大正女の心意気~卒寿の祝いに思う~

先日、祖母の卒寿(90歳)のお祝いの会をしました。
久しぶりに実家に戻り、親戚と過ごす時間。
「最近、どう?」
「元気?」
何気ない会話。そして「あのときは・・・・だったねぇ」といろいろな思い出話が始まります。
そんな、思い出話を聞きながら、ふと、大正生まれの祖母の人生に思いを馳せました。
祖母は大正生まれ。
兄弟が多く、姉・兄・弟・妹に囲まれ、幼いときから子守りをしていたそうです。
祖母は背が低いのですが、いまだに「わたしが背が低いのは、小さい頃から、弟や妹をおんぶしたり、(祖母の)おばあちゃんの杖代わりに肩を貸していたから・・」とケラケラ笑いながら話します。
当時は当たり前のことだったのかもしれませんが、小学校を出たら、働き手の一人。下の兄弟の世話やおじいちゃん、おばあちゃんの用事、家の仕事の手伝い・・そんなふうに年を重ね、16才で、わたしの実家に嫁いできたのだそうです。
戦争の時代、戦後の復興の時代、高度経済成長・・・近代の歴史そのものの時代を生きぬいてきた祖母にとって、インターネットや携帯電話があふれる今の時代は、全く考えもつかなかったような時代なのかもしれません。
それまでの常識が「常識」として通じなくなる・・そんな経験をいったいどのくらい重ねてきたんでしょう?そう思うと、それだけでも、おばあちゃんってすごいなぁ・・そんな気がしました。
わたしは、祖母の泣き顔も、怒った顔も見たことがありません。にこにこと笑っている、けらけらと笑っている、そんな顔ばかり見てきたような気がします。
明るくて元気なおばあちゃん、そんな印象が強いのです。
そんな祖母が一度だけ、涙をこらえながら、絞り出すような声で「わたしは悪いことは何もしてない!怒らなきゃいけないほど、悪いことなんて何もしていない」そんなふうに、自分に言い聞かせているのをみたことがあります。
高校生の頃でした。
「怒られなきゃいけないほど悪いことをしていない!!」ではなく、「怒らなきゃいけないほど悪いことをしていない!!」その言葉を不思議に思ったわたしは、思わず祖母に声をかけました。
「おじいちゃんに怒られたん?」って・・・
すると、祖母は笑顔でこう言うのです。
「おじいちゃんはいつでも怒っとるよ。」
祖父は、酔っ払うと祖母のことを怒鳴ったり、時には手を出すこともあるような人でした。
確かに「いつでも怒っていた人」です。
だから、わたしは、おばあちゃんがおじいちゃんに、ひどいことを言われたんだ!って思ったのです。
祖母はわたしの方をみて、普段は見せない真剣な表情でわたしにこう言いました。
「怒られたんじゃなくてな、怒りたくなったんよ。でも、誰かに怒ったり、恨んだりするのは苦しいやろ。そんな苦しい思いをせなあかんほど、おばあちゃんは悪いことはしてない、自分が悪いことしてないのに、苦しまないとあかん、なんておかしいやろ。だから、がまんできないくらい怒りたくなったら、わたしは悪くないって思い出すんよ」と。
高校生だったわたしには、祖母の言っていることの意味がわかりませんでした。
そんなにがまんしないで、おばあちゃんも怒ればいいのに・・そんなふうにも思ったような気もします。
今になって思うのです。
これが祖母の心意気、祖母の誇りなのだ・・と
怒りたくて怒る人はいません。
いっぱい傷ついたり、自分ではどうしようもないくらい追い詰められたり、そんな出来事が起こるからこそ、私たちは「怒って」しまうのです。
祖母は
 自分が誰かに傷つけられなければいけないほど、わたしは悪いことはしていない
 自分が誰かに追い詰められなければならないほど、わたしは悪いことはしていない
そう言いたかったのです。
わたしは精一杯がんばっている、わたしは悪いことはしていない。
そんなわたしを怒らせようとしたって、わたしは、怒ってなんかあげない。
わたしは悪くないのだから、傷つく必要はないんだ。
いつも笑顔でご機嫌に過ごすこと。
その生き方を選ぶこと。
それは、学びたくても学べず、働き方を選ぶことも、自分で結婚相手を選ぶことできなかった「大正生まれの女」の「自分の運命」に対するささやかな抵抗だったのかもしれません。
なんで、こんなひどいことを言われなければならないんだろう。
なんで、こんなめにあわなければいけないんだろう。
そんな理不尽なことがなかったわけではないのです。
むしろ、そんな理不尽なことばかりだったのかもしまれせん。
その一つ一つにいちいち怒っていたら身がもたないくらいだったのでしょう。
腹の立つことがあるたび、
理不尽な思いをするたび、
「わたしは悪いことはしていない」
そう自分に言い聞かせて、体中を駆け巡るような怒りの感情を、押さえつけるのではなく、受け流して、気持ちを切り替えて「笑って」生きてきた祖母・・・
そんな祖母の笑顔は、「なにがあっても大丈夫」と語りかけてくれているようにも感じます。
その笑顔をもっともっと見続けていたいから・・・
「長生きしてね」
孫であるわたしの
大好きなおばあちゃんへのお願いなのです。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

