理的にも距離をとりたくなったのだと思います。

両親とくっついている人生よりも、自分自身の人生を歩み始めたくなった、と言うと、カッコつけすぎかもしれませんが、以前よりもずっと「距離」の取り方が上手になったことで、今の自分が生きやすくなったことは確かなのです。


伊藤歌奈子のプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2008年9月23日

考え方の違いから学ぶ~私と主人の場合~

お久しぶりです。小川のりこです。
このコラムに登場させて頂くのは、本当に3年ぶりでしょうか。
それでもとても嬉しくもあります。またちょこちょこお邪魔させて頂きます。
よろしくお願いいたします。

ブログの方では、何度も書かせて頂いてるのですが、私は父の暴力といじめの生活が余りにも長すぎて、

・人の目、評価を異常に気にする。
・役に立たなければ・・・という考えが強い。
・人から嫌われるのがとても怖い。
・いつも自分が悪いのだと感じてしまう。
・今の自分を認められない。
・人が怖い。自分が大嫌い。

など、本当にいつもいつも考え方が後ろ向きだったんです。
随分マシになって来ましたが、それでも今も、何か起きてしますとやはり、考え方が上のような傾向に偏るようなこともあります。

私がカウンセラーとして、たくさんの方の話を聞いていると、皆さん私と同じ環境で生きてきたわけではないにしろ、やはり悩む限りは、上のようなことを感じたことがある人も多いようですね。

そんな私がここから楽になっていくのには、私のもっとも苦手とする人種の人との出会いが、とても大きかったのです。
それは、昔、ずっと私の”敵”だと感じていた側の人。

実は、今の主人です。

主人との普段の生活を、ブログでたくさん公開しているため、皆さんからは、出会いからとてもいいスタートを切ったと思われることが多いのですが、実は逆なんですよね。
彼のようなタイプの人は、私にとって苦手で、正直”敵”だったんです。
今では笑い話になっていますけどね。

自分にも他人にも厳しくて、人にはあまり関心がなく、来るもの拒まず去るもの追わず、女性に対しても興味がないのか、親しげに話しているところも見ることがなく、私が仕事上(同じ職場でした)分からないところを聞かざるを得ない状況でも、常に厳しい人。
それが、主人でした。

私:「…がなかなかうまくいかないんです。」
主人:「ああ、これはこの”ヘルプ”見たら分かるから大丈夫。」
私:「見たんですけど専門的すぎて理解出来なくて。時間かかると思います…。」
主人:「でも時間かければ出来るやろ? とりあえずやってみ。」
私:「(ちょっとでも教えてくれよ。)」
主人:「そんなに急ぎでもないし一日かけたら出来るよ。(言うだけ言って去る…)」
私:「(他の仕事も抱えてんだよ、ばけやろーー!!)」

教えてくれないんですよ。やれば出来るの一点張りで。
まあ私の本音は”したくねーんだよ!”だったんですが…。
彼と結婚して、私も彼に学ぶこともたくさんあって、お互いに歩み寄ることで、随分変わってきたのですが、あの時は本当に厳しい上司でした。

「愚痴るより、先に頭で限界まで考えろ。」って感じでね。

男性社員に対しては少し見下したような話し方をすることもね。

「なんでそんなことすらわからへんねん。」って。

不親切な言い方だったし、彼のいらいら感が見てて分かってしまいました。
だから苦手だったし、嫌いだってほどではなかったけど、彼には無関心でしたね。

だから彼が私を見てくれていたのは意外でした。

私と彼の決定的な違いは、考え方です。
私が抱えた不安や心配を全部前向きに、気楽に捉えるんですよね。
羨ましいくらい超ポジティブ思考なんです。私はなかなかそんな考え方にはなりません。

私がそうですが、ネガティブ思考になるのは自分に自信がないからだと思います。それも極端に。
私だからきっとこうなる…。こんな自分がやるのだから…。
自分への評価が低いですから。

ポジティブ思考の人は、自分に自信があるわけではないと思いますが、暗く考えるのが嫌で、明るく捉える方がうまく物事が運ぶだろうということを、無意識に感じているのではないでしょうか。

