退屈ほど怖いものはない(1)~ドラマな人生を選ぶワケ~

私たちは、問題を抱えては苦しみますが、心の奥底では人生に飽きてしまうことの方をよっぽど怖れる気持ちがあります。

喧嘩や葛藤が絶えないときは、それでも情熱を感じられますが、葛藤することすら無駄だとあきらめてしまうと生きていることに執着もなく、何もかもが無意味に感じられてきます。そんな心が死んだような状態をデッドゾーンと呼びます。

デッドゾーンを抜けるためには、これまでやってこなかったことをするといいと言います。それは必ずしも生活そのものを大きく変えることではなく、心理的にバンジージャンプをするような、感情のレベルでの自分のタブーを破ることで、停滞していた人生がまた動き出し、もう一度、人生にわくわく、ドキドキするロマンスを持ち込むことができるのです。

今回は4回にわたり、デッドゾーンを抜け出すときの心理状態を解説します。

私たちは、「安心」したいし、平和で穏やかな生活を望んでいるようでいながら、心の奥底では、退屈しきって人生に興味を失ってしまうことを怖れる気持ちがあります。安心したいのに、つい困った問題を抱えてしまうとしたら、退屈が怖いのかもしれません。

人生に問題を作り出さなくても、感情のレベルで、冒険する勇気をもって人と向き合うことができると、とびっきり面白い人生と大切な人との絆の両方が手に入ります。

ものごとがうまく行き始めて、ほっとしたのも束の間、次の「事件」が勃発、穏やかで安定した生活が再び、混乱の渦に、、、。

私たちが好きな、映画やドラマは、こんな風に、主人公が次々と困難に遭遇して、危機一髪で切り抜けては、幸せにたどり着く、という仕立てになっているものです。幸せな家庭に生まれて、なんの苦労もなく、安心、安全な環境の中で、簡単に穏やかで幸せな人生を送る、なんて流行りドラマはあまり聞いたことがありません。

普段、安定した仕事を、平和な職場で淡々とこなし、安心できる家族のいる家に帰る、「幸せ」な人も、「エンターテインメント」と称して、ハラハラ、どきどきするために、映画やドラマ、音楽やスポーツに興じます。

何もわざわざ、怖い想いや、嫌悪感や、憎しみや焦りを感じる必要もないだろうにと思いますが、敢えて醜い心を味わうために芸術にのめりこむこともあります。それほどまでに、私たちは自分たちの心にある感情を感じたいと思っていうようなのです。

「それは、他人様の話として、でしょう?自分の人生は、平和で穏やかで安心が一番に決まっているじゃないですか?」
「好きで、苦労ばかりの人生を選んでいるワケではないわ!」

そんなお叱りの声が飛んできそうですね。
ごもっともです。痛い想いをしたいと意識的に思っているわけではありません。

では、なぜ、結婚して、ラブラブで、子供も生まれて、絵に描いたような「幸せ」を手に入れながら、それを自ら壊すかのように、他所の人の魅力に惹かれて、不倫関係の泥沼に入っていくのでしょうか?

なぜ、大事な試験の前に、薄着でうたた寝をして、風邪を引くような不注意をしてしまうのでしょう?
なぜ、一番好きな人に悪態をついて、あえて嫌われるようなマネをしてしまうのでしょうか。

肝心なところで魔がさすかのように、ヘタを打っては、自分に「簡単で、楽」な成功を手に入れさせないのでしょうか。
もしも、私たちが、「簡単にうまくいく」ことに価値を見ていないとしたら、それはなぜなのでしょう。

私たちが、「安心」と「わくわく、どきどきする」気持ちとの間を振り子のように、行ったり来たりすることを無自覚に選んでいるとしたら、私たちが「生きていて幸せだ」と思うためには、ほっと安心することも、「わくわく、どきどきする」気持ちも、両方がとても大事なのではないでしょうか。

私たちが、「わくわく、どきどきする」ためには、「この先、どうなるかわからない」という未知の要素が必要です。何がどうなるかわからなくて「怖い!」という気持ちと「わくわく、どきどき」は背中合わせです。

ところが、「安心」は、「怖い!」の反対ですから、「わかっている」と思えたときに「安心」しやすい、のです。

もし、あなたがあなたの残りの人生のすべてを知り尽くしていて、どうすれば物事が平穏無事に収まるかわかっていたとして、あとは、その通りに行動に移せばいいだけだとしたら、本当に楽しいでしょうか。

わかりきっている人生は、失敗もないけれど、驚きもなく、退屈極まりないものになりませんか。

ついドラマな人生を選んでしまう人は、案外、「退屈ほど怖いものはない」と思っているのかもしれません。

リアルな生活であまりにドラマを繰り返しすぎて、疲れ切って、あきらめて、退屈のあまり死んだように生きている方もおられます。それでも、時折、悲しみや怒りの方がまだマシと問題を作ってしまうこともあるでしょう。

「わくわく、ドキドキする」ために、必ずしも「問題」を作り出す必要ではありません。

感情的なリスクをとること、特に対人関係において、自分が「わかっている」範囲を超えて、「嫌われてもいい」と覚悟を決めて人と関わってみることをおススメします。

具体的に言えば、自分の優しい気持ち、弱いところ、恥ずかしいと思っているところ、など、人にあまり見せたくないあなたの繊細な気持ちを、大切な人と分かち合う勇気をもつことです。

「謝っても許されないように感じて、ごめんなさいが言えなかった」。
「あなたが来てくれて、本当は嬉しかったのに、恥ずかしくて言えなかった」。
「もう二度と信頼してもらえないと思ったのにチャンスをくれてありがとう。」
「あなたに助けてほしいのです。お願いします。」

私たちは、一番大事な人に、一番大切なことを案外言っていないものです。

相手が拒絶する自由を尊重スルコミュニケーションは、とても勇気がいります。私たちはつい、それよりも、どう話したら、自分の言い分を通せるか、ということばかり考えて、相手に対して優位に立とうとしてしまいます。

でも、あえて自分の弱さやみっともなさを認めてみる、素直な自分の気持ちを伝えてみる、そして相手がNOと言うことも引き受ける勇気をもって人と向き合ってみましょう。

簡単なようで、とても怖いものです。でも、そんな勇気のいるコミュニケーションのくり返しの中で、「絆」が生まれます。そして、この「絆」が人生を「面白く」してくれるし、一人ではないという「安心」もくれるのです。

「絆」を作りたい対人関係の最たるものが、恋愛であり、パートナーシップです。が、これは男女間のパートナーシップに限らず、仕事との関係性、趣味との関係性、人生との関わり方、とすべてに応用できます。

「わくわく、ドキドキ」と「安心」の両方を手にいれることができたとしたら、もう不用なドラマに振り回されなくてもすみますね。

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