これから・・・~~~私の人生設計~~~

 薄いレースのカーテン越しに、ガラスにぶつかるボタン雪が流れるのが見
える。ぶつかって、すぐにつーっと滑り落ちて消えてゆく。
 亡き父は、1月2日生まれであり、この世を去っていったのは63歳の
12月11日、64歳を目前としたときであった。幸か不幸か、阪神淡路大
震災を知らずに、逝ったのだけど。
 いずれにしろ、父は、その人生を精一杯に生きた、と私は今も想う。おそ
らくは一生、そう想って生きるだろう。


 冬に生まれ、冬に逝った父を、こういう日は何となく思う。
 年頭に、今年の干支回りは年子の弟が年男であることを思ったのだが、今
の私の年齢は、ちょうど干支が一回り前、まだ三十代の私が、「その年齢ま
では何が何でも生きていなければ!」と想った年だったことを思い出してい
た。
 周りの友人に、「点滴ぶら下げても、体中に管がつながれていても、その
歳までは生きる!!でも、50歳になったら、もう消えても良いかな、って
思うねん」ともらして、悲しがらせたり、怒らせたり・・・。
 ★もちろん今は、そんなことはありませんから、ご安心を!★
 息子たちが二人とも成人し、立派な大人とは言えないまでも私なしでも充
分に生きてはいけるだろう、と言う安心感を得たが、それまで温めていた、
『人生50年計画』は自然崩壊へと進んでいる。 
 私の『人生50年計画』は、息子たちの成人を見届けたら、ここを去る、
と言うものだった。もちろん、自死と言う形を考えたのではなく、「時」が
自分を冥界に連れて行ってくれる、と言うような、曖昧なものではあったけ
れど、つまり「その先」を全く考えていなかった、と言うこと。
 ・・・なんだけど。
 気づいたら、4回目の年女も過ぎておった。次男も今年無事、成人式を済
ませた。そして長男の親友には子供が生まれ、携帯に送られてきた写真を見
せてもらった。
 なんか違うぞ・・・私の練ってきた計画とは・・・。と思うに至り、更に
あれこれやりたい事、いきたい場所がたくさん出てきてしまい。
 
 私、体弱ってる場合やないやん!!
 昨春に感染症と思われる気管支炎・肺炎・肝機能障害、といっぺんに体調
を崩し、死ぬことは無いにしろ、8週間連続無休・・・と言うことはさすが
にできなくなった。
 そのせいだけではないのだけど(かかりつけの先生には思わず、私怠け者
になってしまったかも・・・と打ち明けたのだけど)、動けませんっ!!
 いや、動けない、できないということはない、したくないだけ、って話も
あって、楽して好きなもの手に入れて、そんなことをしたくないっ!!って
私の無意識さんが駄々こねてるだけかも知れない。
 それにしても。
 
 ここ数年の私は、以前の私は見る影もないだろう。ホンマに、ナマケモノ
になってしまったのである・・・ハードワーカーの自覚もなかった頃の自分
を思うと、あたかも過去世のように思える。息子たちには、「数年前までは
もっとちゃんとしていた」と言われる体たらくである。
 少なくとも母には見せられない・・・とにかくきちっとしていたり頑張っ
ていると、「やっぱり私の娘やわぁ」と喜ぶから。
 んっ!?てことは、私は何時まで経っても「よい子」「自慢の娘」でいた
いのか・・・とほほ。
 しかし。お母さんは相当無理していたのだよ。それにたまたま体力もあっ
たし、技術的?にもナントカできたし。
 なんて、息子達にはあんまり通用しないのだが。大人になり行く「子供」
っていうのは、いつの日も親に辛口である。
 だって、同じ3人分の食事とは言っても、今は5~6人前作ってる気がす
る。洗濯物にしても、かさが高い。そう、何につけても「かさが高い」の
だ。
 反比例して私の体力は、低下する。さらに、キミたちの体力やいろんな能
力は逆に、右肩上がりなのだもの。
 あったりまえさ。な~んて思う。
 でも確かに数年前の私なら、こんな風には決して思えなかったはず。よか
った、よかった。ちゃんと私も学んでいるようなのである。
 私の両親は揃って、そんなことが言えない人だった。父はそしてこの世を
去り、母は、七十代をなめたらいかん!!とノタマウ。
 いや、そうじゃなくて・・・。頑張って欲しいんじゃなくて。そんなこと
ば、母はあんまり聞く耳を持たない。それはとてもすごい事なんだけど。父
亡き後、六十代に入ってから取った、ヘルパーの資格を活かし、悠々自適で
はないにしろ、母らしく日々を送っているようで、そのことは私の自慢であ
る。
 父にも、もっと長生きして欲しかったな。
 最近、次男がしみじみ言う。
 「じっちゃん、好きやったな。もっと話をしたかった。歴史の話とか、色
んなことを話してみたかった。それが一番の不満なんや。何で生きてくれて
ないんやろなぁ。」
 さらにこうも言う。
 「お母さん、いくらなんでもじっちゃんの歳以上は生きてもらわなあかん
わ~。これだけは頼んだで。」
 こいつ、アタシの人生50年計画を知っていたか!?かくしてもろくも崩
れ去る、儚い計画となったのであった。頼まれてしまったことに、ノーをな
かなか言えない私の弱点を衝いてきやがった・・・。
 改めて考えると、私のこれからの時間は、まったく空白だったりする、良
くも悪くも。
 
