捉われからの脱出~~正しい権威のつかい方を考える~~

親はただ、親と言うだけで、子供に対して権威を持つ。年上、目上を敬え、
と教えられた子供時代の記憶があろうが無かろうが、である。
 私たちは、あまりに幼くてまだまだ何もできないころ、生殺与奪の全てを
親が持っていた。どんな人でも・・・それが聖徳太子でも、ヒトラーでも、
そうだったはずだ(見たことは無いけれど・・・)。
 お乳が無ければ死んでしまい、排泄や清潔に心を配ってもらわなければ、
時には感染症を起こしてしまうこともあるだろう。
 まだ座れない時期には、仰臥の姿勢で泣くか笑うか、お腹がすいたら泣い
てお乳をもらうか、せいぜい自分の手や足に関心を持って動かしたりしてい
るくらいのものである。到底、ひとりで生きられはしない。


 そう考えると、私たちがこうして成長していっちょまえの顔をしている、
と言うこと自体で既に、誰かの世話になったことは間違いない。今在ると
いうことは、心を向けてくれるひとがいたからに間違いない。
 成長に従い、どんどん態度が大きくなる(少なくとも、私自身と息子達は
そうだな・・・)。でも、育ててくれた恩、なんて考えはしないけど、心の
中にいつも、大きなものとして、育ててくれた人は居続ける。どんなに成長
しても、換えてもらったオムツの枚数なんて覚えてなかろうが、「親(ある
いはそういった存在の人)」は、大きい存在なのではないだろうか。
 息子たちは、最近頓に態度がデカイ。でも時に、甘えた言動を見せる。
 もちろん、個々の判断や考え方ができてきだしているので、中学生くらい
までのように、頭ごなしに言うことは、殆ど無い。むしろ、若い正義心から
注意されることはあるけど、それを「あんたはまだわかっちゃいない!」と
言うほどの、あの元気さは今の私には無い。
 
 それに、・・・元気があったとしても、それを振りかざすようには使わな
い、それは、選択的に。簡単に言うと、私自身が、上からものを言われるこ
とが好きじゃないからである。ま、誰だってそうか。
 そんなわけで、彼らから見ると、権威的でない親に見えることだろう、と
思う(いや・・・私の母にも言われるな^^;)。
 
 私にとって、権威的と言うことと、頭ごなしに、時には非論理的に上から
言われる感覚の区別がどこか、ついていないのかもしれないが・・・。
 まあそれでも、言うべきことは言っているつもりではある。
 
 違う側面から見れば、断定的にものを言うほど自信がないようにも見える
だろうな。その実は、相手にも主張や事情があるだろう、と思ってしまいが
ちなのであるが、裏を返せば、私自身の主張や事情を考えてもらえなかっ
た、と私の心は感じているらしいことに気づいた。
 そんなわけで、息子達には私の想いと反する部分について、強く勧めるこ
とはしないようにしている。
理由は、やりたいようにやる時間は、人生に必要だ、と思っているからで、
いずれにしろ、なにがしか壁に当たり、頭を打つことがあるだろうと思って
いるからでもある。
 
私は散々っぱらそんなことばっかりをしてきたので、頭を打たないように教
えてやれるデータは、実は山ほどもある。変なことを自慢するようだが、こ
れだけは誰にも見劣りがしないと言う自信がある。
でも、教えてやんない。
私はけちんぼさんなんである。
こうした方が良い、と私の位置からは判ることであったとしても、そして
それが息子たちにとっても、そうだろうな、と思ってはいても、やらなきゃ
気がすまない、って事もあるだろうし。私が良し、と思う結果が彼らにとり
必ずしも良いとは限らないし。
 要は、自分が欲しかったモノを、子供たちに与えているのである。ま、こ
こぞと言うときに、口を出そうかな。・・・これがまた結構、難しいけど。
私の両親は、できるだけ苦労をしないで行くための選択肢を、いつも用意し
てくれた。しかし、私ときたら・・・。
 父の、楽な方にレールを敷いてやってるのになぜ乗らないんだ、と言う困
った顔を、思い出す。それでも、私の選択を重んじてくれたのは、深いとこ
ろで信じてくれていたのだろう、と今にして思う。
 今となれば、それぞれ選んでいることに関して、譲らないでほしい、と思
うし、信じ続けてほしいとも思う。誰に対しても。
 親人生が、長くなったせいもあるかな。もうこれは、願い、と言ってもい
いだろう。
 要は、自分が自分にどれだけの信頼と真実を与えられるのか、そういう生
き方ができたら素晴らしい。
 これは、自分自身にも、今この瞬間にも言い続けていることだけど。
 私がまだ、親から見守られていた時代には(今だってそうなのだと思うけ
ど)、親の言うことを家族中で一番聞かないやつだった。あれこれ言われる
と、却って迷ってしまうこともあり、自分で決めたことに、頑固でもあった
と思う。
 親が用意してくれたものが、親の思う「楽に生きる人生」であった時、私
はとっても反抗的になった。
 理由はとてもシンプルである。
 親から見れば、何が気に入らんねん、てとこであるが、親の思う楽な生き
方が私にとっては決して楽ではなかったからである。
親は、自分達の苦労を継がせたくないし、経験的にわかっていることは排
除してやりたい、という親心から提案をしてくれる。
 しかしこれは、親たちの感性であって、私のものではなかった。これに尽
きるだろうな。
更に・・・、どうやら、してみたかったのである、親と同じ事を。この誘惑
に私は勝てなかったようなのである。
 「親もすなる苦労と言うものを、私もしてみむとてするなり」と言う訳。
 あるいは、「これは食べちゃいけません。」と言われたものを食べてみた
くなる心理。禁止は、欲望の格好の促進剤である。あまのじゃく、というこ
とかな。
 そっかぁ。
 そう考えると、私の歩んで来た道が、外から見たら苦労街道まっしぐらだ
った理由も自ずと解ってくる。
 
