○蒼氓

 音楽好きの私は、車の中でも家の中でも、たいてい音楽を流しっぱなしです。
タバコやお酒、恋愛などの依存は皆無なのですが、音楽アディクション
(依存症)かもしれません(笑)。
そう、それに昔は活字中毒、と言われたこともありました。車中から見える
看板、電車の吊り広告、目に入る文字を次から次へと読まないと気が済まない
ような感じ。高校時代がピークで、古本屋で千円で買えるだけの本を買って、
とにかく読む。


1日に7冊読んだことも。家族からは本の虫と呼ばれてた(笑)。
図書館にも出入りしていましたが、これは憧れの先輩に会うため(笑)。
返すのが面倒なので、あまり借りることがなかったんですね。
読むジャンルはまったく無作為と言ってもいいほどで、手当たり次第。
まさに濫読でした。
そして子供時代にはまっていた一人遊びに最近名前を付けました。
その名も「辞書サーフィン」。気になる言葉をまず引いて、連想するもの、
関連するもの、どんどんページを繰って探すわけです。
これは百科事典でもやっていましたね。
私は結構つまらないことをよく知っていると思うのですが、土台はこんなとこ
ろにあるようです。音楽も同じで、ノンジャンル。
気に入ったものを「サーフィン」していくので、ジャンルと言うよりたとえば
特定の楽器とか、人とか、曲とか、については本当につまらない知識があった
りします。役立たずの知識、と自分では思っていますけど、自分を楽しませる
にはなかなかいいものです。
 表題の「蒼氓(そうぼう)」は、辞書で調べると「ひとびと。民。」と言う
ことです。石川達三の小説の題でもあり、山下達郎は同名の曲を作っています。
どちらも、私の「愛蔵版」です。達三の小説の始まりは、こうです。
「1930年3月8日。神戸港は雨である。・・・」
  
 小説の中にもあるように、神戸の中心地・三宮の北側(神戸の人間は、山側、
と言います)に古びたビルが今もあります。つたが絡まり、神戸市内を見下ろ
す六甲三系へ続く道のあがり口の近くにたたずんでいるそのビルは、子供のこ
ろからなぜか気になる建物の一つでした。
その昔の名前を「国立海外移住民収容所」といい、ブラジルへの移住を目指す
人々が集った場所でした。「蒼氓」はこのビルから始まる2ヶ月弱のブラジル
移民の命がけの旅を描いたもの。濫読時代に読んだ記憶があったのですが、
思い立って図書館に立寄り読み直しました。
 収容所には、まだ見ぬ異国の地での新しい生活にこの後の人生を賭ける人た
ちであふれ、さまざまな人生が、吉に変わるかあるいは凶か、というまさに人
生の岐路にいる人々。出逢いもあり、別れもあり、死も生もある。
出港してしまった船は、あたかも一人一人の人生。引き戻せない地点を越えて
しまった人々、900人余りの農民を遠くブラジルへ運ぶ船。その船に乗れる
か乗れないかの結果をこの「国立海外移住民収容所」で待ちわびる人々。
いくつかの不正や、隠し事。病気。とにもかくにも、船に乗れることになった
人たちは神戸港を後にします。
そうでなかった人たちは、どうなるのだろう。土地や財産を処分してことに臨
んだのに。知るすべもないけれど、でも、きっとたくましく生き抜いて、日本
に残る意味があったのではないだろうか、と思いを馳せていました。
 無事、船に乗れた人たちは期待と不安が交錯する中、船旅の中でもさまざま
なことに遭遇します。
それまでの人生では出逢い得なかった人達と出逢い、ひどい船酔いに罹ったり、
生き死ににまつわる出来事があったり、喧嘩があったり、恋愛沙汰があったり、
と。
 
