トリック  〜〜推理小説マニアだった少女時代の私〜〜

 12月の中旬に、横溝正史作品の「犬神家の一族」のリメイク版がロードシ
ョウ公開される。懐かしい・・・!!しかも前回と同じ市川昆監督で主演も
石坂浩二である。小学校時代は学校図書室にあったあらゆる推理もの、探偵
もの(ルパンやホームズ、明智小五郎のシリーズはもちろん完読である)を
読み尽くし、高校時代映画研究部に在籍した私としては垂涎ものなのである。
角川映画が最盛期の頃に中・高校生であった私は、映画もドラマも原作も勉
強そっちのけで夢中だったものだ。横溝正史以外に森村誠一の「証明」シリ
ーズや松本清張の「砂の器」なんかにもすっぽりはまった。「人間の証明」
の英語の主題歌を今でも空で歌えるくらいだ。西条八十の「帽子」と言う母
を懐かしむ詩をそのまま英訳した歌詞である。・・・ほんまに、そのくらい
勉強していたら私の偏差値は相当上がっていたことだろう!でもカラオケの
持ち歌は少なくとも一曲少なくなっている。まあ、それが私の人生の大局に
何らかの影響があったかと言うと、たぶん大してないのだろうけど。


 横溝正史をより身近に感じるのにはいくつか理由がある。私の地元出身で
あり高校の大先輩であると言うことももちろん大きいが、舞台となった戦前
の旧家のイメージやそこにある土壌、骨肉の問題、既成概念・・・と言った
ところに大きく魅力を感じているのである。個人的に、風采と頭脳が裏腹の
金田一耕助に魅力を感じているのはもちろんのこと(こう言うコントラスト
のはっきりした個性にとても魅かれるのである)、横溝作品にはこういった
背景は欠かせない。そして「法律」以上の馘と言うか、一族の結束やしきた
りが必ず大きな意味を成す。今の私などが見ると、「そんな人を殺すほどで
もないのに」と言うようなことも、殺人の動機となる。
 この動機の背景について、少女時代からずっと思ってきた事がある。私の
父方の祖父は42歳で幼い父たちを残し早世しているのだが、祖父の生家が
まさに横溝作品にあるような古くて固いお家なのである。そう、祖父の生家
つまり私たちにすれば本家になるのだが、まさに横溝作品に描かれるような
家だったようだ。ただし、殺戮があったとは聞いていないけれど。
東京で学生生活を終えた祖父はそのまま某官公庁に就職し、亡くなるまで
殆ど地元には戻らなかったようだ。地元に戻れば職もあるのに戻らなかった
のは、祖母が東京の人だったからで、祖父が危篤になり祖父の姉が駆けつけ
た時に幼い子供がいる家庭を知り、驚いたと言う。祖父は想像するに、相当
反逆児であったようである。いわゆる、身分違い的な発想の元反対されるで
あろう結婚をあの時代に(昭和の初期である)通すには他に方法がなかった
のかも知れない。いずれにしろこの祖父母なくしては当然、父も私たちも存
在し得ないのである。居たかも知れないが・・・少なくとも今こうしてこの
コラムを書いている私ではなかっただろう。
祖父母が幸せだったかどうかは今となっては知る由もないし、両親亡き後
の父の苦労は実際には父や周りから聞いているより大変なものだったろうと
は想像しうるが、どうやら官公庁勤めも読書好きも、私の中に流れる遺伝子
に書き込まれている祖父からの流れのような気がする。反逆児の血は・・・
と言うと、時期は忘れたが学校に提出する資料に「反骨精神がある」と母に
書かれた記憶がある。私の母は・・・そういう時には妙にはっきりものを言
う人であった、昔から。(子供心に何もそんなこと書かんでも・・・とは思
った。)私なりに筋を通そうとする姿が母にはそう映ったのもしれないが、
この年になると母の私への評価は「あれで結構物を考えている」らしい。私
自身そう変わってはいないつもりなのだが、母自身の見方も変わってきたの
だろう。母が味方でいてくれたことを今更ながら思い、親とは本当にありが
たいものだと思う。
話を元に戻す。横溝作品に不可欠な、「血」「地」「しきたり」と言った
要素は、そういった事もあり私にとっては郷愁を誘う物となっている。まさ
に、血が呼ぶという感じだろうか。また、地方は異なるが母の実家のある長
野の片田舎の風景を思い起こさせる描写も多く、まさに私の中のノスタルジ
ーなのである。
この要素は不可欠であるにも関わらず、犯人捜しにおいては「盲点」とな
っていることが多い。大体推理小説と言うものは、スキルフルなトリックや