私:「あなたはいつも前向きだから私は随分助かってるけど、そんなふうに考えられるのが羨ましい。」
主人:「俺はなんでそんなに君が、人の評価を気にするのかなって思う。確かに俺はいじめの経験はないし、君の経験は俺には想像できないほど凄まじすぎてちょっと考えられない…。だから根本的なところではきちんと分かってあげられてないかもしれないけど、君の生き方がしんどそうに思ってしまう。」
私:「まだ怖いんだと思う。人から名前で呼ばれることすらなかった自分が、この世に生まれて来たのは神様の手違いだって本気で思ってたから。でもそんな私と全く違う考え方のあなたも、悩みがなく生きてきたわけじゃないでしょ?苦労や苦痛もあったはず。なのに周りのことって気にならないの?」
主人:「気にならないわけじゃないけど、基本的には誰に何を言われようが気にしたくないししない。自分が納得してたらそれでいいし…。人がどう思っているかなんて、無意味やわ。しんどいだけやん。言わせてたらいいって思う。自分のこれからの人生に直接関係ある人ばっかりちゃうし。」
私:「…まあそうだけどね。…羨ましい…。信頼できる部下とか上司とかはいる?」
主人:「…信頼って何なんだろ…。って思う。」
私:「私個人の意見だけど、何かあったときに必ず力になってくれるとか、頼りになるとか、どんなことが起きても自分を見てくれるとかいう強い絆じゃない?」
主人:「ああ。それなら俺はあんまり必要としてないかもな。何かあったときに助けてもらいたい…なんて概念がそもそも俺にはないんだよね。自分がなんとか越える力のある男になりたいって思ってるし、助けて欲しいなんて考えほとんどないわ。
君に助けて欲しいという気持ちはあるよ。ようするに自分の家族が助けてくれたらそれでいいと思ってるわ。」

人が嫌いなわけではないし、頼られることも全力投球する人ですが、自分が助けてもらいたいという感覚はないようです。それが彼の常に前向きな考え方と繋がるのかもしれません。

私たちの人間関係ってある意味とってもはっきりしてると思います。
自分と似たような考え方を持つ人に対しての安心感はありますが、嫌なところが似ていると見たくないと思ってしまうものだろうし、全く逆の考え方を持つ人は、自分がそうではないので反感を持ったり理解したくなくて近寄らなかったり…。

私もそうでした。

自分と違う考えの、主人の世界は理解できなかったし、彼が私を好きでいてくれていることが分かっても嬉しい…とは思わなかったんですよね。びっくりしただけで。

だけど今は思います。
彼と結婚して、本当に本当に良かったと。

このまるっきり違う考え方を持った人との関わりは、自分の偏った価値観を無くすお手伝いをしてくれるのは間違いないと経験からもそう思います。
私は自分が大嫌いだったから、誰かに褒められることで、その人に依存して助けてもらいたいという思いがすごかったです。主人はそんな私を助けたいという気持ちもあったようですが、見てていらいらする部分も多くあったと思います。

主人は言います。

人がどう思おうが、自分が楽しいと本当に思えれば人は幸せ。
その自分の幸せに対してどうこう言う人がいるならば、それはそう感じている人の気持ちの問題であって、こちらには非はないし関係がない。
だけど、そう思えない人もいっぱいいて、その人たちのお手伝いをしたいとカウンセラーをしている君を、僕は尊敬するし、そこから学ぶこともたくさんあると…。

私みたいに自分のことをなかなか受け入れられず、常にネガティブに考えてしまう私には、この言葉はとても救われました。
一方主人の方も、みていていらいらする部分を持っている私からは、人に対しての接し方や考え方を今までとは少し違う、共感することで相手を理解するという気持ちを随分学んでいき、それを会社の部下に対して活用しているようです。

生きている限り、人間関係では、自分と違う考えを持つ方はたくさんいると思います。
そういう人に出会うと気分は悪くなるし、ストレスも溜まるだろうし、いっぱいしんどくなる状況を作り出してしまうと思います。
だけどそれらの人と接するのが苦しくて逃げているばかりだと、自分は変わることはありません。
だからといって、しんどい状況なのに、無理して関わる必要もないと私は思います。

ではどうすれば…?

