ワーカーホリックの罠

僕の社会人としての振り出しは、定年退官された大学の恩師(先生)が自分の
技術をもっと世の中に活かしたいという思いで設立された、ご家族で運営され
ている研究開発の会社でした。
先生はその分野では世界的に有名な方で、退官後も私立大学の学長を務めなが
らご自分の会社を運営されていました。
最初、僕は学生時代から始めた予備校の講師を続けながら、アルバイトとして
週3回ぐらいのペースで、共同研究先の企業から派遣されている方々と一緒に
仕事をしていました。


そして、そのまま半年ぐらいの月日が流れ、予備校の講師を続けるのも何とな
く僕の性分に合わない感じがし始めたので、先生に先生の会社に就職したいと
お願いをしました。僕は教科書にもどこにも載っていない答えを探求する研究
開発の仕事が好きでしたし、何よりも先生の元で仕事をすることは新しい技術
や新しい考え方を学べて刺激的だったからです。
先生はそんな僕の願いを受け容れてくれて、僕はその会社の正社員第1号とな
りました。
そして先生はそれをきっかけとして、会社を少し大きくする考えになられたよ
うで、それまで無かった社会保険も完備していただきました。
僕は、そんな先生の気持ちに応えたいと思い、また社員第1号の自負を持って
朝から夜中まで、休日にもほとんど休むことなく仕事をしました。
そんな働き方をする僕を支えた原動力は、この会社を大きくしていきたいとい
う強い思いでした。研究開発の仕事はエンドレスです。やろうと思えばいくら
でも仕事はありました。
先生は、やがてそんな僕の仕事ぶりを認めてくれたようで、重要なお客さんの
打ち合わせに同席するようになりました。先生は、学会の招待講演などで世界
を飛び回られている事も多く、また学長としての仕事もあって、会社におられ
ない事が多いぐらいでした。そんな状況ですから、お客さんに対しては、「何
かあったら技術の事は大谷に訊いてください」と言われるようになりました。
一方、その頃には新しい社員も何人か入り、様々な仕事が並行して進むように
なっていました。ますます仕事が増え、僕は寝る間も惜しんで働きました。毎
日夜中に家に帰り、朝眠い目を擦りながらの出勤。休日も、もちろん出勤。夏
休みも取れずに仕事。まるで何かに取り憑かれたように仕事三昧の日々を送り
ました。
ただ、社員が増えるにつれて僕の心には少し複雑な思いが潜むようになりまし
た。
先生はそれまで殆ど全ての仕事を僕に「手を出さなくても良いからウオッチし
ておいてくれ」と話していたのですが、社員が増えるにつれて、先生は直接他
の社員と仕事をやりとりするようになっていったのでした。僕は、僕自身の存
在が薄れていくような感じを受けていました。今から思えば、きっととてつも
ない仕事量を抱えながら四苦八苦している僕への気遣いだったのかもわかりま
せん。
そんな生活を続けていたある日、僕は急に体に変調を感じました。食事が摂れ
なくなり、横になると起きあがれないぐらい体がだるくなったのです。大好き
なお酒も、ビールをコップ1杯ぐらい飲むと頭がガンガン痛くなって飲みたく
なくなります。「何か変だな」と思いつつも、仕事を休むわけにはいきません。
日曜日の午前中に診療している病院に行って診てもらい、採血してもらって、
その日も午後から仕事に行きました。しんどくて、廊下に空気の入った梱包材
を敷いて時々横になって休みながら、でもひとつひとつ仕事をこなしていきま
した。平日と違って日曜日は電話がかかってくる事が殆ど無く、自分の仕事を
片づけるには最適な日だったのです。
その翌日、月曜日の朝はもう起きたくないほど体がだるい状態でしたが、その
日は遠方からの来客があり正に這うようにして会社に出かけました。
午前中にお客さんと製品開発に関する打ち合わせをして、そのお客さんと昼食
を一緒にしましょうと近所にあった有名な行きつけのうなぎ屋さんに出かけま
した。
いつものように厚みのある焼きたてで美味しそうなウナギが出てきました。普
段ならパクパクと食べるのですが、その日は全く食欲が無く、申し訳程度に箸
をつけて終わりにしました。
そんな僕の様子を見て「どこか悪いのですか?」とみなさん気を遣ってくれま
したが、「風邪でしょうかね」と僕は答えました。
食事が終わって会社に帰ってみると、「すぐに家に電話が欲しい」との伝言が
ありました。さて何が起こったのかと電話してみると、昨日診察を受けた病院
から電話があって、「今すぐに入院してください」との事でした。
「入院ってどうして?」
僕は風邪かなぁと思っていたので、果たして何が起こったのか、これからどう
して良いのかよくわかりませんでした。しかしとりあえず先生に事情を話し、
その日はそのまま家に帰りました。
病気は、急性肝炎でした。
肝臓の細胞が壊れる指標となるGPTは、健康な人は高くても40程度なので
すが、その時僕は2300ぐらいと極めて高い数値を示していました。昨日診
察してもらった時には見落とされた黄疸もかなり出ていました。
それから、僕の入院生活が始まりました。
それまでの慌ただしい生活から一転、点滴と注射と食事以外は何もすることが
ない時間が始まりました。最初の何日かはとても仕事のことが気になり、また
先生や他の人たちにとても申し訳ない気持ちがしました。またその一方で、心
のどこかで僕がやっていた仕事が、どこかで停滞することを願っている自分も
感じていました。僕は、それほど自分の存在価値を認めて欲しかったようです。
しかし、ベッドに横たわってそんな虚無の時間を過ごしているうちに、自分が
このような状態になって本当は心のどこかでほっとしていることに気がつきま
した。
「病気にでもならなければ休めなかった自分。そしてこの入院生活は、神様が
見るに見かねて与えてくれた休日かもしれない・・・」そんな事を思いました。
60日余りの入院の後、肝機能も正常値に戻って無事退院しました。
「お前、酒の飲み過ぎだろう」肝臓病というと、当時はそんなことをよく言わ
れましたが、僕の場合、急性肝炎の原因は結局わかりませんでした。ウイルス
検査も、当時可能なA、B、Cを何度か繰り返して調べてもらいましたが、結
局ウイルスは発見されませんでした。
僕は、好きで研究開発の仕事を選びました。
しかし、カウンセラーの世界に身置く今、思えばそれがいつの間にか僕の心の
内側にあった自分で自分を認められない気持ちを刺激し、認められることの喜
びや他の社員との競争心に変わっていった事がよくわかります。人よりたくさ
ん仕事をし、あたかも会社の中で先頭を切って走ることこそが自分の価値や優
秀さを示す事になると思っていたのですね。
そして得られたものといえば・・・そう、肝臓について少しばかり講釈ができ
る知識と、体を壊す経験ぐらいでしょうか。
最近僕は思うのです。
人生とは認められることでもなく、また誰かとの競争に勝つことでもないと。
人生に目的があるとしたら、それは自分や周りの人を大切にし、みんなと一緒
に今を楽しく過ごすことではないかと。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

恋愛や夫婦間の問題、家族関係、対人関係、自己変革、ビジネスや転職、お金に関する問題などあらゆるジャンルを得意とする。 どんなご相談にも全力投球で臨み、理論的側面と感覚的側面を駆使し、また豊富な社会経験をベースとして分かりやすく優しい語り口で問題解決へと導く。日本心理学会認定心理士。