 「○○しちゃいけません。」
 「こういう風にするべきです。」
 と、権威的に表現されてきた全てを、否定的したくなるのであるから、私
に楽な生き方を願っていたなら、親は私に対して、たとえばこんな風に言う
べきだったのだ。
 「楽な生き方を考えるな。自分の道を探して、悩みながら生きなさい。」
 
 こんな風に言われたらきっと、私はもっと楽な方法を選んだだろうな。
 別に、親を否定したかったのではなくて、時代の背景から考えて、権威と
常に葛藤してきた親の行き方をむしろ、真似ているのだ。
 子供にとり親は、「親と言うだけで権威」なのだから。
 時代の背景で、どうしようもない葛藤を抱えて生きてきた親世代は(何と
言っても、ある日を境に正義が反転してしまうようなことが起こったのだか
ら)その苦労をさせたくないがために、その人生での学びを、子世代に教え
てくれる。
 
ところが既に、時代の背景は違ったものに変わっている。親と同じ生き方を
しようにも、できないことも実に多くなっているし、価値観そのものの変化
もまた、めまぐるしい時代である。
 全く意味が無いわけではないが、親の教えどおりに生きていても、このご
時勢では決して楽でない事の方が多いような気がする。
それでも、結果として親に否定されてしまうことになりかねない。そうする
と行き場が無い想いを抱えてしまうことになるだろう。
 これは、世代・年代を問わないと思う。
 しかし、やりたいようにやっていれば、意外と後悔は少ないもので。これ
は、個人的な体験に基づいていることだけど。
それにしても、私たちの世代は、ハザマだな、と感じることが多い。正しい
ものがどこにも無い、と感じることも多かったし、今もそう感じて生きてい
る(少なくとも私は)。
あるいは、全てがそれぞれにとり、正しいのかもしれない、とも想う。
 数ある正しさ、真理の中から、自分らしさを選ぶ、そんな生き方ができれ
ばいい、と思う。
 過渡期に生まれ育った私たちは、いわば親世代からのカルマを、何とかし
なければいけない、と片意地を張って生きてきたのかも知れないな。
 
 親や、そのまた親、そのまた親・・・と遡って、親から継いだ財産でもあ
り捉われでもある部分を、かつては一生かけて消していたのだろう。
 私にとって、権威とは何なんだろうな。権威、と言うよりも、尊厳・・・
ひとり一人を尊ぶ気持ちを大切にしたい、と思っているのだけど。
 例えば、人生を賭けて予定していた「片付けごと」を早めに切り上げ、後
は自分らしさを十分堪能する、そんな生き方にシフトをかけていこう、なん
て思っている。
 色んな捉われから脱出する時がきているのである。
 自分らしく生きることを、命ごと見せてくれた友人のことを思いながら、
そんなことを考える。
 
 夏から秋へ変わる只中にこの世を去った友人は、それまでの、我慢の人生
を、病気を糧に、自分らしさの方向へと変えていった。
 彼女自身から、この話を多く聞いたわけではないが、知り合ってから亡く
なるまでの彼女の生き方は、そのことを言葉少なに見せてくれた。
 めずらしく、「今すぐに来て!!」と言う声に、感じたのは紛れもない
権威的な響きだった。かと言って命令でもない。
 心からの、声だった。
 私に逢いたい、と言う想い以外に、私にどうしても伝えたいことがあった
のだ、と今は思う。有無を言わさない強さの中にそのことを感じる。
決して抗えない権威とは、こういうものなんだ、と残り少ない時間の中で、
私に教えてくれた気がする。
 同じ時代を生き、大げさなことが無かったにしろ、社会や歴史に翻弄され
たそのけじめに、彼女は正しく権威を使った。私に、バトンを渡したのだ。
 自分の意志で生きることを選んだのなら、はっきりと伝えること。
相手も大切にしながら、自分が下がることよりも、どうしたいのかをきちん
と伝えること。
その結果まで、最初から気にする必要なんてない。 
 
 彼女はそんなことを遺していってくれたような気がするのだが、実は 私
がいつも、どこかでひっかかっていたことなのである。
自分をいつも後回しにしてきた彼女が、似たところのある私に、その大切な
時間を以って伝えてくれたのだ、と思っている。相手を大切にしながらも、
権威を以って自分の想いを伝えることの、大切さも。 
 
 随分早く、身体と言う捉われを手放した彼女。また逢えるその日まで、彼
女からのギフトを温め続けて私らしく生き続けよう、と心から思っている。
 秋の高い空の上から、彼女は微笑を湛えて今も私を見てくれているかな。
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