その人の考え方や感じ方を、少しだけでも理解出来ればそれでいいと思っています。

「私は全くそうは思えない…けど、そう思う人が一人でもいるならば、同じように感じる人もいるかもしれないな。
そして、そう感じるにはその人にしかわからない何か大きな理由があるんだろう…。」

これでいいと思います。

「最低!! そんな考え方変やわ! 絶対違うわ!!」

これではそう思う人を完全に排除するだけになってしまうので、自分の考え方が柔軟にはなっていきません。

私も主人の考え方を受け入れるには時間がかかりました。
自分と違いすぎて反発することの方が多かったです。
だけどそんなふうにしか、彼のことを考えられなかった私は、彼の本当の姿を理解しようとせず、自分の考え方を強く彼に押し付けようとすることだけに、一生懸命だっただけだと思います。
今も主人とは話せば話すほど??も多く出てきますが、その違いを今は楽しいと感じることも出来ました。
これだけ違うと彼の口から出てくる言葉一つ一つが私にとって未知なこともあります。だけどそれが私を向上させてくれます。楽にもさせてくれます。

皆さんの身近な方で、全く自分とは違う! 理解できない!! という人はおられますか?
最初はすごく嫌だろうし、気分悪いと感じることも多くあると思いますが、だからこそ、そんな相手の考え方は、時に大きな刺激になりますし、男女関係であれば、特に、魅力的に感じる部分でもあると思います。
だから私は主人を好きになっていきました。
そんな人の考え方に、少しだけ真剣に耳を傾けてみませんか?
自分では考えられなかったことや、驚くことの連続かもしれませんが、その人が、将来あなたの一番信頼できる人になるかもしれませんよ。


小川のりこのプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (2)

2008年9月16日

ぼく:「昔観た映画でね、あったじゃない、いろいろ話したこと。」
奥さん:「この忙しい時に何言い出すのん。何の映画?」
ぼく:「草薙くんが主役のやつ。あの時話したこと、覚えてる?」
奥さん:「ああ、あの話ねえ。あんたが、ぐだぐだ言ってたやつね。」
ぼく:「あれを思い出してさあ、今」
奥さん:「なるほどねえ・・・」


今年(2008年)8月6日のことです。
僕のおじさんが突然倒れて亡くなりました。
本当にお世話になり、かわいがってもらった方でした。
奥さんにとっても、結婚後はとても付き合いのつきあいのある方だったので
僕達夫婦はそろって驚きを隠せませんでした。

そこで、僕は、昔あったある出来事を思い出したのでした。


僕たち夫婦は、若い時から親友を何人も亡くしています。
しかも、突然であるケースが多かった。

ある時のことです。
僕たち夫婦は、「黄泉がえり」という映画を家で観ました。
(注:昔の映画ですが、観る予定で内容を知りたくない方は、読み飛ばしてください)
この映画は、簡単に説明できるほど単純ではないのですが、
あえて無理にまとめさせてもらえば
あるエリアで、その場所で亡くなった方が、短い一定の期間だけ
生き返って戻ってくる、というお話です。
戻ってきた人たちは、歓迎されたり、戸惑われたりしながらも、
亡くなる前に言い残したこと、やり残したことを
伝え、行うために、限られた時間を残された家族たちと過ごします。
そして、またこの世を去っていくのです。
残された家族や友人たちは、その最後のメッセージを胸に、新しく
人生を生きていこうとします。

当時の僕は、この映画を納得して見終えることができませんでした。
それは、もし、僕の亡くなった親友に同じことが起こったら、
また去っていく時に、あまりに悲しすぎるじゃないか、と思ったからです。
それでも、わずかな時間でも戻ってきてくれるなら、会いたい、そう思う
自分もいました。

なぜだか、ものすごく悲しくなって、この思いを奥さんに伝えたのです。
今思えば、去っていった友人自身がやり残したことを思ったのではなく、
僕自身が彼らに伝え、やってあげられなかったことへの後悔がそうさせていたのでしょう。
自分自身が自分を責めるために自分の中から言わせていたと思います。

そんな僕を救ったのは、やはり奥さんでした。
彼女は僕にこう言ったのです。

「池尾くん。死んだ人はね、けっして生き返ったりしないんだよ。」

その言葉に、はっとしました。
僕だけではなく、奥さんにとっても、同じように大切な友人達です。
こんな話をされたら、奥さんだって友人を思い出して悲しくなります。
僕はそれを忘れて、自らの中ばかりを見て浸り込んでいたのです。
けれど、そんな僕に奥さんは、自分の悲しみをおさえて、
自分の中に浸り込むのと、
自分自身をきちんとみつめて、直面していることを受け入れること
とは違うことを伝えてくれたのでした。