 ほっといてももう大丈夫な息子たちが、ここまで成長するまでの事しか、
かつては考えていなかったのだけど、そうすると、これからの私の時間は、
まったく自由なのである!!まるで新しいキャンバスが目の前にあるような
そんな自由さを感じている。
 かと言って、子供たちをいつも最優先にはしていなかったけどね。だって
「子供のために」をしてきた行く末は、どこかで「子供たちは私のために」
になっている、私としてはあまり好ましくないお手本が、何人か私の人生で
教えてくれたからである。
 誰かのためじゃない人生。頭では解っていた。そう伝えてもきた。でもい
よいよ、それを受け取るときが、やってきたみたいなんだけど。もちろん、
何の計画もないけどね。
 父が、私のよいお手本だったことはいくつかあるが、一番好きなのは、旅
から帰ってきて、旅先の風景をスライド写真で(今みたいにデジカメなんて
ないからね)見せてくれたこと。
 親友がツアーコンダクターだったこともあり、空きができるとほいほい行
ってた様な(実際にはどうかは分からないけど)記憶がある。そして私たち
家族は揃って伊丹の空港へお出迎えに。
 
 父が帰ってくるのも楽しみだったけど、おみやげも楽しみだったけど、父
が撮ってきたフィルムがスライドに仕上がってくるのが、一番の楽しみ。そ
して、ふすまにシーツを掛け、部屋を暗くして始まる映写会・・・てな大げ
さなものでもないのだけど。
 ツアコンが一緒なので、めちゃめちゃマニアな自由時間を送ったみたい。
少なくとも観光ルートにはまず入らないだろう、庶民的な場面が、即席のス
クリーンいっぱいに映し出される。そこに、父が色々コメントを挟み込む。
 父は、自分が楽しい事はみんなに分けてあげたい人だった。まあ、相手が
それを望んでいるかどうかは置いておいて。そんな父の、「おみやげ」が私
には一番楽しみだった。それを楽しみにする、私たちの笑顔が父にとっても
きっとそうだったのではないか、と思う。
 で。
 私の人生設計は!
 私が見たもの、体験したこと、知ったこと、み~んなに届け続けること。
そう、気分まで!
 だから私はいつも、楽しいことを探さなきゃ。どんな時にも、わくわくを
見つけて、どんどん皆に届ける。
 でも、誰かのためだけじゃない。まずは私が楽しむ、喜ぶ、ときめく。そ
して、みんなにどんどん楽しんでもらう。
 だって、楽しい気分は喧嘩が出来ない、人を憎めない。だからどんどん楽
しさを創っていく、見つけていく。そうしたら、世界中に、宇宙いっぱいに
争いもなくなり、何だかどうでも良くなって、みんな笑っている。
 別に私が発信地でなくてもいい、皆が楽しいなら。その姿が私にとって、
一番の幸せだから。
 私は、笑っている。喜んでいる。ワクワクしている。
 そして何十年か先に、みんなのワクワクを胸に抱いて、帰っていく。泣い
ている人もいてくれるだろう。最後まで笑っている人もいてくれるだろう。
どちらでもいい。冬の木洩れ陽が、皆をやさしく包んでいる。
 そして、私の後には同じように、楽しさやワクワクを広げている人たちが
いてくれる。
 こんな人生設計なんですけど、いかがですか?
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