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2002年4月30日

●ネコ

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしですか?みなさん。
前回のコラムを読んで頂いた方はご存知かもしれませんが、
お引越しも無事終り、新居でこのコラムを書いています。
「虫」が気になっていた私ですが、我が家に侵入しようとするのは、他にもいることを最近知りました。
「ネコ」です。
なんとも古いお家なので、ネコにとっては居心地がいいのか、お昼には屋根の上でお昼寝・・・
縁側から屋根を見上げると、足がダラ〜ンとたれていたりもします。
そして、隙を見ては家の中に入ってこようとするんですね。
引越しの最中なんかは、「こいつら、何者?」といわんばかりに車の中に入って荷物を嗅ぎまわっていました。

若い頃、ずっとネコを飼っていたこともあって大好きなんですが、
入居前に、「野良猫にエサをあげないで下さいね。」と大家さんにクギをさされていたので、
ここはうまく付き合っていく、共存していく方法を見出そうと思っています。
だって、彼らの方が”先住者”だからです。
(家の中にいるわけではありませんけど・・・)

ネコを飼えない賃貸暮らしでも隠れて(?)、捨て猫を見つけたり、「貰ってくれ」とつれて来られる子猫と一緒に暮らしてきた経験のある私は、「メシくれ〜」と人間に対して鳴いているのか、ネコ同士の会話として鳴いているのかが、わかります。
飼っていたネコが、必ずと言っていいほど、野良猫と仲良くなって家に連れてきていたのと、
最後に飼ったネコには、まるで犬のように「散歩に行こう!」と呼ばれるままに外に誘い出されて、夜道をどんな風に徘徊するのかを知っていたので、主人に”ネコ博士”と呼ばれて、うまく付き合っていけるだろうと自負していたりもするんですが・・・

和歌山の穏やかな環境から一変して、父の仕事の都合で大阪に、それからは転がるようにして家族が壊れていった頃、私にとって猫たちは、思い返しても涙が出るほど、心の拠りどころになっていました。
あの目を見つめるだけで、なぜか自分の気持ちをわかってくれているような、そしてそれでも一緒にいてくれるような、
そんな存在でした。
だから、野良猫を家の中に連れ込んでも、子供を産んでも、ただただ世話をしていたんですね。
でも、それは動物を飼っていれば必ず訪れる「死」とも隣り合わせでした。
それが病気や事故でも悲しいのに、自分の手で殺してしまったこともあります。

目の見えない赤ちゃんネコを必死で世話してたときには、こたつぶとんに隠れていたところを踏んづけてしまって・・・
それから連れてこられた子猫は、「私が世話するよりは・・・」と思い、連れて行った野良猫の溜まり場になっていた空き地で、突如現れた放し飼いにされた2匹の犬に襲われて死んでしまいました。

なぜ、こんな暗いお話をするのかというと、今のお家の”先住者”たちを見て、
気付いたことがあったからなんです。

先ほどの”最後”の愛ネコが死んだ時、当時唯一運転免許を持っていた弟と、それと妹と三人で深夜もやっているという動物病院に向かったことがありました。
車の中で息を引き取ったんですが、呼びかけると最後に一声「にゃ〜ん」と答えてくれたんですね。
そして、悲しみに暮れながらも、明け方、兄弟でお墓をつくったことを今でも鮮明に覚えています。
その時に見た朝日が、とっても眩しかった。
それに、先に両親が家を出て行っていたこともあって、ひときわ私たち兄弟の気持ちがひとつに感じた時でもあったんです。

それから年月はずいぶんと経っていますが、今では家族も兄弟も集うことは滅多にありません。
でも、それぞれがみな自立し、それぞれの家族やパートナーがいて、たくましく生きています。
そして、経験してきた苦しみや、わだかまりが、今では家族を思う気持ちを邪魔することはありません。
ただただ、お互いを愛しているとしか感じられないんですね。

胸をしめつけるような悲しみで一杯だった頃、そしてそれを乗り越えることができたこと、
その経験のすべてが、今の私を支えてくれていることに、
”ネコにご飯あげなきゃ”とは思わない自分自身に気付いて、あらためて感謝したくなったんです。
心の拠りどころが今の私には、有り余るほど与えられています。

家の裏にある、広場のようになっている場所に、やさしい中学生がやってきては野良猫にご飯をあげてくれています。
そんな光景を見守りながらも、ネコさえも心に寄り添ってくれないと感じている方たちと、これからもたくさん出会えることを願う今日この頃なのでした。

源河 はるみ

投稿者 csadmin : 10:31

2002年4月26日

◇人との出会い

人との出会いってすばらしいと思いませんか?