 小説は佐藤夏という女性を中心に描かれています。当時・昭和の初期に生き
た日本人の価値観や女性特有の良い意味での狡猾さ。つまり、諦めの中に希望
を見出す力、かな。見え隠れする感情の動き。そこに人間関係の相関性が絡み、
船全体の事件が流れていく。そして、ブラジルでの生活が始まるところまでが
描かれているのです。
余り詳しくないのですが、達三自身が移民船に乗ったことがあるらしいのです。
その描写はリアルで、震災経験者の私は震災当日に母と妹が収容された病院に
行ったときの光景を思い重ねてしまう場面もありました。見慣れたその病院は
震災直後には野戦病院と化していたんですね。船の中でも一時的にそう言った
状況になるのですが、船の中の日常という非日常に、さらに非日常が入ってく
るわけです。
船に乗っている人たちは船旅を終えたところで以前の日常には戻ることはあり
ません。
体や口に合わない食事にも合わせていかなければいけない。
喋れない、ではすまないから言葉も最低限覚えなければいけない。
生活するために、今までの知識や技術、つながりを活かしながらも地元での暮
らしを受け入れなければいけない。
異国の地で自分の足で立つことを思うとき、受け入れ難かったことも受け入れ
ざるを得なくなる。
 
 別の件で調べごとをしていて、震災時の被災地での精神疾患の罹病率が、
直後には非常に低かった、ということを知りました。生きることに、まさにそ
の日食べることに精一杯。お水をはじめ、途絶えたライフラインの代替の確保、
弱者(老人、子供、ハンディキャップのある人など)の保護、見知らぬもの同
士の譲り合い、連携。
大変な出来事ではあったけれど、人と人の心からの触れ合いがあった分、張り
合いもあったのでしょうか。
確かに、壊れた信号機のある交差点では、無言のルールのように、車両を運転
するもの同士が譲り合って事故はありませんでした。飲み物を求める人たちに、
「これでよければ」と在庫を放出してくれるお店。
普段はあまり人にいい接し方をしないように思われる人たちの温かい炊き出し。
人の美しさを見た思いがしました。
一方で、心無い出来事もあったのですが。そんなことを、ブラジル移民の人た
ちに重ねて読んでいました。
 蒼氓。
ひとびと。それぞれの人生。
多くの人に埋もれているようで、一人一人が自分の人生を生きている。
誰かの人生では「自分」と言う存在は脇役、でも自分自身の人生では自分以外
が主役ではあり得ない。どんなスーパースターでも、偉大な政治家や学者であ
っても、自分自身の人生では脇役です。パートナーとの関係性でも、社会での
人間関係でも、どんな立ち位置にいたとしてもあなたや私が生きる意味は、
自分が見出す。自分自身にしか探せない。大げさなようだけど、そんなことを
思っていました。
車の中で、いつものように音楽をかけていました。山下達郎の「蒼氓」がかか
り、達三の「蒼氓」を重ねながら聴いていると、一緒に乗っていた二人の息子
が同時に言いました。「もう一回かけて」と。
この子達も、私から見ると「私の息子」。
この子達から見ると私は「俺らのおかん」。
でもそれぞれの立場やフィールドは違います。
これから、もっともっと違うところで生きて行くはずです。
大勢にまぎれて生きていくのかもしれません、私もまたそうであるように。
絵を描こう、と思いました。果てしない花畑。満開の桜や躑躅(つつじ)。
海の波、その上を飛び立つ海鳥。一つ一つを書き込むのはとても大変ですし、
とてもできるなんて思いません。一輪だけ、一波だけ、一羽だけを丁寧に描い
てみたい、たくさんの中の一つを。その一つだけが主役なのではなく、他のど
れをとっても主役。そんな気持ちで絵を描いてみたいなぁと思いました。
下手でもなんでもね。
でも重い腰をあげるのはいつかしら。
うーん、絵は描かないかもしれないなぁ。
でもそんな絵を描くような気持ちでいられたら、と思います。
そんな眼で、誰かを、大切な人たちを、自分を見つめられたらなあ、と。
石川達三が、ブラジル移民船の人々へ向けた優しい視線のように。

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