正しく怖れる

正しく恐れるということ

怖れは、私たちの心の中でそれに興味を持ったり、注視したりするほど大きくなります。怖れに囚われると、どんどんとその深みに入り込んでしまいます。
昨今の新型コロナウイルス禍などの社会的な危機は、原理原則に従って、それが起こるメカニズムや確率、情報が表している真実の意味を理解し、できる限り客観的に怖れを受け容れることです。

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怖れは、生物として生命を維持するように人間の本能(無意識)から由来するものと、本能的ではない、過去の経験や知識から潜在意識や顕在意識に由来している感情です。

前者は、例えば実験室の中で育てられた、一度も猿を見たことがない猿に蛇の写真を見せると素早く反応するといった実験結果が示すように、予め脳にプログラムされた反応があります。樹上生活を行っている猿が怖れた存在が蛇であり、蛇に対していち早く反応することで生命を守ることができるようになったという説が有力視されています。

後者は、例えば幼少期、家庭内で父が荒れているときに大声で怒鳴り散らしたという経験があれば、飛行機の騒音のような大きな音にも敏感に反応するようになることもあります。

さて、怖れは本能由来のものにせよ、後天的な潜在意識や顕在意識由来のものにせよ、そのきっかけはさておき、私たちの心の中でそれに興味を持ったり、注視したりするほど大きくなります。

怖れに対して興味を持ち、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせている間に様々な思いが浮かんできて、徐々に最悪の状況を想定するようになります。これは、最悪の状況を想定することによって自分を守ろうとする“防衛機制(反応)”が働くからです。

例えば、仕事で大きなミスを犯して初めて出社するときは、その前日や通勤途上で「きっと怒られるに違いない」と思い、やがて「ペナルティーを科されるかもしれない」「同僚たちから冷たい視線を浴びせられるかもしれない」とエスカレートして、「よし、そんなことされたら開き直ってやろう」とか「この前のアイツのミスをばらしてやろう」などとそうなった場合のシミュレーションを行って対策をとろうとすることもあります。

このように、怖れが強くなればなるほど、その事柄に囚われ、どんどんとその深みに入り込んでしまうのです。こうなってしまったら、もう客観的な見方などできず、主観的な自分ワールドに入り込んでしまうのですね。

怖れのもう一つの大きな特徴は、それが起こる前が一番大きくなるということです。

換言すれば、徐々に膨らんできた怖れは時間経過とともにピークに達し、そしてその怖れが除去された状態(現実になるか、無くなるか)で急速に無くなります。

春先に山の中を歩いていて「クマが出るかもしれない」と怖れていたら、山を抜けて人里に出ると怖れは急に萎みますね。また、逆に実際にクマと出会ったら、「クマが出るかもしれない」という怖れは現実になって無くなってしまいます。もっともこの場合は「クマに殺される」というまた別の怖れが出てくることになりますが。

怖れを感じたときに、人が取る基本的な行動は“闘争”と“逃走”です。先のクマと出くわしたたとえの場合、人によってはその辺の棒切れを持って必死にクマと闘う人もいれば、逃げる人もいますね。もっとも、クマだと勝ち目がなくて闘う人は殆どいないかもしれませんが、クマをゴキブリに替えるとスリッパを片手にする勇者も世の中にはたくさんいるかもしれません。

怖れが問題になるのは、自分ワールドに入り込んでしまった時です。特に考える癖がある人はこの傾向にあります。

余談ですが、世の中には考えていいことと、考えない方がいいことがあります。

前者は自身で結論が出せ足り、何かを探求する事柄です。明日着ていく洋服はどれにするか、明日の朝は何を食べようか、明日の夕食は主人の希望のものを作ってあげようなどは、自分で結論が出せる典型です。また、心理学の勉強をして理解のために考えを巡らせたり、新しい発明の為に考えたりすることも構いません。

一方、「あの人は私のことをどう思っているのだろう」という人の気持ちや「明日朝起きられなかったらどうしよう」といった自分で決められないことや、「あの人は今誰と一緒にいるのだろう」などと自分で結論に至らず、その結果どんどん自分ワールドに入り込んでいくものは、考えない方がいい部類に入ります。

 