今自分の周りにいる大切な友達と出会った時を思い返してみると、とても
楽しくなります。
当たり前なんですが、出会った瞬間にはまさかこの人が後々ずーっと仲良く
する友達や彼氏や旦那さんになるなんて、知りませんよね?
このことが最近私にはとてもおもしろく感じるんです。

私は人見知りな所があって、以前はなかなか初めてお会いする人に心を開け
なかったんですね。
私がグループセラピーに行き始めた頃、行く度にたくさんの新しい人達と
出会いました。
でも、人懐っこいタイプの人が簡単に初めから色んな人に溶け込んでいく
様子を横目で見ながら、私は心の片隅で「すごいなー。でも私は人見知り
だし、あの人達は全然知らない人達なんだもん。」
と思っている自分がいました。

この「知らない人達」と思っている部分がカギでした。
知らない人達=赤の他人という風に、私の中で線を引いていたんです。
でもその知らない人達と何回か会っているうちに、その中から友達になる
人が出てきて、今ではまるで家族のように付き合っている大切な友人がたくさん
できました。
時々その友人達と「あの頃思い出すと笑えるね。こんなに仲良くなるって
思わなかったよねー」などと話をします。

もちろん、中には自分と相性の会わない人との出会いもあります。
でも、それはそれでその人と出会うことで学ぶことが何かあると思うんです。

色んな人と出会っていく中で私はいつの間にか、新しい人と出会うことが大好きに
なっていました。見方が変わったんですね。
新しい人に出会う度に、「この人が私の親友になるかもしれない」「私にとって
すごく大切な人になるかもしれない」そういう風に見るようになりました。
そうすると、全く初めて出会った人にも、すごく親近感が沸いてくるんです。
もうまるで、友達になったかのような感覚がするんですね。
今は仕事柄、面談などでお客様に会う機会も多いですが、お客様にも全く同様の
感覚があります。

この人に出会って私の人生が変わった!!
という出会いを、これまで何度か経験してきました。
なので、新しい人に出会う時はワクワクしています。そして一つ一つの出会いを
大切にするようになりました。

皆さんも明日、あなたの人生を変えるような素晴らしい出会いが待っているかも
しれません。
そう思うとワクワクしてきませんか?!

by 根本理加

投稿者 csadmin : 10:30

2002年4月23日

●寂しさ、について

僕がカウンセラーとしてデビューして間もない頃、あるクライアントさんとお話しているときに「ああ、それは寂しいですよね・・・」って答えていた僕がいました。
確か恋愛に関する相談のご依頼で、彼氏につれなくされてる女の子のカウンセリングでした。彼女がしくしく泣き出す声を聞きながら、そのとき「ん?」と気付いた僕がいました。

「寂しい」ってどんな気持ちだったっけ?

彼女のお話を聞いていれば感覚的に「そこまでされたら寂しくなるだろうなあ。無理ないよなあ」と思ったのですが、その「寂しい」って気持ちそのものが僕には分からなかった、感じられなかったんです。

そのカウンセリングが終わった後、しばらく考え込んでしまいました。
「うーん、寂しさ・・・。どんな感情だったっけ・・・?うーん。なんで分からないんだろう・・・?」と。

でも、僕たちのベースにしている心理学/カウンセリングは「実践派」ですので、早速寂しくなるような状況をイメージしてみました。
「理加が突然家を出て行って、連絡が取れなくなって、それを友達に相談したら素っ気ない返事を返されて、慌てて彼女の実家に駆けつけると彼女のお母さんに冷たい顔をされて、一人とぼとぼ淀川を歩く・・・」なんて風に。

