遠慮の美学

遠慮すること。
そのさじ加減って難しいなと、折に触れ感じることがあります。
辞書には主に2つの意味があり、1つは「言葉や行動を慎み控えること」。
もう1つは「引き下がること、辞退すること」。
慎ましやかである、控えめである、謙遜する。
それが良いこととされていた古き日本の「遠慮の美学」。
私の祖母は特にこのことにうるさく、その祖母に育てられた母にももちろん根強くあり、そして母の一人娘である私の幼少期にも、しつけとして良く指摘されては、なんとなくしっくりこない感覚を持っていた私でした。

1つ目の意味にある「言葉や行動を慎み控えること」。
私が思い出すエピソードがあります。
小さい頃、両親に連れられて親戚の家を訪問した時のこと。
応接間のソファに座っている私におばさんが、六角形の形をした美しい缶の蓋を目の前で開けて見せてくれました。
すると中には、色とりどりのキラキラな小さな包みがいっぱいに入っているのです。
おばさんは言いました、『チョコレートよ。好きなだけとって。』
チョコレート!好きなだけ!?こんなにカラフルで魅惑的なものは見たことがない、とさえ思いました。
私は、めいっぱい広げた手を缶の中に突っ込み、思い切りつかみ取りをしようとしました。
満面の笑みで!

次の瞬間です。
何やらゾクっとする気配を感じました。
えっ?
隣に座っていた母の方に目をやると、なんと、めちゃくちゃ怖い目でこちらを見ています。
差し出された缶の上で私の右手は凍りつきました。
それを察した優しいおばさんは『いいのよ。好きなだけ取ってね。』と笑って言いました。
でも、一度その母の目を見てしまった以上、もう右手いっぱいの渾身のつかみどりはできません。
じゃあ・・・と言って、赤と緑と青の包みをひとつずつ取りました。
『3つでいいの?』そう聞かれて、本当は3つでいいわけなんてない、なんだったら缶ごとほしいくらい!
それぐらい魅惑のチョコレートだったけれど。
『・・・はい。』と言ってあきらめた記憶があります。

その日の帰り道、母から小言を言われました。
『ああいう時はね、1つか2つにしておくものなのよ!』。
叱られた意味もよくわからなくて、でも私が悪かったんだな、と感じました。
母はよく私にこう言いました。
『厚かましいことはやめなさい』。
このチョコレートの一件もそう。
必死につかみ取りなんてしようものなら、厚かましい国の女王に認定されてしまいそうなぐらいの出来事だったわけです。

私たちはこうして小さな頃から、色々なシーンにおいて「遠慮するべき」、と教えられたこと、少なからずあると思うのです。
そうしたら、欲しいものがほしいと言えません。
やりたいことがやりたいと言えません。
大人になってからもそうです。
何かをどうぞ、と差し出された時、(これは断るところなのかな?)と頭をよぎります。
いえいえ、結構です、そう言うことがマナーだったりするのかな?迷いながら結局のところは、受け取らずに遠慮します。
そうして「まずは断る」癖がついてしまったりするのかもしれません。

また、もう1つの遠慮の意味にあるのは「引き下がること、辞退すること」。
これは私がもう少し大きくなって小学校高学年の時の出来事が思い起こされます。
足が速い人が参加できる運動会のリレー競走。
私は思いっきり手を上げて立候補しました。
女子の中で手を挙げたのは私一人。
「えー、自分で足が速いと思っているのね。」という誰かの声が聞こえて、恥ずかしくなって思わず手を下ろしました。
その後、立候補者がいないということで、誰かを推薦して、投票で決めると言う形になりました。
やりたい、と思っている子は私以外にもいたはずなのに(やりたくない子ももちろんいましたが)、立候補してはいけない雰囲気。
遠慮して、推薦してもらうのを待たなくてはならない空気感でした。

でも、きっと子供時代って、やり過ぎちゃうのですよね。
だからそれを、親をはじめとする大人達は心配して釘を刺す。
私だって、あの魅惑のチョコレートを片手でつかみ取りをしようとしたと書きましたが、もしかしたら本当は両手いっぱいで取れるだけ取ろうとしたかもしれませんし、止められなかったら、スカートのポケットに入るだけ詰めこんだかもしれません。
それはちょっと、行き過ぎなのです。
やりすぎてはダメよという大人からの教えを「欲しがってはいけない」と、極端に変換され、インプットしてしまったかもしれないと思うのです。
リレーに立候補した時も、そう。
子供ながらに恥ずかしさを隠すためにも、勇気を振り絞るためにも、必要以上の勢いで、張り切り過ぎで手を挙げていたのかもしれないな、と思います。

子供の頃の私たちに大人から投げかけられた「行き過ぎ防止」のための言葉。
それを、私たちをいまだに縛る呪文のようにせず、『あの頃はかわいかったな。』と思うと同時に、『今の私は充分に大人だから、素直に自信を持って受け取ってみてもいいはず、言ってみても大丈夫なはず。』と思ってみると、誰かからの親切であったり、嬉しい言葉を軽やかに受け取れるようになれたり、シンプルに自分の希望が伝えらたりすると思うのです。
遠慮をすることが美徳、それはかつての日本には確かにあったもの。
祖母や母親の時代まではそれが「お行儀が良い」とされました。
でも、今のグローバルな時代、世界の国々を相手に遠慮はもはや理解不能で通じません。
もっと軽やかに、遠慮せず受け取ってみる、伝えてみるのも良いのかもしれません。

この記事を書いたカウンセラー

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老若男女国籍問わず、すぐ打ち解ける親しみやすさが特徴。クライアント自身が持つ回復力、問題に立ち向かう力、光を見つけ、信じて全力で応援する。どんな話しにも寄り添い『安心できる』『希望が持てた』『心が温かくなった』と定評があり、元気になれるカウンセリングを提供するカウンセラーである。