どんなに突然であってもその人には僕たちに伝えるべきメッセージが
その時、すでにある。
もしそうだとしたら、自らの中しか見られなくなれば、そのメッセージを
キャッチすることそのものができないのだと思ったのでした。


おじさんが亡くなった時、思い出したのはこの話だったのです。

そうは言っても。
いくら理屈を並べても、大切な人の死を目前にしたら
誰もが、自分を責めます。
してあげられなかったこと、伝えられなかったことを悔やみます。
その人が伝えたかったメッセージを汲み取ろう。
その人のことを無駄にしないようにしよう。
頭でわかっても、そんな言葉は聞きたくない、と思います。

友人を亡くす度に、僕もそう思いました。
そして、今、おじさんを亡くした時も。

けれど。
今度も、悩みに悩んだすえ、僕が出した結論は、やっぱり同じでした。

亡くなったおじさんの通夜の番、親戚が一同に集まって
いろんな話をしました。
おじさんのこども、つまり、僕のいとこ達は
様々な理由で家を離れていました。
それが、父親の訃報に悲しみながらも集まってきた。
今回のことをきっかけに、家族の絆が戻り始めた気がしました。
大きな変化は何も起こっていません。
でも、こうしてみんなが集まってきたこと。
それだけでも、どれだけ大きな幸せだったか。
この日のことが、この思いがあるだけで、何かが心の中で生またと思うのです。

理屈でわかっていても、悲しすぎる思いは、自分を自らの中に閉じ込めてしまいます。
それは仕方のないことです。
けれど、日常が積み重なっていく日々を送りながら
そして、段々、亡くなった方が伝えられたメッセージがわかるのだと思うのです。

この思いを奥さんに伝えました。

ぼく:「こんなことを思ってたんだよ。
    俺もさ、こういうことがあればいろいろ思うよ、やっぱり。
    でも、それでも、前に進むぞ!って思いが消えないんだよね。
    きれいごとを言うつもりも、無理にがんばって背負うつもりでもなくて、
    何ていうかなあ、決意したって感じ。ただ、決めた。」
奥さん:「そうやねえ。私なんか、今、お腹に赤ちゃんがいるやんか。
    自分の中に育つ命と一緒にいながら、やっぱり思うんよ。
    だから大切にしよう。幸せになろうって。
    あんたと、やんちゃだけどかわいい娘と生まれてくる子と四人でさ。
    それだけだよ。あたしが今、思うのは。」
ぼく:「そういえば、出産ラッシュやねえ。我々の仲間は。」
奥さん:「そうやん。かわいいベビがたくさん産まれるよ。お祝い考えなきゃね」


亡くなったすべての方へ
そして、今を生きるすべての方へ
そして、自分自身と家族へ
心からの感謝と愛をおくります。


池尾昌紀のプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2008年9月 9日

なんて簡単な癒し♪許すという事。

先日、知人ご夫婦の4つになる娘さんと食べ物屋さんごっこをして遊んでいた時のお話。

ガラガラ〜いらっしゃいませぇ〜!何にしますか?(娘さん)
え〜っとスパゲティとハンバーグとポテトで。(私)
少し待っててくださいねぇ〜。(娘さん)
注文すると娘さんが喜んで料理を作るまねごと。
できあがりました。どうぞ♪ (娘さん)
むしゃむしゃ美味しい!(私)

こんなシンプルな食べ物屋さんごっごをして遊んでいた。子供って飽きない。お料理を作るまねの時や食べる時はどこかぶつけてしまうんじゃないか、という位にオーバーアクションではしゃいでいる。

冷静に大人の目から見ればどこが楽しいのかと思うのかもしれない。だけど不思議なもので子供の物語に入っていくと遊べてしまうのだった。
こんな時ってすごく短かった気がする…。

気がつくと食べ物屋さんごっこも5往復くらいはしただろうか。注文するメニューもつきてきて気がつくと、カツ丼やカツカレー、牛丼などと子供はあまり食べなさそうな普段の私の食生活がかいま見れるメニューが出て来てた(笑)
次ぎは私がお店屋さんの番。少し疲れてしまった私は、少しひねりをいれてみた。

ガラガラ〜 いらっしゃいませ〜 何にしますか?(私)
注文を受ける。グラタンとプリンをくださ〜い。(娘さん)
は〜い、少し待ってて下さいねぇ〜。(私)
残してしまったらお尻ぺんぺんですからねぇ〜!(私)
おいしそ〜!むしゃむしゃ、むしゃむしゃ美味しい。(娘さん)
あら〜残しちゃいましたね。もぉ〜お尻ぺんぺんですよ!(私)

