「愛」を見つける年にする ~「お正月」のほろ苦い思い出の向こうにあったのは・・~

新しい年が始まりましたね。
大晦日と元旦。いつもと同じように日が沈み、やがて夜が明けるだけなのに、1年が終わり、新しい1年が始まる。年が改まると、なんだか気持ちも改まる気がします。
どこか改まった気持ちが生まれるこの時期は、今年はどんな年にしよう?と目標やヴィジョンを考えるのにぴったりな時期とも言えますね。みなさんは、どんな目標を考えられるのでしょうか?
ところで、みなさんは新年をどんな風に過ごしていらっしゃいますか?
旅行?田舎に帰省?家族団らん?一人でのんびり?久しぶりに親戚と『顔あわせ』という方もいらっしゃるかもしれませんね・
田舎育ちのわたしにとって、子どもの頃のお正月はうれしくもあり、うれしくもなし・・という行事でした。
なぜかというと・・・
まずは、年末の忙しさ。
12月の半ばに始まる「大掃除」。年末の数日は、おせち料理を作ったり、お餅をついたり、注連飾りを編んだり(自分の家にあるわらで編んでたんですよね)・・・。家族総出で一日中休む間もなく働いていました。
年が明けたら、家族そろって新年の挨拶。お雑煮を食べて、お年玉をもらって・・。初もうでに出かけて・・・。家族団らんの一日。
二日になると、農家の「本家」の我が家には、お嫁に行ったり、養子に出たりしている「おじいちゃんの姉・妹・弟とその家族」、「父の弟、妹とその家族」がお年始の挨拶に訪れました。
二十名を超える大宴会の始まりです。
昼過ぎから始まった宴会がお開きになるのは、夜も更けてからのこと・・
大人が大勢集まるので、とても賑やかだし、お年玉はたくさんいただけるのですが・・・、わたしはこの宴会が苦手だったんです。
普段会わない親戚のおじさんおばさんたちにかわいがってもらってはいたのですが、すごく気を遣ったんですよね。「跡取り娘」だったから・・。
田舎の風習かもしれませんが、長男や跡取りは「別格」扱いされていました。
大人と子どもたちは別々の部屋で過ごすのですが、「跡取り」だけは「大人」の席に着きます。
これがうちの「跡取り」だ、というように、祖父・父の隣に「わたし」が座って、ご挨拶するんです。
幼稚園くらいまでは、ただ楽しいだけだったのですが、小学生になった頃からは、こういう扱いがなんだか恥ずかしく感じられたり、窮屈に感じるようになっていきました。
女のわたしが、祖父や父の隣にいることに違和感を感じ、「女だからこそ、しっかりしなくっちゃ!!」と思ったりするようにもなりました。
ちゃんとしないといけない。家族の恥になるようなことをしちゃいけない。「跡取り」らしく、「できる子」でいなくちゃいけない。親戚のおじさんたちに認められるような「いい子」でいなくっちゃ!!そんなことを考えていたからです。
早くここから解放されて、子ども達ばかりの部屋に行きたい!!と、いつも思っていました。
ところが、やっとお客さま達から解放されて、子ども達の部屋に行く途中、いつも目にするのは、祖母と母が忙しく料理やお酒の準備をしている姿でした。
どこの家でもそうだったのだと思いますが、「嫁」は裏方で、表の楽しい「宴会」には加われなかったのです。
その姿を見る度、なんだか自分が裏切り者のような気持ちになっていたことを今でも思い出します。
同じ「女」なのに、「家族」なのに・・わたしだけが「楽しくて明るい場所にいる」そのことがとても悪いことのように感じていたんですね。
そんな気分を感じているので、子ども達の部屋に戻っても、小さい子のお世話をする役を買って出て、祖母や母に「わたしも働いているよ」とアピールしたり、祖母や母の代わりに料理やお酒を運ぶお手伝いをして、「わたしも、お母さんたちの仲間よ」とアピールしたりしていました。
子どもらしく、おじさんやおばさんにかわいがってもらうということよりも、「跡取り」としての責任や長女としての裏方の仕事ばかりに目がいってたんですね。
子ども時代のわたしにとって、お正月は、役割と犠牲の象徴のような行事だったのかもしれません。
役割や犠牲にはまってしまうと、「愛」や「感謝」を受けとれなくなります。
「ありがとう」と言われても「仕事ですから」とスルーしてしまうように・・・
「お正月」の出来事に象徴されるように、わたしの人生の前半は「しっかりしなきゃ!!」と「わたしだけ恵まれてごめんなさい」という気持ちで占められていたなぁ・・と振り返ってみて思います。
「お正月」になると思い出す、この「思い出」。
「これがクライアントさんからのお話だったとしたら、わたし、どんなことを伝えてあげるかなぁ?」そう思いました。
そうしたら、わたし、きっとこんなことを尋ねるだろうなって・・・
『なんで、しっかりしなきゃって思ったの?』
「なんで、恵まれてごめんなさいって感じたの?」
そして、こんなことを伝えるだろうと思ったのです
「お父さんやおじいちゃん、あなたの大切なひとに恥をかかせたくなかったから
 しっかりしようと思ったんじゃないですか?」
「おばあちゃんやおかあさんにも、楽しくて明るい場所にして欲しいとおもったからこそ、ごめんなさいって感じたんじゃないですか?」
「だとしたら、それはあなたの優しさだし、あなたの愛ではないのですか?あなたがそう思えないとしても、わたしには、そんなふうに見えますよ」って
わたしたちが がんばるとき
わたしたちが「ごめんなさい」を感じるとき
それはきっと誰かの役に立ちたかったり、誰かに優しくしたかったり、誰かを幸せにしたかったりしているのだと、わたしは思います。
「お正月の思い出」を思い出しながら、わたし自身、今年一年大切にしたいなと思えることが一つ浮かんできました。
それは、「愛」を見つけるということ
自分の中にある、否定し続けてきた「誰かへの愛」を見つけること
そして・・・
「あなたのなかにある、あなたの気がついていない「たくさんの愛」」を見つけて、お伝えするということです。
みなさまも、ご自身の中にある「誰かへの愛」に気づき受け取ってみることにチャレンジされてみられてはどうでしょうか?
新しい年が、みなさまにとって、たくさんの幸せに彩られる年になりますように・・・
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この記事を書いたカウンセラー

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夫婦関係や子育て、対人関係、仕事、障害児の家族の問題など幅広いジャンルを扱う。特に「ずっと一人で頑張ってきた人が『より楽によりよい人生を選択できるようになるサポート』が好評である。 お客様から「無理のない提案で確実に変化できた」「会うと元気になる」等の感想が多く寄せられている。2024/1/1より休会中