そのときの僕の心の反応は「・・・」。
本当にしーんと静まり返っていたのでした。

最初は僕は両親にとっても愛されたので、寂しさって感情を知らないんじゃないか?って思いました。うちの母親としたらまるで映画に出てくる欧米人の母親のように愛情表現が豊かで、子どもを愛することを自分の生きがいのようにしている人ですし、父親もシャイながら息子と遊ぶ時間、一緒にいる時間をたくさん作ってくれていましたから、寂しさを感じたことが無かったんかな?と。

でも、感覚的に「寂しいですよね」って答えられるってことは、僕が寂しさを知らないわけではないんですよね(僕たちの感覚、直感的なものは潜在意識や無意識からの反応なのです)。
でも、それが感じられないということは、僕の心が麻痺してるって証なんです。
そのくらいは当時の僕にも理解できましたが、その現実は僕にたっぷり冷や汗をかくに十分だったようです。
寂しさって誰もが感じられるような当たり前の感情って思ってたし、僕も当然その感情を感じられるって思い込んでいましたからね。めっちゃ焦りました。

そこで、僕は今までの自分を振り返ってみました。
僕はとってもプライドが高くて、負けず嫌いで、人に弱みを見せるなんてことは死んでも嫌だ、と思ってました。常にトップクラスにいるのが当たり前で、だから人に心を開くよりも、人をいかに屈服させるか?なんてことを考えていました。当然、今から思えば自分に対しては相当厳しい態度を取っていたと思います。
(もちろん、そればっかりではないけどね(笑))

だから、今から思えば全身がちがちに鎧を着こんで人を寄せ付けないようにしてたんです。しかも理屈っぽくもあったので、まるでその鎧にハリネズミのようなトゲをつんつんと生やしていたようなものだったと思います。

僕は大学時代に故郷を離れて大阪にやってきたのですが、誰も知り合いのいない土地で、ハリネズミの鎧を着込んでいたわけですから、彼女と一部の友達以外とは全く付き合いができず、一人か彼女と二人でいる時間が長かったんです。

高校時代の僕にしても、バンド仲間はいたものの練習時間やバイトの時間を除けばほとんど付き合いもなく、家にいたり、一人で街をぶらぶらする孤独な少年でした。
なんせ、当時の僕のモットーは好きだったギタリストにちなんで「孤高」でしたから、一人でいることが辛いこととか、寂しいことなんて思わなかったんですよね。
だから、一人で街に出て仲良さそうなカップルやグループを見ても「ふんっ!」と軽蔑してたりしました。
うーん。嫌な奴ですね・・・。

そんな状況を思い出したとき、「めっちゃ、寂しさ感じてたんちゃうん?」って思いっきりツッコミを入れたくなりました。

今から思えばえらく強がって、つっぱっていたんやなあ、と思います。
だって、その当時は見ない振りをしてただけで、えらく嫉妬もしていたし、自己嫌悪も強かったですもの。

僕は人見知りで、恥かしがりやでもあったので、なかなか人と打ち解けられなかったんです。それにおとなしい性格でもあったので、話題が合わないときなどはずーっと黙っていることも多く、当然、そんな自分を忌み嫌ってました。
でも、その自己嫌悪している自分もまたプライドが許さなかったので、結果的に「孤独を愛する」とか「孤高」とか言って強がるしかなかったんですね。
いわば、寂しさを感じてる自分を許せなかったんだと思います。

そう思ったときに「ずーっと寂しかったんやなあ」って我ながらほろっとなったもんです。なんか、悲しいなあ、と。
そして、それに気付いたときにその当時周りにいてくれた人みんなに思わず感謝してしまいました。そんなハリネズミな僕の側にいて笑ってくれてありがとう、と。
だって僕だったらそんな奴の近くにいたくなかったですからね(苦笑)。

ただ、その後はしばらく大変でした。
この事件(?)をきっかけに僕が長年隠していた寂しさが噴出してしまったんですね。
「寂しさを感じても良い」って許しが出て、堰が切れたようになってしまいました。
どこにいても寂しくて仕方がなくなってしまったんです。