そして、私は罰として持っていたぬいぐるみで娘さんをこそばす。
次ぎは私の番。
この時点でさすがに娘さんの子供特有の元気パワーに十分疲れてた私はさらにひねりを入れてみた。(←ちょっと意地悪)
え〜っと、カツ丼とチーズバーガーとソフトクリーム下さい。(私)
は〜い♪できました。どうそ♪(娘さん)
あらら、もう食べれません残しちゃいました…(私)

すると、娘さんは「うん。」とうなずき…

そして、こそばすかと思いきや残した私に対して何もしなかったのです。驚愕!
「残してもいいの?」私。
「うん。」娘さん
「許してくれるの?」私
「うん。」娘さん

驚きをかくせない私…。

優しさってこういう事なんだ。
許すってこういう事なんだ。
優しさってこういう事なんだ。
純粋さってこういう事なんだ。

目からウロコ。
たった4歳の娘さんから許しを得て、一瞬で癒されてしまいました。

想えば小さい頃、いっぱいいたずらしたり駄々をこねて両親を困らせていたのかもしれない。でも、両親は悪い事は怒ってくれたし頑張った事に対しては「許し=許可」してくれたかもしれない。

大人になった今、いろいろな事でつまずき傷つき…些細な出来事が許せなかったりしているのかもしれない。

なんて簡単なんでしょう。癒されるって♪
許す事。認める事。
これだけであなたのハートのキャパが広がる。ハートが開く。

ノスタルジックな、そして癒され考えさせられる出来事でした。


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2008年9月 2日

●Justice ~~~本当の「正義」~~~

 Dark Knight と言う映画を観ました。いろんな面で評判になっていることもあり、この稿を書いている時点では上映中と言うこともあるので、その内容については触れません。

 この映画の主人公である『バットマン』に心魅かれて長いのです。
それはきっと、いわゆる勧善懲悪のヒーローではないから、という事に尽きると思っているのですが、今回は今まで以上にそのことを感じ、考える機会になりました。

 私の好きなヒーローにはもう一人、『ブラックジャック』と言う、故手塚治虫氏の手による作品の主人公がいます。

それこそ恋焦がれて長く(かれこれ30年を越えます)、財布の中には古びれたテレフォンカードがあったり、携帯電話にはストラップに待ち受け画面、と、お前一体いくつやねん!!と言う見苦しさ(?)です。

 どうやら、心の中に闇を抱え、自分なりの価値観を基準に、社会とはぎりぎりの調和を保ち(・・・時にははずし・・・)、命を守る、と言うところが最小にして最大の共通点ではないか。
私が心魅かれてやまないのは、そういったところなんだな、と、改めて感じています。

 話は変わりますが、カウンセリングをさせていただく中で、同じようなご相談内容に一見見えても、実のところは立場やクライアント様の成育歴や職業歴、家庭状況など・・・そして何よりも、個々の価値観によって、進めさせていただく方向性が変わってきます。

 ご夫婦関係・ご家族関係のご相談も多いのですが、
「(クライアント様の)おっしゃる通りでございます」
と言うような案件に措いてでも・・・、つまり、周囲の目から見れば、間違いなく、貴方は悪くありません、と言うようなケースでも、やはり100対0の交通事故のようなケースは、まずないと感じています。

 私自身の体験上でもそうなのですが、時には片方がまっすぐであろうとすればするほど、二人の関係性は崩れていく、歪んでいく、と言うことが少なくありません。

 そういう状況の中で、関係している人々がそれぞれ一番幸せな方向に向かっていけるためのカウンセリングを提供させていただく、と言うことは、言うは易し。
長い時間を要するように感じたり、思った結果(離婚する、もしくは離婚しないなど)が出てこない時や、負荷がかかりすぎる、と感じたり、と、解っていても進みあぐねます。
 
時には、
「ヒドイ想いをしているのは自分なのに、まだこれ以上しなければいけないの」 
「何で私ばかりが耐えなければいけないのか」
と理不尽に感じてしまう、という事に尽きるかもしれません。

