隣の芝生は常に青いもの~比較の罠と自己承認~

パートナーシップでも仕事でも対人関係でも、あらゆる問題解決に大切な「自己承認(自分を認めてあげること)」。

でも、他の誰かとの比較や競争の罠に引っかかり、なかなか前に進めません。そこで、その常に青く見える芝生を乗り越えて、自分自身を承認するプロセスをご紹介します!

私達は自分を認めようとすると、すぐにネガティブな理由(比較、競争)をもってきて否定しようとしてしまいます。
「私は今日これだけ頑張った!」と思っても、すぐに「でも、私よりもっと頑張ってる人がいるし」とか「どれだけ頑張っても結果が伴わなければだめだ」と非常に厳しく当たったり。
まるで自分を貶めることが趣味のように自分自身を扱っているかのようです。

でも、こういう方の多くは自分に厳しいなんて自覚はほとんどありません。
「当たり前」「普通」と思っていることが多く、カウンセリングで僕が「そういうのってすごく自分に厳しい証拠だと思うのですよね」とお伝えしても、「そんなことありません!」と即答されるくらいです。
(僕も分かってやっているんですけど、どうしても伝えたくなってしまうんです。いつかは気付いて欲しいな、と思うから)

私達は自己嫌悪や劣等感から、自分の悪いところと相手のいいところを比べることをよくやってしまいます。
これを僕は「隣の芝生は“常に”青い」とか「常により青い芝生を探している」と表現しています。

仕事にしても、対人関係にしても、明確な基準のないところで私達はこの比較の罠にはまってしまうようなのです。
身長の大小は数値化できますからはっきり区別できます。
でも、「優しさ」とか「かわいらしさ」とか「男らしさ」とか「頑張った度合い」などというのは、あくまで感覚的なものですから、周りと比べた時点で自分を認めてあげることは難しくなってしまうものです。

逆にそうして自分が勝っていると感じるのは「優越感」です。でも、この優越感、実は劣等感の裏返しなので感情レベルでは同じことが起きているのです。
だから、「自分はいつも強がってしまう」とお感じの方にもお楽しみ頂ける内容かと思います。

●比較の罠にはまる訳

私達は自分の欠点と相手の長所を比べてしまうのですが、それはどうしてなのでしょうか?
様々な理由が考えられるのですが、その一つは思春期の頃の完璧主義な面から来ているといえるようです。
思春期に入ると「個別化」といって人と自分との違いを意識するようになります。
その違いを認識する方法が、自分は周りに比べて「劣っている」あるいは「優れている」という形になるんです。

皆さんもクラスの中のかっこいい男の子やかわいい女の子と自分とを比較して落ち込む事ってありませんでしたか?
背の高さや鼻の形、目から髪質、性格や家柄、友達まで持っているものは全て比較の対象になります。

その頃は自分に不完全さを感じているので、それを補うことで完ぺきなものに憧れ、惹かれます。
だから、中学生くらいではジャニーズ系のかっこいい男の子が一番人気になるんです。

そして、大きくなるにつれてルックスや目に見える持ち物から内面にも興味が移っていくのですが、その比較のパターンは引き継がれていきます。

そうすると中学の頃は垂れ目で癖毛なのが嫌だったんだけど、大人になるにつれて、引っ込み思案で人目を気にする自分が嫌になったりするんです。
もう垂れ目なのは前ほどは気にならなくなっているのに。

でも、そういうパターンを見つめていくと、なぜか、私達は“敢えて”自分のことを承認しないようにしてるみたいに見えてきます。

●どうして認めたくないんだろう?

