高校生のころ、なぜか「早く23歳になりたい」と思っていた。
23歳はもう立派な大人で、しっかりと自分の人生を歩んでいるだろうと想像していた。
なぜ23歳を立派な大人だと思ったのかはわからないけれど、実際に23歳になった私はまだ実家に住んでいたし、全くもって自分を大人だとは感じてはおらず「あれ?23歳って別に大人でもなんでもないのか」と我が身を振り返りつつ拍子抜けしていたのを覚えている。
「自分はいつになったら大人になるんだろう?40歳くらいには流石に自分を大人と思えるのかなぁ」とゆる~く想像していた。
30代は自分を大人だとか子供だとか感じる暇もなく、息子と娘の子育てや元夫の親兄弟や親戚との交流で流れるように過ぎていったように思う。
無我夢中という感じ。
40歳手前で離婚問題が勃発し、私の「40歳には大人になっているだろう」という予想は見事に打ち破られた。
私が思い描いていた大人とは、どんなことがあっても動揺せずにドンと受け止め、自分に責任を持ち、冷静に状況を見極め判断決断し、人に対しては決して怒らず穏やかに対応できる、成熟した自分、確立した自分だった。
が、実際は全く違った。
元夫の異性関係が発覚したときには、大いに動揺し事態が飲み込めず混乱。
状況を把握してからは「この男のせいで私の人生がめちゃくちゃだ」と自分に対する責任を放棄し、当然のように元夫に怒りをぶつけた。
しばらくは、その私の振る舞いは正当で理に適っている、真っ当だ、と思っていた。
けれどなぜか、どんどん苦しくなっていった。
その苦しさは、私のその態度が、私が思い描いていた大人とはかけ離れた振る舞いで、自分の未熟さを思い知らされ自己嫌悪に陥り、さらには全てを元夫のせいにしている自分をどこかで感じながら、ただただ怒りをぶつけていることの罪悪感を感じているからだと、あるとき気づいた。
「40歳は大人」どころか自分の価値観や観念を見直す、自分の立て直しの年代だったように思う。
思春期を迎えた子どもとも激しくぶつかったり、反対に気づかされることがあったり励まされることがあったりしながら。
そして50代の今、どんなことがあっても動揺せずにドンと受け止め、自分に責任を持ち、冷静に状況を見極め判断決断し、人に対しては決して怒らず穏やかに対応できる、成熟した自分、確立した大人の自分になれたのか?というと、50代になった今でも迷うこともあるしプレッシャーを感じることもあるしイラッとくることもある。
けれどその頻度や質や量、重みが違ってきている気がするのだ。
以前なら、何かあると感情が揺さぶられて振り回されていたようなことでも「そうか」と受け流せたり、納得がいかない結果でも「自分が選んだことだから」と受け止めることができたり、イラッとするよりは「やれやれ」とひと息ついて対処できるコツを掴んできたように思う。
心理学を学んだことは大きくて、知らず知らずのうちに耐性がついていたというか、心が鍛えられていたのだろう。
そしてなにより、自分を許すことが上手になって自分のご機嫌を取る術が身についてきたのではなかろうかと思う。
失敗して落ち込んだり悲しいことや辛いことがあっても、その自分を許し受け容れられるようになった。
昔はそんな自分を許せずに、随分責めたり嫌ったりしていたのだけれど。
それに気づいたとき、完璧ではないけれど少しは自分を大人だと思えるようになった。
昔の自分と比べると器が拡がったな、と。
人生100年時代だとして半周とちょっと。
今振り返ってみると過去の自分を愛おしく感じる。
当時はありのままの自分を未熟者で不出来な奴だと自分を認めたり愛することなんて出来なかったけれど、それだけよりよい私になりたいと一生懸命だったのだなと思う。
悩みの中にいるときは実感しにくいけれど、その問題は必ず私たちに成長をもたらしてくれているのだと最近つくづく思う。
そしてその成長が問題の裏に隠れていたギフトなのだな、と。
藻掻いて足掻いている時期は苦しいけれど、プロセスは完璧なのだ。
なので、今まさに問題の渦中にいる人は辛くて苦しいかもしれないけれど、その問題はあなたを成長させ心が鍛えられているのだと自分自身を信じてほしいと切に願う。
なぜなら、私たちには乗り越えられる問題しかやって来ないのだから。