 その時点で、浮気をしているのはご主人かもしれません。家事をしてくれないのは、奥様かもしれません。でも、そうではなかった時期のことを、少し思い出してみるだけで、どちらか一方だけが悪いということは案外少ないのかも、と感じていただけるかもしれないと思います。
 そのことが、進むきっかけになることは、案外多いものです。

もちろん、全く非がないのに、ヒドイ相手と結婚したものだ、という場合もないではありません。ただ、ご自身にも何らかの誘因がある場合も、実は意外と多いのです。

なので、誘因を探り、改善を試みれば、関係性自体の変化があることもあれば、必要でない関係性が終わりを遂げることもあります。

 
 さて、何故冒頭に「Dark Knight」や「ブラックジャック」を引き合いに出したか、と言いますと。

 世の中の仕組み、制度、法律、慣習etc.は、秩序を守るためにある。秩序の目的は、どんな人にも公平で公正な生活を守るためである・・・はずです。

 でも残念ながら、往々にして数の論理がモノを言ったり、差配出来うる立場の人たち自身の有利な運びになることが少なくないのは、私(だけではないと思いますが)の穿った見方・感じ方だけではないことを、遠く画面の中においても、身近においてでも、感じざるを得ません。
 
 考えてみれば、「仕置き人」「遠山の金さん」「黄門様」・・・こう言った時代劇の人気があるのも、どうしようもない現実が生んだことなのかもしれません。
 ・・・ついつい、見てしまったりするんですよね・・・。

 道徳、倫理は、法律よりも古いものです。いわば、古い皮袋に新しい酒を注ぐ、と言うヤツですね。その内容は不文律であることが多く、心に響くものだからこそ、形なくしても伝わってきているのだと思います。

でも、だからこそ、例えば時代に支配され、新しい酒を注がれた皮袋は、時には裂けてしまい、解釈が違っていき、その事が守りたかったり伝えたかったことが、後回しの順番になってしまっていることを、日々思います。

Dark Knightを、人々が呼びたくなるのは、今在る状況がもはや本来の目的を逸れ、公正さを保てないどころか、公正さが招いてしまう歪みが出てきた時ではないでしょうか。

ブラックジャックが、医師免許を持たない事を知っても人々が手術を頼むのは、彼が何よりも命を重んじていることを感じているからではないでしょうか。

触法を良し、と私は考えていません。でも、規範が作った不公正・不公平が蔓延していることを、こういったヒーロー達は教えてくれている、と思います。それよりも大切なものは何だ、あるとすればどうすれば守れるのか、と問いかけているのだと思います。

もちろん、理由があれば何をしてもいいんだ、と言うこととは一線を画しています。理由失くして命を危める・殺めることはもちろん、論外です。
 
 ただ「その先」にあることが、より多くを守るためならば、と言うための選択をすることも時には必要なのかもしれない、と、思う昨今です。
 繰り返しますが、これは、触法行為、秩序を無意味に乱す行為のことではありません。
 
 カウンセリングの現場でのお話になりますと、例えば、離婚する決断をするにしろ、しない決断をするにしろ、置かれている状況での優先順位・・・例えば出来るだけ多くの人が幸せに向かう方向、と言う捉え方は大切だと思っています。

 ですが、その決断による、様々な責任(Accountability)が伴います。こう言うと、お話が重~くなってしまうのですが、体験的に、後々に罪悪感を引きずらないで済むので、実は予後が良かったりします。

Account、つまり、自ら説明できるような生き方を選ぶことが大切、と私は考えています。

 バットマンもブラックジャックも、ややダークなヒーローですが、私が心を魅かれてやまないのは、そこに充分な説明的な要素があるからなんだろうな、と私は思っています。

 Jutice・・・公平、正当、正義。裁判官の意味も持ち、タロットカードの裁判の女神(または正義)。

 Just・・・公平な、合法の、ちょうど良い。

 この夏は、いつにも増して、いろんなことに・・・例えば本当の正義について、考える機会がたくさんありました。

 でも、今このことの先、そのまた先は、と考えることで、自分自身が何を優先して考えるか。そのことで起こり得る事はどんなことなのか。

 それを考えるのに、私はようやく成長が追いついたのかもしれません。

 私自身ももう一度フォーカスを絞って、これからの人生に何を守り、何を選んでいくかを考えていくことになるでしょう。

 何を選んでも、どんな生き方になっても、きっとその先にあるものは、ただ一つだけです。

 そんなことを思う、夏の一日です。


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)