さて、では昨今の新型コロナウイルス禍や、やがて来るかもしれない大地震、最近は毎年のようにあちこちを襲う水害など、社会的な危機をどのように怖れればいいのでしょうか。

このような危機は原理原則に従って怖れる必要があります。原理原則とは、それが起こるメカニズムや確率、情報が表している真実を理解し、自分ワールドに入り込まずにできる限り客観的に怖れを受け容れることです。

とはいえ、誰しもがウイルス学の専門家でもなければ、気象予報士ではありませんので、それらの情報はその分野の専門家や行政機関が発する情報に頼り、自身の持つスキルを使って取捨選択するしかありません。

様々な情報が飛び交い、どれが正しい情報なのか明確ではない場合も多いですが、その場合には、その現象には必ず存在する原理原則に遡って状況を把握、理解して怖れることです。これが、客観的に怖れを受け容れるということです。

具体的な例を現在直面している新型コロナウイルス禍で考えてみると、原理原則は人から人へ感染するということです。そうであれば、人と接しないことや人が触ったものに触れないということが最大の防御ですね。

一方、社会生活を営む上で、仕事があったり、学校に行かなければならなかったりと人と全く触れ合わないことは難しいのもまた真実です。そうすると、リスクをどれだけ許容するかという考えをする必要があります。これは人によって異なっていて当たり前なのですが、使い捨ての手袋をして買い物をする人もいれば、洋服のアルコール消毒をする人もいます。また、布マスクの人もいれば、サージカルマスクをしている人もいます。不必要な外出を控えている人もいれば、自身でできうる限りの対策を行って旅行に出かける人もいます。

ここで注意が必要なのは、自身の感染リスクと他者に感染させるリスクとはリスクの性質が異なるので、分けて考える必要があるということです。

例えば、スーパーの出入り口に最近は必ずと言っていいほどアルコール等の消毒液が置かれていますが、入店時にアルコール消毒を行うのと出店時にアルコール消毒を行うことは意味が異なるのではないでしょうか。主として、入店時は自分が触ったものを介して他者にウイルスを感染させないため、店を出る時にアルコール消毒を行うのは、感染者が触ったものを介して自分が感染しないための行動です。
これらの行動の意味を分けて考えないことには、リスクの正当な評価はできません。

自分が感染するリスクは、行動をすればするほど大きくはなるのですが、リスクマネジメントの分野では、一般には、その事象が生じる確率(コロナウイルスであれば感染する確率)と影響度(コロナウイルスに感染したときの影響)を積算してリスク値として考えます。

仮に影響度を1と固定すれば(年齢や基礎疾患の有無にもより影響度は実際にことなるのですが)、全く人と触れ合わない(ものにも触らない)場合は感染確率が0なので、積算結果であるリスク値は0になりますが、防御措置をしなければしないほど、アクティブになればなるほど感染リスクは高まり、リスク値は高くなります。

それをどこまで許容するかを考えて、むやみに怖れるのではなく、正しく客観的に怖れることが必要なのです。そして、正しく怖れるのであれば、人によりその行動や手段は様々でいいのではないかと思います。

一方、客観的な怖れを妨げるものとして、最近は報道の中にもよく出てくる“正常性バイアス”という心理学の言葉があります。何の根拠もなく「自分には感染しない」「自分は感染しても問題はない」などと意味のある情報を無視したり、状況を過小評価したり、自分は特別だと思う(思いたい)特性です。

これは、心を平穏に保つための防衛機制の一つですが、逆に考えると、そこまで防衛を強化しないといけないぐらい、心のどこかで怖れているという証でもあります。

さて、「正しく怖れる」ことはなかなか難しいことではありますが、自分ワールドに入らず、あくまでも客観的に事態や状況を判断すること、これが怖れを制することではないかと思います。

(完)

この記事を書いたカウンセラー

About Author

大谷 常緑

恋愛や夫婦間の問題、家族関係、対人関係、自己変革、ビジネスや転職、お金に関する問題などあらゆるジャンルを得意とする。 どんなご相談にも全力投球で臨み、理論的側面と感覚的側面を駆使し、また豊富な社会経験をベースとして分かりやすく優しい語り口で問題解決へと導く。日本心理学会認定心理士。