彼女とはずっとくっついていたくなったし、寒気がしてたくさんの人で包んでもらいたいから毎月のヒーリングワーク(グループセラピー)が待ち遠しくて仕方がなかったし、自己嫌悪がひっくり返ってナルシストになってしまったし、そんな忙しさに「やっぱ、やめときゃよかった・・・」なんて思ってました。

でも、同時に僕は本当に大きな事、人の大切さをこのとき初めて学んだような気がしました。僕はずっと一人で生きてたような気がしたけど、僕が口にするもの、身につけているもの、すべて誰かのお陰で成り立ってるものなんですよね。

学生時代までは親の、それ以後は僕を雇い入れてくれた会社の人たちの存在や、日常を支えてくれる恋人や友達の存在、そのすべての微妙な繋がりがあるから僕は今ここにいられるんだなあ、と気付いたんです。
それは当たり前のことでは全然なくて、「親だから」「労働力を提供してるから」って理由だけでは成り立たない何かがそこにあるんですね。

それは僕にとってはほんとに大きなパラダイム転換でした。

心理学では「寂しさとは、人をつなげるための大切な糸」なんて表現をします。
もし寂しさって感情が僕たちの心に無かったとしたら、誰も人を求めなくなって人間は子孫を作ることもできずに滅んでしまう・・・と。そこまでは大げさかもしれないけど、あながち嘘ではないなあ、とかつて孤独を愛していた(振りをしていた)僕は思います。
寂しくなかったら人を求める事、人との繋がりを欲する事もないですよね。
一人で生きられるって思ってしまいます。

あなたがもし、寂しさを感じるとしたら、それは今誰かに感謝をするときかもしれません。そして、誰かとのつながりをもう一度感じ、そして、自分からその繋がりを得ようと行動するときかもしれません。

その後の僕は100人以上の友人を結婚式にご招待し、年末には数百枚の年賀状を書いて、数少ない休みの日には誰と遊ぼうか頭を悩まし、毎週いろんな人が訪れてくれる家に住んでいます。これは本当に嬉しい事で、有難い事です。

そして、僕は「めっちゃ寂しがり屋やねん」って笑って言えるようになりました。


根本裕幸

投稿者 csadmin : 10:29

2002年4月16日

●残された贈り物

先日友人のお母さんが亡くなられて、お通夜と告別式に行かせてもらいました。私にとって父を亡くして以来のお葬式だったので、まるで再体験をするようで意味深いものでした。残された友人の気持ちを思うと胸がつぶれる思いです。
友人の姿が6年前の自分の姿と重なって見えました。

以前は「お葬式」と聞くと、何かとてつもなく重く、悲しく、暗くて忌み嫌うもの。というイメージが私の中にあったのですが、身近な父を亡くしてからはイメージが変わりました。
確かに、とても辛く悲しいことには変わりはないのですが、一方で忌み嫌うようなものではなく、恩恵というか、うまく表現できないのですが、何か守られているような感覚が芽生えました。
「喪失感」というものは本当に辛くて、こう思えるようになるには、私自身時間がかかりました。けれど今となっては色んなことを学べた気がするのです。

現在の私達は「死」に触れる機会っていうのは、本当に少なくてある意味タブーのように、ひっそりと覆い隠されています。 私も実際に触れてみるまでは、本来持つ意味以上に、恐ろしいもののように感じてしまっていました。でも実際に身近で体験してみると、恐ろしさ、辛さ、悲しみ以外にも、そこから教えてもらうことが山ほどありました。

私は身近な人の死を通して命の重みを、初めて肌で実感した気がします。
それまでは苦しことや辛いことがあると、軽がるしく現実逃避から、死にたいような気持ちがよぎったこともありました。
でも死に行く人の「生きたい」という気持ちや、残された人の気持ちを知ってからは、命って何て尊いものなんだろうと思うようになりました。生きているということは、それだけですごい事なんだ!と気付きました。

死に触れると逆に「一生懸命生きよう」という思いが溢れてくるんです。
当たり前のように過ごしている毎日のかけがえの無さ、有難さが身に染みました。
与えられている日々をどうしたら充実して楽しんで、精一杯暮らせるだろう?という考え方に変わりました。
私がカウンセラーになりたいと思った大きなきっかけも、父の死だったんです。