自分で自分のことを認めてしまうと何か不都合があるんでしょうか?
意識的には「そりゃあ、自己承認ができたらもっと生きるのが楽になるし、人に対してもずっと良く接することができるんじゃないかなあ」などと思います。
でも、一方では「天狗になってしまうんじゃないか?」「一人だけ浮いてしまうんじゃないか?」「嫉妬されるんじゃないか?」「足元を掬われるんじゃないか?」という不安が渦巻いていたりするんです。

だから、自分で自分を認めるときには、非常に厳しい条件を課し、客観的な水準を満たし、100人に聞いて100人が全会一致でOKを出してくれなければダメなような気がしてしまうのです。
(でも実際に100人にOKといわれたら、きっと101人目を探してしまいます)

自己承認がテーマになったとき、「どんな風になったら自分を認めてあげられると思います?」という逆の質問をさせていただくことがありました。
多くの方が「うーん・・・」と考え込まれた挙句、苦笑しながら「難しいですね。そういわれると分かりませんね」と答えられるか、「誰からも認められる仕事をして成功者と言われるようになったら、ですかね」と非常に高いハードルを置かれるようです。

まるで、始めから「僕が自分のことを認めるなんてあり得ないよ」と思っているような感じさえ伝わってくることもあるんです。
それくらい私達は自分のことを嫌悪してしまっているのかもしれません。

それはまるで自分を嫌っていることが義務であるかのように。
そして、自分を嫌い、傷つけること、罰することが何かの償いになっているのでしょうか?
自分にはそんな承認されるほどの資格などないと思い込んでしまっているんでしょうか。

そして、それは何故なのでしょうか?

●自分を認めてくれなかった誰かを許していない。

私達は自己承認ができないとき、比較の罠にはまってしまうとき、潜在的に「自分にはそんな資格がない」と思い込んでいるようなのです。
だから、草の根を分けてでも“自分より青い芝生”を探してきて自分を否定するし、どれくらい素晴らしい功績を挙げても少しも自分を認められないのです。

その原因の一つ目は、まずは私達の多くが誰かから認めてもらえなかったところにありそうです。
ここ日本では小さい頃から誰かに褒められた、承認されてきた、そういう生き方をしてきた方は意外に少ないものです。
特にお父さんからきちんと承認された経験のある方って実はとても少ないのではないでしょうか?

なぜなら、そのお父さんもまたその両親からほとんど認められることなく育てられたからなのです。
無い袖は振れない・・・と言うように、認めてくれないお父さん自身も、また自分の子供をどう認めてあげたらいいのか分からないのかもしれません。
心理学では「あなたが両親から与えてもらえなかったものは、両親もまた与えてもらえなかったもの」という格言があります。

かつての日本は家長制度の元で、厳しくすることが当然のように思われてきました。
それが謙虚さを生む一方で、自分自身や他人に非常に厳しい文化が作られてしまったのかもしれません。
特に男の子は「男子たるもの・・・」という厳然とした規律のようなもので、感情を出すことなく、また、自分を厳しく律することが美徳とされたんですね。

だから、私達の両親で、親からきちんと承認されたことのある人なんて本当に少ないのです。
子育てにおいて「褒めて育てよう!」ということが言われ始めたのはほんの最近なんだそうです。
それくらい私達は褒めることが苦手なのです。
(因みにあなたは普段どれくらい人を褒めてますか?自己承認が苦手な人ほど意外に少ないのかもしれません)

時代は変わって褒めよう!認めよう!と風潮に変わってきているからこそ、不器用な人ほど、変化がしにくいのかもしれません。

●許しのプロセス

もし、あなたが成長したい、自己承認をしたい、またはその必要を感じているのならば、ぜひ、チャレンジして頂きたいプロセスがあります。

それは「許す」ということ。

あなたを承認してくれなかった誰かを許し、あなたの方からその人を承認してあげるということ。
その人の生きた時代背景、生い立ちに思いを馳せてみましょう。
その人の心のうちの痛みを理解しようと思ってください。
理解してもらおうと要求するのではなく、自分から理解してみようと勇気を出してください。
それは本当に偉大なチャレンジです。

すぐに、完ぺきにやろうと思わないことが大切。
比較の罠はすぐにここで自分を貶めるネタを持ってきます。
「そんなことして何の意味があるの?」
「あいつが私にした仕打ちを忘れたの?」
「私ばかりがいつもしんどいことしなきゃいけないの?」

そう、だから、そのためにやるんです。
その苦しみから解かれるために。
この許しのプロセスはお父さんだけではなく、あなた自身でもあります。

自分を酷く扱った自分自身を許すこと。
その時、比較の悪循環から抜け出して、自分自身の庭の輝きを感じられるのです。

この記事を書いたカウンセラー

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