晩秋~ひとりよりふたり~

秋って、こんなに色とりどりだったかしら・・・。
今年は特に、そう、感じます。
黄色く色づきながらも、鮮明な赤や、深い煉瓦色がほどよくのぞく街路樹。
深く、優しい季節。
こんな季節に、母は私を産んだんだなぁ、と‘七五三’が近い、と聞くとふと
なんともいえない気持ちになります。
お誕生日が、この近辺である私は、毎年、毎年、それが3歳でなくても5歳で
なくても、7歳でなくても、世間のお祝いと自分の誕生日を祝ってもらうワク
ワクが相まって‘七五三’をまるで自分の行事のように感じていました。
そんなかなり傲慢な、(内弁慶の割には、親戚が集まった席では父のよく聞い
ていた演歌をマイクを持って人に聞かせ、拍手を強要していたらしい)、頑固
な娘を当時の父母はどのように感じていたのでしょう。


私にとって、一番近いパートナーシップは、やはり、父と母。
‘夫婦’のアーキタイプは、このふたりに帰結します。
私はまだ世間様で言うところの‘おひとりさま’ですが、
母が私の歳には、私も2つ違いの姉も中学生だったのではないでしょうか?
この頃の私が親を、理想のパートナーシップとしていたか?
否。
女性として、母の生き方を自分がするかどうかは別として、理解していたか?
否、否。
父の苦悩を、弱さとしていなかったか?
はい、弱いと思っていたように思います。
私は実際のところ、生まれ育った家庭に関しては‘ありきたりでつまらない不
幸’のように認識しているところが多かったように感じています。
それは、当たり前に起こり得る、ふたりの喧嘩だったり。
その後の母の涙だったり、父の淋しげな背中だったり。
母は、父に成功してもらいたい人でした。
母は、父の言う事、表現する事、それが例え多少なりのお酒が入った時であっ
たとしても、全てを信じる人でした。
母は、どんな時も働き続ける人でした。
母は、我慢の人でした。
時折、母は私を愚痴の聞き相手にします。
内容はいつも同じ、父の事と姉の事。
言う事と、やることの不一致にこそ真実があることもあるのだということを、
全く理解できるはずもない若い私は、
「そんなに嫌だったら、なんで夫婦やってんのん?」
例えば離婚をするという結論でも、離婚しないと言う結論でも、ふたりがその
ことでどんな影響を周囲に与え、そして、それぞれの人生を変化させていくの
でしょうか。そんな風にたくさんのことを思い遣り、心を配りながらなど、と
ても話が出来なかった若かりし頃母の愚痴に耐えられずよく言った言葉です。
これは、女性側の見方でしかないのですが(父には父の言い分・・・自分だっ
て母を信じていた、とかがあるでしょうけれど、それはここでは割愛)彼女は
とにかく信じ続けたのです。
途中、私には、そんな母を‘結局、精神的に自立できてないんじゃないの?’
