めがねのこと

「3歳でめがねをかけるのかあ…」
ため息をつきながら、幼い息子の手をひいて眼科指定の眼鏡店に向かったあの日は、かれこれ4年前のことです。
息子は生まれつき片目の視力の発達が悪くて、眼鏡治療をすることになったのです。
その時私の頭にあったのは、「めがねをかけるとメガネザルとか呼ばれてからかわれるだろうなあ」という思いでした。
そうでなくても小柄できゃしゃな我が子。イジメのきっかけにもなりかねないのでは、と、心配でいっぱいでした。
実際、近所の悪ガキども…もとい、男の子たちには、いろいろ言われました。
メガネザルはもちろん、のび太、とか、おいメガネ、とか…。
でも眼鏡治療のかいあって、息子の視力は無事に発達してきました。
最初は我が子がめがねをかけることに抵抗があった私ですが、めがねのおかげで学びんだこともあったし、いろいろ面白い体験もしたなあと思っています。
息子がいまかけているめがねはすでに3個目なのですが、1個目と2個目は「めがねが目立たないように」という思いで選んだ地味なものでした。
そもそも子どもの治療用めがねはデザインも少ないし、地味なものが多いのですが、その中でも特に地味なものを選びました。
茶色がかった透明フレームのものでした。
でも3個目のめがねを作る頃には、「かっこいいめがねにしてあげよう」と思うようになっていて、比較的目立つ感じの、緑と青の中間色のようなミントブルーのフレームにしました。
これがすごくよくて、男の子の服の色によく合うんです。
緑、青、黄、白、黒、どんな色の服を着ても、めがねの色とコーディネイトしたようなちょっとおしゃれな雰囲気になるんですね。
そして3個目のめがねを使い始めるのと同時に、めがねのことでからかわれることはぐっと少なくなりました。
これは心理学の法則にもあてはまっているんですよね。何事も、よくないものだと感じて隠そうとすると、逆に注目を浴びて、結果怖れていたような嫌な反応を周りの人がする。でも、「ほら見て!」というぐらい堂々とした気持ちになると、そのことで嫌な思いをすることは少なくなるし、たとえ嫌なことを言われたとしてもひどく傷つくことはなくなる、という法則です。
言い換えると、例えば自分自身が自分のめがねに対して、「めがねなんてかっこ悪いものだ」という扱いをしていたら、周りの人にも同じように扱われる、という法則ですね。自信がない状態とも言えるでしょう。
でも、自分が自分のめがねに対して「かっこいいめがねだ」という扱いをしたら、周りの人も同じように扱ってくれるし、自信がある状態なので、けなす人がいてもあまり気になることもない、ということですね。
本当に、ミントブルーのめがねにしてから、めがねのことで何かよその子どもに言われても、私は全然気にならなくなりました。
「このすばらしいセンスがまだまだわからないんだな~」というぐらいの感じです。
といっても、当の息子がどう感じているかは、はっきりとはわかりません。今でもめがねのことで嫌な思いをすることは、たま~にあるようで、「オレめがね嫌やわ」と言うこともあります。
夏はめがねをかけているだけでも暑いでしょうし、鼻のつけねにはめがねの重みがかかって、いつも赤くなっています。
気持ち的にも、物理的にも、うっとうしい面はあると思います。
それでもめがねは大切にしているし、自分にとって必要なものなんだということはよくわかっているようです。
子供なりにいろいろなことを感じて、自分の中で折り合いをつけていっているのでしょう。それはそれでいい経験だな、と思います。
他にもいろいろありました。
1個目のめがねは、子どもが公園で遊んでいる時に、他の子どもとおでこをこっつんこした拍子に、真ん中でぱっきり二つに折れてしまいました。
痛いのとめがねがこわれたのがショックで泣きじゃくる息子、4万円もするめがねを買い替えねばならないことをとっさに考えて、ボー然とする私。あの冬の夕方の光景は忘れられません。でも決して嫌な思い出ではないのです。
どちらかというと「クスッ」となる思い出で、よくできたコメディ・タッチの映画の一場面のように心に焼き付いています。
その後作った2つ目のめがねは、ある日ちょっとはずして公園のベンチに置いたのが紛失し、1か月後ベンチ脇の砂場から出てきました。
多分よそのガキんちょ…もとい、よその子が、「ちょっと困らせてやろう」ぐらいのイタズラ心で砂に埋めたのだろうと思います。
まさか4万円もするめがねだとは思ってもみなかったんでしょうね…。
ちょっと腹は立ちましたが、その頃、もっとかっこいいめがねにしてあげたいな、でも高価なものをこわれてもないのに買い替えるのもなあ、と思っていた頃だったので、これも流れかな~、まあいいか~、と思ったのでした。
その後3つ目のミントブルーの枠のめがねにして、今もかけているのですが、使い終わった2つのめがねは、箱に入れて大切にしまってあります。
たまに取り出して見てみると、顔につけていたものだけに、数年前の子どもの表情が昨日のことのようによみがえってきて、何ともいとおしい気分になります。
そうそう、このコラムを書くのに、めがねのことをあれこれ考えていて、そばにいた息子にふと、「前に使ってた2つのめがねはちゃんととってあるよ、お母さんの宝物やわ」と言いました。
すると翌日、よその人に、「お母さんはオレの古いめがねが宝物なんやって」と嬉しそうにおしゃべりしていました。
その姿を見て、私もほのぼのとしました。
めがねを通して起こったいろいろなことが、親子の絆を深めてくれたようなところもあるのだと思います。
めがねって、かけないですむならそれにこしたことはないと思います。
でも、めがねが私たち親子に与えてくれたギフトはとても大きいと思います。
こういうことって、他のことでもありますよね。出来事そのものは望ましいとは言い難い、でもそのことで案外、結果的にはいいことも起こっている…。人生はそんなことがけっこうあるかも知れません。
そうはいっても、心に余裕がなかったら、そんなふうにはなかなか思えないですよね。自分ばかりが不運なように感じて、イライラしたり、悲しくなったり…。私もかつてはそんな状態でした。
「ちょっとやだな~」と思うことでも、「このことにギフトがあるとしたら何だろう?」そんな視点を持つことで、気が付いていなかった「ステキなこと」を見つけることができるかもしれません。そういう「かくれたギフト」に気付くことができるようになった時、人生はぐっと豊かなものになるんだなとこの頃思います。
息子が中学生ぐらいになったら、めがねを2~3個作ってあげて、服とめがねのコーディネイトなんかもさせてあげたいな~、なんて思っています。
そのことが今からとっても楽しみです。
もっともその頃には、「コンタクトがいい」なんて言い出しそうですけどね。

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