私達の毎日の中で問題って色々起こってきますよね。でもその問題を突き抜ける過程で学べること、抜けきった時にやってくる贈り物は必ずあると思うのです。

生きている間は父と距離や葛藤があって、あまり良い印象を持っていなかったのですが、亡くなって初めて父の本当の有難さや、父の愛情に気付きました。
ある意味、父が最後に自分の命をかけて教えてくれたことを、私は忘れません。

友人のお母さんのお葬式に出席させてもらって、また改めて日常の大切さを思い起こさせてもらいました。

彼女はこれから私が味わったように辛い日々を過ごすかも知れません。だから、私はできるだけそばにいて、そして、また大切なことを教えてくれた彼女に心から「ありがとう」といいたいです。


根本理加

投稿者 csadmin : 10:28

2002年4月12日

◇幸せ菌

夜、街を歩いていると結婚式の2次会帰りだな〜と思わせるカップルと
その仲間たちを良く見かけます。
幸せそうなカップルをみていると、こちらまで幸せな気分になってきます。
風邪の菌のようにきっと、幸せ菌というのがきっと、つがいとなった
カップルから空気中に散布されて、近くにいる人にうつされているのでしょう。
それを証明するものとして、結婚式行った友達同士が結婚するのは、多分
幸せ菌におかされているからでしょう。

よく明るい人と一緒にいると自分も明るい気分になったり、友達が笑っていると
つられて笑っていたり、落ち込んでいても誰かとる元気がでたり、するのも、
たぶんそれぞれの菌が蔓延しているからだと思います。
風邪の菌に犯されるのは困りもんですが、幸せ菌や、元気になる菌ならうつっても
いい気がします。また、それをうつして上げるのもいいでしょう。
「え、風邪こっちにこんといてよ、うつるじゃない」
では無く、
「え、幸せホント、こんど家に遊びにきてよ」
こんな感じになるんではないでしょうか?

幸せ菌のことについて研究すると、この菌の正式名称は、「あなたがもっている
影響力菌」という菌のようです。人には多かれ少なかれ影響力があります。
たぶんあなたが持っている影響力はあなたが思っている以上に、人から見れば
影響力をもっていると思います。あなたが幸せになれば、あなたの大好きな人も
幸せにできるということですね。
あなたの大事な人の為にも、幸せ菌の保菌者になっておきましょう。

by 原裕輝

投稿者 csadmin : 10:26

2002年4月 9日

●女心は、"は" と "も"』

友達と話をしていて、まるで漫画のように頭の上に!!!というマークがでてくるくらい
すごい気づきをしたことを今回は書かせていただきます。
女性から言わせれば、「そんなん、ホンマに気づかないの?」とか「それくらい常識ちがうの」と言われそうですが、その時はホント人生を悟ってしまったと思うくらいの気づきだったんです。

友達の名前は、ゆきちゃんという女性で、背がすらっとしていて、色が白くとても綺麗な女性です。しかも 優しい人柄を感じさせるおっとりとした喋りかたは、一緒にお話していてとても心地よい感じになる女性です。そんな綺麗で優しいゆきちゃんは、白雪姫ならぬ"ゆき姫"というあだ名でよばれる人気者、そんなゆきちゃんとお話をしていた、小春日和の午後2時頃、人生を変えるほどの気づきがありました。
ゆきちゃんと、いつもどおりのお馬鹿な笑い話をしていたら、ゆきちゃんがいつもと少し違って見えることに気づきました。よ〜く見ると髪が少し短くなっていて、とっても可愛らしくなっていました。似合っているな〜と思っていると、"ふ"と普段カウンセリングなどで言わせていただいている対人関係の力学が頭の中をよぎりました。
『彼や彼女、友達、会社の人、あらゆる対人関係で価値を伝えると、対人関係は上手くいく。なにより価値を伝えられた嬉しい』ということが頭の中にテロップとなって流れていました。

髪型変わったこといってあげるとよろこぶだろうな〜と思い、頭の中のテロップが流れてすぐさま、新しい髪形がとてもチャーミングで似合っていることを伝えることにしました。

