仕事が怖い

「怖くて電話が取れません」

以前働いていた職場の後輩から、こんな相談を受けたことがあります。

入社一年目の彼女は営業サポートを担当していたのですが、少し前に商品の取り扱い方を間違って伝えてしまい、お客様にキツく叱られて以来、また失敗したらどうしよう、叱られたらどうしよう、と心配する余り電話を取ることができないくらい、心が折れかけてしまっていたのでした。

また、ある営業マンからは、断られるのが怖くて顧客訪問が出来ない、という相談を受けたこともありました。

私たちには時として、他人から見れば「何で?」と思うようなことが怖くなったり、心配でならないということがあります。

内勤業務なのに怖くて電話が取れない、営業なのに顧客訪問ができない。基本となる業務に関して支障が出てくると、周りの同僚からはただサボってるだけなんじゃないの?!と批判や注意の対象になってしまうこともまりますし、その事で余計にプレッシャーを感じて事態は益々悪いほうに向っていきます。

「仕事に失敗は付き物、心配しないでまずはやってみれば?」と先輩にアドバイスされても不安は消えないし、怖さも無くならない。頭では分かっていても心がついて来ない時というのが私たちにはあります。そんな時、どうやって自分の中のネガティブな感情と向き合い、取り扱っていけば良いのでしょう。

◆怖れは心のアラート
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまづくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
(『絶望名人 カフカの人生論』編訳・頭木弘樹 より)

これは、ある朝目覚めたら突然巨大な虫になっていた男と家族の顛末を描いた「変身」の作者フランツ・カフカが恋人に宛てた手紙の一文です。普通、恋人に送る手紙にこんなネガティブな事は書かないものだと思うのですが、極度な心配性で失敗を怖れてばかりいたカフカにとっては、たとえそれが倒れたままでいることであったとしても、「うまく自分ができること」を恋人に伝える精一杯のラブレターだったのかもしれません。

カフカはこんな手紙も残しています。

ミルクのコップを口のところに持ちあげるのさえ怖くなります。
そのコップが、目の前で砕け散り、破片が顔に飛んでくることも、
起きないとは限らないからです。
(同・前出)

私たちは本能的に失敗を恐れるようにできています。それは、獣を追いかけた狩猟時代や、身の安全が現代ほど確立していなかった時代、失敗がダイレクトに自分や仲間に生命の危機をもたらすことになった時代の記憶が脈々とDNAに受け継がれているからなのかもしれません。

そう考えると、恐れというのは、私たちの感情に組み込まれたアラート機能のようなもので、無茶をして危ない目にあったり、無警戒に危険を冒したりしないように私たちに歯止めを掛けてくれる大切な役割を担っています。

けれどカフカのように、「ミルクのコップを持ちあげるのさえ怖くなる」そんな状態になってしまうと、心配が心配を呼び、何をするにも自信が持てなくなってしまいます。

他人から見ると些細なことや、取るに足らないことでも、心のアラートは本人仕様。当の本人にとっては一大事です。

コップが目の前で砕け散る可能性なんて殆ど私たちは心配したりしません。けれど、一旦鳴りはじめた心のアラートは容易には止まらないから厄介なのです。

カフカの例は極端に過ぎるかもしれませんが、電話が取れない、顧客訪問できないというのもまた、失敗したらどうしよう、怒られたらどうしよう、という「怖れのアラート」が反応している状態なのかもしれません。

◆心のアラートを緩める
怖れという心のアラートが鳴った時、私たちの反応は、それを無視して行動するか、アラートに注意を払って立ち止まるかに分かれます。

アラートなんて気にしないという人は勇気と行動力があり、少しばかりの苦難は難なく乗り越えて行く強さを持っています。仕事でも成果を上げてリーダーシップをとっていくのも上手いのですが、時に勢いに任せて大きな失敗をすることもあるので注意が必要です。

もっとも本人は、そんな失敗さえ糧として行くタイプなので問題ないかもしれませんが、一緒に仕事をする同僚や部下が大変な思いをしているのかもしれません。

いっぽう、アラートに注意を払って立ち止まるタイプの人は用心深く着実に仕事を仕上げていくのが得意。コツコツと信頼を勝ち得ていくのですが、やや消極的に映りやすく評価の面で損をし易い場合があります。

電話ができない、顧客訪問ができない。時に、実務にまで支障が出てしまう心のアラーム。あまりに頻発に、また強く反応してしまうようになったなら、時にはアラート感度を少し緩めてあげる必要があるかもしれません。

では、目には見えない心のアラート感度、どうすれば緩められるのでしょう?

もっとも早い方法が、完璧主義を見直すことです。

私たちの心に響くアラートは、「失敗してはいけない」「うまくやらなければいけない」と完璧な成果を目指す程に強く敏感になっていきます。「コップが割れたらどうしよう」と、ほとんど起こりそうにもないことまで心配する時、カフカがどれほど「上手に失敗することなく、完璧に」ミルクを飲まなければならないと考えていたかが伺えます。

同じく、「電話が取れない」という時あなたは、上手で完璧な対応でなければ叱られる。と考えてはいないでしょうか?顧客を訪問できないという時には、完璧な成果を上げなければ認められないと思ってはいないでしょうか?

完璧を目指すことは時に、私たちの心を「失敗を許さない」状態にロックします。ほんの少しの失敗も許されないとしたなら、どんなに用心深く、慎重に、細心の注意を払わなければならないでしょう。

失敗を怖れる心は、私たちのDNAに組み込まれた本能的なプログラムですが、今私たちが直面する業務の殆んどは、私たちや私たちの仲間、周囲の人たちを生命の危機に陥れるほどのものではないのではないでしょうか?

「失敗したっていいじゃないか」とは、中々考えられないかもしれませんが、漠然とした失敗への怖れは、過去に経験した失敗をこれから起こる未来に映し出して感じている恐れ。今目の前で起こっている出来事だけに意識を向け、もしも失敗したならば「リカバリーすればいいじゃないか(してもらえばいいじゃないか)」と考えてみましょう。

心のアラートに立ち止まっていた問題も、アラートを緩めてみたら案外クリアできる問題なのかもしれません。

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