盲点と、読者との鬩ぎ合いだと思っている。トリックのみならずこの盲点の
作り方こそが推理小説を面白くし、作家や登場人物の個性を際立たせるもの
だと思うが、横溝作品には時代的・地域的状況があからさまに初めから提示
されているにもかかわらず、さらなる盲点が隠されていたり・・・それはた
いてい誰かの出自であったりするが、それに対する旧態然としたある種の感
覚への作者の何らかの意思を感じるのは、私のこだわり故の投影なのかもし
れないけれど。
田舎育ちの母。都会で苦労した父。両親の大きな影響下に育った私は、横
溝作品に流れるものに似た旧態然とした価値観と都会での生活や時代の趨勢
の中で作られた、独自の価値観や自己概念を持っていると思うのだが(誰で
もそうかもしれないが)、そういった観点からも「固定観念は人をも殺す」、
と思ってしまう。横溝作品の事件の多くは、「世間体」から来ている事が多
い。現実に眼を向ければ悲しい事件の背景にそういった事を感じることもあ
れば、全くそうではない突発的な事情や要件や、個人的な素質的側面に関わ
る事が多い。しかし、事件にならないところでこだわりや観念から「自分を
殺して生きている」人のどれだけ多いことか。
「私だけが我慢していればよい」「子供のためにこれからは生きる」「み
んなそうしているのだから」「これが手に入れば幸せになれる」・・・そう
して生きていく事を全面的に否定するつもりはないし、そう言う中にある幸
せだって大切だとも思う。でも、その事で生き生きとした心・・・自分自身
や大切なパートナーや、子供、友達、家族、仕事仲間などの・・・を制限つ
きにしてしまってはいないだろうか。そして制限のついた中で生きる事で実
は自分自身の幸せも制限つきにしてしまってはいないだろうか。時には倫理
的な考え方と個々の幸せの方向が異なってしまわざるを得ない事だってある
のでは、と思う。もちろん道義的・社会的責任だってある。でも、そういっ
た責任も考えながら、自分の幸せを大切にすることが自分や周りを一歩進ま
せることになる事だってある。倫理規範や世間体のようなものも大切だが、
そのことに重きを置いてみんなが少しずつ我慢して生活基盤を築くことが大
勢だった頃の生き方と、「今」に生きる私たちとでは、もはや幸せの捉え方
も違っているんだな、とこのごろ頓に思うのである。幸せとは多様なものだ
と思うから、それが本来なのだろう、と思う。それぞれが何を大切に感じて
いるのか、大切に扱っていくのか。多様化はますます進むだろう。
「百人いたら幸せは最低百通り」
鬼首村や月琴島の旧家や犬神家の当主にこんな考え方があったら、(小説
の中の)残虐な事件も起こりえず、金田一耕助と言う名探偵は生まれなかっ
たに違いない。そして何より横溝正史と言う偉大な推理作家も居なかったか
も知れず、あるいは全く異なった作風で名を上げていたかもしれない。でも
少なくとも私たち自身の人生では、まだ選ぶことができる。作品の中で起こ
ったような殺戮でないにしろ、持ち味を殺さずに自分自身の人生を生きるチ
ャンスはいくらでも見つけられる。
〜あなたは、自分を殺して生きていませんか。自分の人生を自分のために
選んで生きていますか。何かに必要以上にこだわって、自分や大切な人への
制限にしてしまってはいませんか。〜
事実は小説よりも奇なり、と言う人生はそれもまた良いものだけど、猟奇
的なトリック並みの罠をしかけて自分を活かさないようにしていないか、私
自身にも問いかけをしているところだ。私の巧みな罠は自分でも仕掛けてい
ることに気づかないことさえある。波乱万丈な人生であったとしてもどうせ
なら、ハッピーエンドの優しい物語を綴るように生きることを今ならまだ選
べる。それは私のみならず、読んでくださっている皆さんにも言えることだ
と思う。
まだまだ遠いいつか・・・ハッピーエンドを書き上げる最期の日のために、
自分の作ったトリックと向き合おう。その巧みさに唖然とするのも楽しみに
数えても良いかもしれない。はずれていった私自身のトリックの数々は、セ
ラピーにも活かすことができるだろう。
時代背景やさまざまな状況を考証して名作を世に出し続け、大切な何かを
伝え続けた大先輩に思いを馳せながら、人を癒すと言う事において形よりも
癒すこと自体に私はこだわり続けたい、と思っている。
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