原  :「なんか、今日は感じがちがうね」
ゆき :「そう」
原  :「もしかして、髪切ったのにあっているよ。今日はとっても可愛いね」
ゆき :「ありがとね」

にこっと笑って「ありがとう」と言ってくれるゆきちゃん、でも、満面の笑みで喜んでる感じでもないし、どちらかというと少し表情固めな感じ。「おろ?」価値を伝えたけどあまり喜んでないのは、なぜだろうと思った僕はいろいろ考えてみました。
もしかしたら、触れてはいけないことを言ったのだろうか、もしかしたら失恋で髪を切ったんだろうか?美容院でうっかり寝てる間に頼んだ髪型と全然違う髪形になっていたのだろうか、それとも髪が短くなったように見えただけで本当は悩み事があってバッサバサ髪が抜けて今の髪型になったのだろうか?
いろいろ、考えていると『!!!』頭にビックリマークが3っつ並びました。ひらめいた〜っと口にでるほどの気付きがあったのです。

原 :「最近、切ったの?」
ゆき:「そう、先週切りにいってきたの」
原 :「思い切ったんだね」
ゆき:「そうだよ」
原 :「ホントにあっている、ゆきちゃん今日も可愛いね」
ゆき:「ホント!ありがとう」

『やった、今回のありがとうは、満面の笑みだ。』と心の中でガッツポーズの僕。
なにが違っているか、みなさんお判りでしょうか?自慢げにこのすごい気付きを言いたい僕ですが、そんなこと、あたりまえじゃないとお判りの方のほうが多いかもしれません。
この違いは、「今日は可愛いね」「今日も可愛いね」なんですよね。
一文字違いで大違いですね。
うっかり、『は』と『も』を間違うと
「それならなにかい、今日は、ということは、昨日やいつもは不細工って言いたいんかい。」と血まみれのケンカに成りかねません。(ゆきちゃんは、そんなことしませんが、彼女の名誉の為、念の為に言っておきます)
『も』ということは、いつも可愛いけど、今日も一段と可愛いねと、とってくれることもあります。
この場合は、ホントに喜んでくれますね。

友達もそうですが、彼女や彼氏には、普段慣れ親しんで、なあなあになってしまっているだけ
言葉使いに気をつけることって少なくなっていると思うんです。
パートナーが優しくしてくれたら
「今日は、やさしいね。ありがとう」よりも、「いつも、やさしくしてくれてありがとう」
パートナーが髪型を変えたり、新しい服を着ていたら、
「今日は綺麗だね」よりも「今日も綺麗だね」
もちろん、
「今日は、愛してる」なんていったら血まみれのケンカものですね(笑)
こんな時は、もちろん「いつも、愛してるよ」ですね。
大事な大事なパートナーだけに『は』と『も』は気をつけて使いたいですね。

原 裕輝

投稿者 csadmin : 10:25

2002年4月 2日

●虫

春。
実は、私個人的には、あんまり春が好きではありません。
そりゃ、お花は咲き出すし、あたたかくなってきて過ごしやすくなってきて、
なんだか新しい気持ちにはなるんですが、どうも「うれしい」とか「楽しい」とは、あんまり思えないんですね。
桜を見ながら、その美しさに感動したりはするんですが・・・

その理由が、この時期特有の”だるさ”にあります。
なんだか、身体の緊張感(コリ)が取れてきて、何かが這い出してきそうな気分になる・・・
漢方(東洋医学)では、この木の芽時っていうのは、冬の間にたまった身体の疲れが溢れ出してくる時期だと見るんですが、まさしく、そんなイヤ〜な気分になるんです。
この気分にピッタリの言葉、というか文字を、私はやっと去年見つけ出しました。
それは、『蠢』(うごめく)。
パソコンの画面では読みにくいかもしれませんが、この「うごめく」という言葉、いやいや漢字は、
”春に虫虫”って書くんですよね。

このことに改めて気付いた去年の今ごろ、「そうそう!虫なのよ、虫!」と、ひとりで喜んでいたのを、
また今年も改めて、思い起こしてみました。

なぜかというと、実はここだけの話、我が家は今月お引越しをするんです。
戦前に建てられたという、ふる〜いお家なんですが、縁側なんかがあって、とっても味があるお家なんです。
もちろん、通風性はバツグン、”マックロクロスケ”が出てきても、いい具合。
そこでの、私の心配事といえば、夏の『蚊対策』。
別に寒気がするほど、虫が嫌い、というわけではないんですが、
蚊のおかげで、眠れない夜ほど、苦痛に感じるものもありません。
(ちなみに、蚊取り線香やあのノーマット類の方が苦手なんです)

