数字の魔術、言葉の魔法〜観念から脱出への第一歩として〜

 パソコンや携帯などで文章を作り、人に伝えることの増えた昨今、少々漢
字を覚えていなくても支障を来たすことも減りました。偏(へん)や旁(つ
くり)を覚えていなくても、書き順や送り仮名を少々違えていても、変換機
能は文章を作る私よりも賢いはずなので、大船に乗った気分でいるわけで
す。でも自分が覚えたのとは違う送り仮名で変換されることも時々あり、あ
れっ?と思うことも少なくはありません。いつ変わったんや〜って思うんで
すよ。でも私は案外こだわりがあり、気になってしまうのですが、それには
子供の頃からの経緯があるのです。


 小学校2年生の頃の担任の先生は(後で知ることになるのですが、中・高
の国語の免許をお持ちだったようです)、国語教育に熱心だった方で、ちょ
っとした日常を文章化したり、漢字に関心を持つような授業が多く、国語辞
典を推奨されていました。私の母は小学生向けの分厚くて字が大きくわかり
やすい辞書を買ってくれ、重いけど毎日のように持って行っていたような記
憶があります・・・とは言え当時の私は小学校の門のすぐ前に住んでいたん
ですが。この辞書が私は何だかとても好きで、暇があると思いついた言葉を
引いてはまた次の言葉を捜す・・・ネットサーフィンならぬ辞書サーフィン
をするのを楽しんでいるチョット風変わりな子供だったと思います。この頃
の習慣のお陰で辞書を引くのはもちろん苦にならないし、名寄せしてあるも
の・・・たとえば電話帳や各種の名簿などを調べるのは事務職をしていた頃
の私には特技の一つだったんです。人間、何が幸いするかわかった物ではあ
りません。また、足が悪かったので家にいる時間が長かったんだと思うので
すが、母がこつこつと買ってくれていた本を片っ端から読み、父が購読して
いた「小説新潮」なんかも父から許しをもらって読んでいました。あまりの
濫読ぶりに、知識はあるのだけどそのソースがわからなくって、昨今のウェ
ブには本当に助けられていることが多いと思います。
 文字と仲良くしていたので、文章を読むことやそこから思索を広げること
には慣れていたのですが、高校生になるとたちまち困ったことが起こりまし
た・・・。数学です。方程式の展開や因数分解辺りは問題がないのですが、
様々な公式を覚えて活用することが増えると、その公式がいったいどこから
やってきたのか!?sign30°の数値はまあわかるとして、どうして
signの二乗とcosineの二乗を足したり引いたりせなあなんねん?指数
対数っていったい何やねん?どこにあるねん、そんな数字がぁっ!!と言
うところにまんまとハマり、今に至るわけですが・・・問題の意図も理解で
きて答えも(何となく・・・)わかるのに、数式を一つ飛ばしたりしてしま
うための間違いが多く、天才的に数学が苦手、と思うにいたりました。物理
にいたっては、論理的なことは面白くてわかっているつもりなのに、問題を
解くとなるとチンプンカンプンで・・・たとえば力の合成でベクトルを使う
のまではわかるけど、エネルギー保存の法則ってのもわかるけど、それに実
験は大好きだったけど、数式をずらぁっと並べて書く間に必ず横道にそれる
か頓挫してしまって、部分点しかもらえなかったり。まあ、これだって私を
形成している大切な部分ではあるのですが、得意な教科と不得意な教科のあ
まりなギャップぶりに(要は勉強してないんだけど)今もって数学・物理ア
レルギーを感じてしまう私なのです。
 しかし、別に数学や物理に罪があるわけでも、三角関数や指数・対数に罪
があるわけではない。かと言って勉強しなかった私が悪いのか!?第一、ホ
ンマの話、私が生活して来た中で、あるいはこれからも、指数対数や三角関
数を日常的に使うとは思えない。もちろん、モル数、クーロン数やフレミン
グの法則なんてのもそうだ。S+V+O+Cをちゃんと覚えて無くても私は
何とか外人講師さん達と会話をしてきたし、関が原の合戦の年号を知ってい
るのはK社の歴史ゲームをする人だけかもしれない、と思ったりするのです
が・・・。
 でも、本当にそうなんでしょうか。勉強ってそれだけの物なのかしら?私
は偏差値に悩まされてきた人ではあるのですが、大体偏差値って何だ?
・・・Wikipediaによると・・・
 〜偏差値(へんさち、Standard score)とは、ある数値が
母集団の中でどれくらいの位置にいるかを表した無次元数。平均値が50、
標準偏差が10となるように標本変数を規格化したものである。だいたい
75から25まで分布しているが、それを超える事もある。〜
とあります。まあ、平たく言うと、母体集団・・・たとえばある学校のある
学年・あるクラスにおいて、自分の得点が全体のどの位置にいるかを知るた
めに数値であると言うこと。だからあるテストの素点(実際の得点)が同じ
70点だったとしても、学校やクラスが変われば偏差値は違ってくると言う
こと。これはすごく当たり前のことなんだけど、『偏差値』と言う言葉の持
つ魔力みたいなものに、私たちは惑わされて久しい気がします。まあ、自分
のいる位置を測るにはこれとない数値ではあると思うんですが、「個を尊ぶ
教育」とはちょっと遠い気が・・・十代の頃も、四十路の半ばを越えた今も
思い続けているんです。
 色んな数値が横行しています。平均身長、平均体重、最近ではBMI、
体脂肪率などなど・・・。でもね、考えたことがありますか?人の骨の数っ
てたいていは同じです。勿論長さや骨密度、太さは違うけれど。そして臓器
だってみんな同じものが同じだけあるわけですから、体重と身長の比率、と
言ってもこれはちょっと不公平じゃないの?とちびっ子の私は思ったりして
いたわけです。ところがある職場(学校)の行事で、医学部の解剖実習を
見学する機会があり、好奇心だらけの私があちこち見ていると、親切な医学
生が色々と見せてくれて、人の内臓の大きさは身体の大きさに比例すること
が多いらしい、とこの目で知る事になるのです。身長が140センチほどの
女性と、180センチ近い男性の肝臓の大きさには確かに目を見張りまし
た。
ふむ・・・臓器自体も大きくて重いのかも・・・。なので、BMIは或る程
度は(私の中で、です、あくまでも。)納得できるけど、私は骨太、筋肉質
(鍛えてないけど、肉質ね)なので、体重がどうしても重いんです(・・・
どうやら本丸にたどり着いたようだ)。だから、ちょっぴり私自身やそう
言った体質の方の名誉のためにも?いやいやそれだけじゃなく、数字はあく
までも目安、と私は思っているんです。
 サンテグ・ジュペリはその作品、「星の王子様」の中で、様々な「星」の
住人と王子様とを語り合わせ、数字や統計よりも『もっと大切なもの』に注
目をしています。曰く、本当に大切なものは見えない。砂漠が綺麗なのは、
どこかに井戸を秘めているから。星の輝きはここから見えなくてもそこに
花が咲いているから・・・。確かに、数字より魅力的に、私には思えます。
また、赤ちゃんが生まれた時に『アプガール数』と言う点数をつけることが
ありますが、これだってあくまでも目安で、統計上色んなことがわかること
がありますが(病気の有無や発育状態についてなど)、あくまでも統計上で
すから、この子はこうなるはずだ、と言う決まりなのではないんです。数字
を正しく有為的に使うには、平均値やこう言ったものに捉われ過ぎてしまう
と、本質を見失って本末転倒することもあるように、体験的にも思います。
 交通事故で亡くなった方の遺族の方の話の中に、こんなものがありまし
た。
 「搬入されてから意識が戻らないまま人工呼吸器を付けられて、オシログ
ラフが平坦になっても、呼吸器の音がしている。私には死んだとはとても思
えなかった。数字がゼロになったから死んだ、と言われてもすぐには受け入
れられなかった。」
 