夫婦関係や子育て、対人関係、仕事、障害児の家族の問題など幅広いジャンルを扱う。特に「ずっと一人で頑張ってきた人が『より楽によりよい人生を選択できるようになるサポート』が好評である。 お客様から「無理のない提案で確実に変化できた」「会うと元気になる」等の感想が多く寄せられている。2024/1/1より休会中

2件のコメント

  1. 「本当の優しさ」に付いての記事、読みました。
    僕自身、心理カウンセラーでも無ければ何でも無いです。
    下手すると自分さえ良ければそれでも良い様な立場ですらあります。
    その位無責任で、自分勝手で、我侭な立ち位置にいると思っています。
    そんな僕が、何かの気紛れだったのか「本当の優しさ」について
    少し考える余地を持つ事が出来ました。
    自分の思っている優しさの認識の甘さにホトホト嫌になりました。
    最終的にその人の為にならないのであれば、それは
    優しさじゃなくて、僕自身の自己満足に過ぎないんですよね。
    しかし、本当の優しさは、もしかしたら優しさで無い様な気がして……。
    どうか僕の気持ちを誰かに分かって欲しいのですが
    敢えて人の為にならない事をする事による
    人道、人情の無さと言うのもある気がするのです。
    敢えて優しく声を掛けない他所の親達を見ていると
    いつもそう思うんです。
    何で「大丈夫なの?心配しているよ」って言えないんだと。
    心の底から出た言葉なら相手に通じるのでは無いのですか。
    悪い所をハッキリ指摘出来なくて戸惑い悩むのも
    本当の優しさなのではないかと思わずにはいられません。
    障がい者の施設の職員を良くスーパーで見掛けますが
    何の含みも無く、つまらなそうにタバコをふかしては
    素面で障がい者の人達に友達の様に接しています。
    もし、どうしても真実の優しさの定義が欲しいのであれば
    それは「何の歪みも無く普通に接するだけ」って事で
    良いのでしょうか。

  2. コメントありがとうございます
    「優しさ」の定義・・・難しいですよね
    敢えて厳しい立場に立つことで示す「優しさ」もあれば、寄り添い、労る「優しさ」もありますし、
    そっとしておく、見てみない振りをする、そんな「優しさ」もありますよね
    人の思いの数だけ「優しさ」を示す方法はあるのかもしれません
    時には、結果として「相手のためにならなかった」・・・・・
    そんなこともあると思います
    けれど、誰かのことを思ってあげる、気にかけてあげる、それって「優しい」からじゃないかって思うんですよね
    「本当の優しさ」ってなんだろう?
    そんな疑問を持たれた、ということ・・・
    そこには「もっと優しくありたい」「もっと優しさにあふれた世界であって欲しい」
    そんな思いがいっぱいつまっているように感じました
    「優しさ」の形は十人十色
    いろいろな形の「優しさ」を見つける目を持たれているのですね
    お返事を書きながら、なんだか、わたしも「優しい」気持ちになりました
    ありがとうございました