気持ち的には心機一転、『変化』するんだな〜と思っていたりするんですが、
どうも落ち着かない気分なんですよね。
主人とふたりで、お互いが気に入ったお家だし、庭も小さいながらあるし、静かだし、実家からも近いし、
条件的には、言う事はないんですが・・・
でも、この気候も手伝って、それと「ここから、蚊入ってくる・・・」と、昨日チェックしてきたこともあって、
その『変化』を、気持ちよく迎え入れる準備が、なかなかできないでいたんですね。

ただ、自分の中で何かが”うごめいている”感じだけが、強くなっていくんです。

で、ふと思い出したことがありました。
それは、忘れもしない小学校卒業式の日、なんの前触れもなく突然、顔にアトピーの症状が出てきたことです。
アトピーというものの存在すら知らなかった頃ですから、まぶたが赤く腫れてしまって、単純にイヤな気分だったんです。
それに、なんだか気だるい、眠い・・・今思えば、思春期突入の合図のようなものでした。

私たちには、身体や心が大人へと成長していくときに感じる、特有のイヤ〜な気分があります。
でも、それはあまり認識されることなく、どちらかといえば、「恋」や「異性」、「まわりの目」へと向けられていたのかもしれません。
このイヤ〜な気分、実は大人になってもず〜っと影響していることが多く、
「自信がない」「やる気が出ない」「自分が嫌い」などの感覚も、元をたどれば、
”対処しきれない””手におえない” という心の中で自然に起こる、『変化』に対する反応なんです。

なんだか得体の知れないものが、自分の中にあるように感じてしまう・・・
そして、それが今にも這い出てきそうに感じてしまう・・・
それも、ジワジワと、ゆっくりと、時間をかけて・・・
そして、そんな自分がなんだか「変」に思えてしまう・・・

この感覚が、自分の意図しないところからやってくるものに思えて仕方がなかったので、
”対処しきれない”と感じてしまうんですよね。

それは、成熟していくことかもしれないし、まったく新しい職場に就くことかもしれない、
対人関係が変わることかもしれないし、年をとることかもしれません。
でも、そのすべては”新しいステージに立つ”こと以外のなにものでもないんですよね。

私たちは、「こうしたい」や「こうなりたい」という望みがあると、そこに気持ちを向けて一生懸命、
”そうなるように”と願ったりします。
でも、”そうしよう!”と何も考えずに即行動に移すのには、抵抗があるんですよね。
というよりも、まず思うのが、「どうすればいいのか、わからない」です。
で、願いはするんだけど、どうすればいいのか、わからない・・・また、気を持ち直して、やっぱりどうすればいいのかわからない・・・と、ついついグルグルと同じところを回ってしまいます。

そこに突如、登場するのが、虫が這い出てくるような、何かがうごめいているような、この感覚です。
これは、もっとわかりやすく言うと、イライラなのかもしれません。
「ムシの居所が悪い」とか、「ムシが好かない」とか、「疳の虫に触る」とか言いますよね。
小さいお子さんだと、「ムシが出る」なんて言います。

なるほど、引越しが決まるまでは、夫婦喧嘩が絶えなかったわけです。(笑)
お互いが、「虫の居所が悪かった」うえに、やってきている『変化』に”対処しきれない”と感じていたんです。
でも、いざ”そうしよう!”が見つかって、そうすると決めると、平和なものです。

あとに残っているのは、この虫の正体を”知りたい!”という、変な好奇心でした。

みなさんの心の中にも、この虫、いるんですよ。
ただ、それは虫ではなく、感情なんですけどね。
「蚊対策」は、最悪だんなに蚊帳でもつるしてもらうことにして(風流でしょ?)、春の風の合図に合わせて、
心の中から、どんな虫が出てくるのかを楽しみにしようと思います。

源河 はるみ

投稿者 csadmin : 10:02