 数字的に「死」だと言われた気がした、と言うことなのですが、もちろん
身体はいつかは滅びますから生体反応がなくなった時点で、それは死、と言
うことになりますが(この際は脳死とか心臓死とかはちょっと置いておい
て)、人工呼吸器の作動により肉体が生きているように感じられるし、何よ
りも意識がなくてもさっきまで生きていた家族が、数値によって生と死を分
かたれたように感じられていたのではないでしょうか。
 数字は、使い方で本当にどうにでもなるものかもしれません。そこに何ら
かの作意があったとしてもなかったとしても・・・それで人生を左右されて
しまうことも。
 前述した、小学校2年生の時の同級生の内何人かとは今も会うことがあり
ますが、なぜかみんな教育関係の仕事に就いているんです。私の知る限りみ
んなひとの心に寄り添うタイプの教師なんですね。これは統計的に見ればど
うなのかはわかりませんが、それにたまたま、と言う見方も大きいとは思い
ますが、みんな夢中になって自分の感じたことをノートに書いて毎朝先生に
読んでもらっていました。かく言う私も文章を書くことにあまり困らないで
いるのは、この先生にめぐりあえたからだ、と思っています。出来ればこの
クラスの追跡調査をしてみたいものです・・・無理だとは思うのですが。
 もしかしたら「三つ子の魂百までも」を、この目で知る事ができるかもし
れません、あの解剖で見た臓器の大きさと同じように。
 観念、思い込み、を作っているものにはこういった数字の魔術と、言葉の
魔法のせいなのかしら、と思う今日この頃なのです。
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