ドラマ「泣くな、はらちゃん」に思う、私達の「純粋無垢」

すでに終了してしまったのですが、「泣くな、はらちゃん」というドラマが好きでした。
いろいろなことを感じたドラマだったのですが、その中の印象的なお話のひとつがあります。
このドラマの主人公である「はらちゃん」は、ヒロインが描いた漫画の世界から、この世界に飛び込んできたという設定になっています。
狭い漫画の世界しかしらない主人公は、この世界のあらゆるものが珍しく、楽しく、美しいと感じる、まっさらな純粋な心の持ち主。
ある時、「サッカー」という遊びを近所の子ども達から教えてもらった「はらちゃん」とその漫画の世界の仲間達は、子どものように遊んでいますが、そのボールが街の不良達に当たってしまいます。
素直に謝る、はらちゃん。
不良達は、当然のことのように因縁をつけようとします。
ところが、はらちゃんには、「因縁をつける」という発想自体がありません。
なので、一緒にサッカーをしませんか?と笑顔で誘います。
その誘いに対して、不良達の反応は「馬鹿にしてるのか?」という態度でした。
はらちゃんには、その反応がわかりません。
なぜなら、純粋に、サッカーに誘っていたからです。
楽しいことをしようという誘いには、笑顔で応える。
その発想しかないからです。
不良達は、これも当然のように、はらちゃんたちに因縁をつけ、結局、彼らは殴られてしまいます。
この出来事に、はらちゃん達、漫画の世界からやってきた純粋な仲間達は深く傷つきます。
そして、それに遭遇した、この世界のヒロイン達も、この事実に深く傷つきます。
このお話は、ドラマというフィクションではありますが、私達がこの世界で、いかに「疑い」という心を持つようになっていったかを現している話だと思いました。
私達は、生まれたばかりの時、誰もが純粋無垢です。
ところが、「しつけ」だったり、「社会のルール」だったり、を学んでいく上で。
また、「自分の身を守る術」を学んでいく上で
純粋無垢であることに制限をかけていきます。
例えば、幼い頃、必ず言われる注意事項は「知らない人についていかないこと」です。
残念なことに、このことを守らないと自分に危険が及ぶ可能性があるという事実があります。
人の心というものは、純粋無垢ではないこと。
だから、人の心を「疑う」必要があること。
私達は幼い頃から大人に成長していく上で、このことを習得していきます。
その積み重ねによって、私達は、「疑う」心を持ってしまいます。
純粋無垢では、だまされる。
素直すぎては、生きていけない。
もしかしたら、もっと上手に、もっといい方法で教えてもらえたらよかったのかもしれません。
でも、元々は、「社会のルール」を守れる人になるために。
そして、「自分の身」を守るために。
教えてもらったことなのです。
「疑う」心というのは、一見すると、他人を疑う心、に思われます。
確かに、きっかけというのは、先に書かせていただいたように、他人を疑うことです。
ところが、誰の心も疑わなければならない、という教えは、
自分の心も疑わなければならない、という心を生みます。
なぜなら、他人の心も、私の心も、同じ人の心。
人間不信である、ということは、自らも同じ人間であり、だからこそ、自分の心もいつ人を裏切るかわからないという思いを持ってしまうようなのですね。
私達は、表面的には他人に感じることを
実は、他人の気持ちとは関係なく、自分の気持ちを映し出しているだけであることがあります。
怒っている時には、誰かのことを怒っているのではないかと感じ
辛い時には、世の中のすべてが辛いことだらけだと感じる
先のドラマの話。
はらちゃんは、自分の心も疑っていません。
純粋無垢だから。
でも、この世界は純粋無垢では通用しないことを知ってしまった。
そうなってしまった、彼のこのお話は救いのない話なのでしょうか。
純粋無垢ではいられない私達は、もう、純粋無垢な世界を作れないのでしょうか。
カウンセリングに出会う前の私は、ずっとそのことを悩んでいました。
けれど、カウンセリングに出会い、何千という方とお話をしてきて、確信してきたことがあります。