だとか、‘思い切りが悪い’とか、彼女の「信」を懐疑的に思うこともしばし
ばありました。
父のために、と、彼女が色んな事をしたのを見ていました。
父のために、と、彼女が色んな思いをしたのを聞いていました。
ご親戚の縁で、たった一度のお見合いで、結婚まで至ったふたり。
更に、いつも聞いていたことは、
「ほんでお母さん、お父さんのこと好きなん?」
不躾な、娘です。
デリカシーのない、娘です。
母は、はっきりとは答えません。
「もごもごもごもご。」
日本海の近くに生まれ、寒い地域に生まれた人特有の色の白さを、一瞬の頬の
赤みが、際立たせます。
ここまでくると、いくら不躾でデリカシーのない当時の私でも、好きなんだな
ってのは分かります。
私はなんとかしようとするのを諦め、母にもここで、愚痴を言うのを諦めてい
ただくこととして、強制的に話を終了させます。
さて、こういう環境で育った娘はどうなったか。
仕事に救いを求めます。
男性並みになることで、幸せになろうとします。
娘はここで大きく勘違いをしていることに全く気が付いていません。
母を見て、ぐじぐじと男性に従って生きても、幸せそうじゃないじゃない。
そう思った娘は、自分自身が経済力を持ったり、男性並みに仕事をすることで
幸せになろうとします。
ですが、娘はいつの日か、自分を救い出してくれるはずの力強い男性も同時に
求めているのです。
勘違いというのは・・・。
自分自身が男性になろうと努力しているのに、外側にひとりの男性も同時に求
めたことにあります。
パートナーシップの始まりが、「お互いの違いに魅力を感じる」ということで
あるならば、普通に考えて男性は男性らしさをパートナーには求めないでしょ
うから。
そして、自分自身の「力」にこだわってしまうため、パートナーシップでは必
ずパワーストラグル(力同士の争い、競争)を感じ、近づきたいけど素直にな
れない、さびしい思いをすることになります。
(念のため、誤解のないように伝えたいのは女性が仕事をガンバルとパートナ
ーシップをもてない、ということではなく仕事の場面でもプライベートでも、
私がどこか自分の本来のあり方をずれ、「男」になろうという到底無理な努力
に明け暮れていた、ということなんですが)
娘は‘心理学’に出逢い、自分の構造を徐々に理解していきます。
そして、変化していきます。
そんな中で働き者の母が倒れます。
そして娘は支えきれず、実の父まで「心理学」に巻き込んでみたりもします。
働き者の母は、すこしばかり、父の人生が上手くいってなかった当時に交通事
故にあい一命はとりとめたものの、ひとりでは到底生活できないからだとなり
ました。
全面的に、父を信じた母。
いつの日か、いつの日か、と働き続けた母。
自分の人生の全てを、父に授けた母。
父は、本来の優しさを取り戻し、ただ、献身的に母を大切にします。
母の痛みを、まるで、自分の痛みのように感じ、涙します。
母がいないと、何も出来なかったように見えた父でしたが、いまは父がいない
と何も出来ない母が居ます。
先日、父のブログを覗いてみると。
「>不思議
20年も前に元気な時の家内が編んでくれた手編みのセーターが出て着ました。
そのときは大きすぎて少し不恰好で着る事もなかったのですが、
試しに来て見ますと・・・・・あら不思議、袖丈、胴回り、肩幅、身丈ともに
誂えたようにぴったり・・・慌てて捨てるのをやめました。嬉しそうにうっと
りと私のセーター姿を見ている家内の姿に感慨ひとしお・・・」
こんな1文がありました。
どうやら、この人たちは40年かけて、夫婦となったようです。
ふたりの人生は、それこそ春を過ぎ夏を越え、彩り深い、そして寄り添って暖
まる優しい秋に差し掛かっているのでしょう。
蛇足ですが、娘には困った事が起きました。
「ちょっと不幸なコドモ時代」を、言い訳にするわけにいかなくなってしまい
ました。
記憶の扉には、鍵があり、どうやら、このセーターのお話、私にとっても鍵だ
ったようで、喧嘩をしていた親の怒鳴り声やら涙でなくて、溢れ出して来たの
は笑顔、笑顔、笑顔。
私や、姉にむけられた笑顔だったのです。
そして、心理学のお友だちからもこんな1文が送られてきたそうで。
「>メール
娘のお知り合いから、娘さんを存在させてくれてアリガトウ・・・
とのメール・・・・こんな感謝のされ方初めて感動。」
気分は
ヤラレタ・・・。
(嬉涙)
たぶん、わたしのお誕生日にどなたかが、父に伝えてくれたのでしょう。
母は、人生をかけ私に「信じると決める事」の本当の力を圧倒的に見せ付けて
くれました。
彼女のいまの無価値感「昔のように役に立っていない・・」とは、全く別に。
そしてカウンセリングの現場ではおひとりおひとりの人生に、こんなドラマを
感じるのです。
それがどんな状態でも、先に何かあることを一緒に信じて生きたいと思うので
す。
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