それは、私達の心の本質は、純粋無垢で、愛でできているようだ、ということです。
純粋無垢ではいられない社会。
でも、それを認識した上で、自分のこころが純粋無垢で愛であることを知る。
そうすることで、ようやく、この社会で、純粋無垢でいられるのだと思うようになったのです。
この社会は、残念なことに、単に純粋無垢ではいられません。
世界のどこかで戦争が起こっていて、毎日どこかで事件があり、疑惑があり、衝突があります。
そんなに大きな話ではなくとも、恋愛や結婚といった中での、失恋や裏切りや不条理さがあります。
単純に、人の心は純粋無垢で愛だ、なんて言えるはずがありません。
でも、一方で、私達は、自分たちの純粋無垢で愛の心を持っていることも、よく知っているのです。
東北の震災で、見ず知らずの人たちの悲しみに共感し、応援する気持ち
世界のどこかで争いが起こっている時に感じる悲しみ
その出来事から、自分の周りの家族や友人達との絆を感じる心を持っています。
偽善者だから、ではありません。
私達の心が、元々、純粋無垢で愛でできているから、「偽善者だ」と葛藤し、苦しむのです。
本当に冷たい心しかもっていなければ、そもそも、葛藤や苦しみが生まれるはずがないのです。
だから、私は思います。
誰かを疑ってもいいじゃないか。自分を信じられなくてもいいじゃないか。
偽善者だと思っても良いじゃないか。他人を、自分を。
だって、人間なんだから。
だけど、それを認めた上で、「人の心は純粋無垢で、愛でできている」と思うことができたら。
この視点で人や物事を見るようになった時に、
「やり方は間違っているけれど、そうしてしまう何か理由が、思いがあるのかもしれない」
という視点が生まれるのではないかと思います。
そして、この視点が、人や物事を動かす突破口になり得るのではないかと思うのです。
私達は、表面的には他人に感じることを
実は、他人の気持ちとは関係なく、自分の気持ちを映し出しているだけであることがあります。
誰かを優しいと感じる時。あなたの心が優しさを持っていなければ、それを感じることはできません。
誰かに愛を感じる時。あなたの心が愛を感じなければ、それを感じることはできません。
私達は、自分が感じられるものでしか、誰かの気持ちを理解することが出来ないのです。
誰かのことを、「何か理由があるかもしれない」と思える時。
私達は、その相手の心を信じています。
相手の心の中に、愛を感じようとしています。
そうすることができて、初めて、私が私の心を信じ、私の心を愛だと感じられるのです。
先のドラマの中で、純粋無垢であるがゆえに、はらちゃんは傷つくわけですが
それでも、彼は絶望しませんでした。
この世界には暴力や疑いがある。
けれど、優しさや美しさがある。
だから、この世界が好きです、みなさんが好きです、と語ります。
単に純粋無垢であった時の彼と、世界の現状を知った後にも、この言葉を語れる彼。
そこには、大きな違いがあると私は思います。
だって人間だもの。
できないことも、失敗もある。
疑って当たり前なんです。
でも、それを理解した上で、でも、人の心は純粋無垢で、愛でできているのかもしれない。
そうした視点で見ていくことで、人間関係が変化していくかもしれない。
それを、あきらめないで続けていくこと。
そのやり方なら、少しずつでも、この社会を幸せに歩いていける。
カウンセリングの中で、たくさんの方の純粋で愛にあふれた心に触れる度に、私はそう思うようになっていったのでした。
今では確信と言えるほどになったのは、そうした皆さんのおかげだと感謝しています。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

名古屋を軸に東京・大阪・福岡でカウンセリング・講座講師を担当。男女関係の修復を中心に、仕事、自己価値UP等幅広いジャンルを扱う。 「親しみやすさ・安心感」と「心理分析の鋭さ・問題解決の提案力」を兼ね備えると評され、年間300件以上、10年以上で5千件超のカウンセリング実績持つ実践派。