●私の挑戦~~母へ、感謝と愛をこめて~~

 私にとって、文章を書くこと自体はそんなに苦労を要することではないように、思われがちです。
現に、いろんな文章を、皆さんに読んでいただく機会をいただいているのですが、それでも時には悶々とすることが有るのです。
 言ってみれば、毎回が挑戦なんです。
 私が書けなくなる時には、どうやらいくつかの条件が重なっているな、と気がつきました。
それは、仕事以外の私信でも同じようです。
要するに、ムラが出てしまうのですが、これは自分にとってリスクでもあり、自己嫌悪の対象になるひとつでもあるので、ぜひこの機会に改めよう、と思って今回のコラムの内容にしよう、と思い至りました。
 そういう時は、外側からでは、あまりわからない変化が、私の中で起こっていることが多いのです。
 たとえば・・・
 題材そのものを選べない。 選んだ(決まった)題材に心がなじまない。
 書いていることと心がずれている。等々。
 そう言ったとき、ピタっと手が止まってしまうことがあるのです。
とは言え、締め切りを守らなければいけないし、守れないことでまた、自責の堂々巡りに入っていきます。
 これは、文章を書くときに喩えましたが、日常生活や対人関係などでも、小さく起こっている、と感じることがあります。
 これは本当に苦しいものなのです。
 なので、時には注意してくださる方がいることで、この連鎖が外れたときには、感謝に尽きません。でも、できることなら、しないで済むほうが楽なんですよね、これはお互いに。
 注意される=否定と感じる心があって、これがつらく、未だ未成熟な気がします。
 でも、どこか懐かしい感触・・・私に昔、何があったのだろう、と考えてみました。
 すると母との記憶で、いくつかあった鮮烈なもののひとつが浮上しました。
それは、戦争を題材にした文章に対する感想文で、母に、否定されたという記憶なのですが、私はその主人公がとてもしっかりしている、と感じたままに書きました。
 すると母は血相を変えて、私を叱り飛ばしたのです。
 「違うでしょ!!戦争は恐ろしい、これしかないやないのっ!」
 あまりの言葉の烈しさに、ただ驚くだけの私。でも、私は確かにこの主人公はえらい、と思ったんだけど。そう言えず飲み込んでしまった私。
 この飲み込んだ言葉が今も、消化不良のままのような気がします。
 確かに、戦争は恐ろしいのです。
二度と有ってはならないことでもあります。
その文章の中身は忘れましたが、確かにそのことを一番伝えたかったのでしょう。
 でも、そんな環境で頑張る(当時の私と)同年代の女の子を本当にしっかりしている、と感じたからそう書いたことを、頭ごなしに否定された。文章や感性だけではなく、人格も否定された。
 小学生だった私は、そう感じたのだと思います。
私はとっても傷つきました。
これ以外にも、母は母なりの良かれと思うことで、私への(私から見れば)制限をしてきました。
 でも、そのおかげで守られてきたとも・・・今だから言えるのですが。
 だから~~~
 書くと言う作業の度に、あの日の母が居るような気がする、のはもう最後にしよう。
 いつまでも私が心の棘にしてしまうことは、もうやめよう。
 これが私の、挑戦の核になっているのです。
 こんな小さな一つずつが良くも悪くも私を作っています。
そんな中で、これはやめたい、と思っていることがあります。
 ひとつは、どうしても苦手なことを後回しにしてしまう、悪い癖です。
早い方が楽に決まっているにもかかわらず、ましはなったとは言え、未だにしてしまっています。
 どうやら、反復強迫(言ってみれば、昔の悪い癖のフォームが不意に再出する、という感じでしょうか)という心理的な機制の仕業でもあるのでしょうが、これを改めていくために、何があればいいんだろう?と考えてみたら、何かメリットがあると良いのかな、と思うにいたりました。
 メリット、要するに、ご褒美がほしい、ってことですね。うまくいかないときに何らかのペナルティが課されることは当たり前なのですが、どんな社会ででも、できて当たり前のことには、賛辞はありません。ただ、結果のひとつとして、気がつくととても大きな承認を受けていることに気づくことはあるのですが、くさってる時って気づかなかったりします。
 
 あぁ~困ったもんだ、いくつになってもこれですからね。成長があるんだか、ないんだか、と言う話です。
まったく。
 でも、こういったことは私に限らず多いのかもなぁ、と思います。
 もうひとつは、慢性化している、恐れとの戦いです。
恐れ、と言っても色々ありますが、私の場合は少々強迫的な感じがあり、誰かに否定されるのではないか、という恐れです。
 なぜ自分がそんな感覚を持つのか、あまりにも自覚がないまま今まで48年も生きてきたのですが、否定されないように、相当の努力をしていた模様です(まるでヒトゴトだ・・・)。
 そのルーツを考えていくと、やはり母との関係が浮き上がってきました。
 私の母は、昭和一桁最後の生まれです。
母は兄が3人、妹が1人の5人きょうだいで、兄(私にとっては伯父)たちの世話もしながら、家事を手伝うことは当たり前で、お母さん(私にとっては祖母)を少しでも助けたい、と小さな頃から頑張ってきたようです。
 ところが・・・、同じ女の子なのに、妹(私にとっては叔母)は、何もしなくて良かった。洋服も、自分のように兄貴のお下がりではなかったし、上の学校にも行かせてもらっているじゃないか。理不尽だ!
 こんなことを、子供の頃に何度か聞きました。
母の人生にはこんなルサンチマン(※)がたくさんあるのです。
 (※(註)ルサンチマンとは※
嫉妬や羨望と結びついた、負の感情。憤りや怨恨を一般的には弱者から強者へ向けるとされる。キェルケゴールにより確立された。(Wikiぺディアを参照しました。
)) 
 こんなことが、母の涙を見る機会を減らしていたのかもしれません、
 
 でも、ある時母は、私と話をしながら、私があんたを追い込んだ、と言いながら、顔が腫れるほど泣いていた。
 別の時には、父の妹(幼い頃に生き別れたと言うのです)の話や、父が両親を早く亡くし苦労した話をして、涙ぐんでいた・・・。
 年のせいなのでしょうか、それとも今までの利子なのでしょうか、母の優しい涙を見ることが増えました。
 
 子供の頃から、母に泣き虫だと責められることが多かった私にとって、母の涙は、衝撃でした。
 私の涙が、母の罪悪感を引っかくのだ、と気づいたのはほんの最近です。
母は、幼い私に自分がついていながら大怪我を負わせた、とずっと責めてきたのです。
私の涙や弱った姿は、あの頃の私や母自身を想起するものだったのかもしれません。
 母に比べて破格の泣き虫である私、母は殊更に私に厳しく、泣くことを嫌がり、できることを増やすように育ててきたのは、その罪悪感の裏打ちがあったからかも知れません。
 あるいは、痛みのために泣き叫んだであろう3歳の私を想起するのが嫌だったのかもしれません。
 一方で私は、といえば、私なりに、母に沿うように頑張ったつもり。でも、いつもいつも、そこには届かない。そう思っていました。
 母は、自分自身にかつて課せられたのと同じように、私に接していたのかもしれません。
 私はどこかで、母のルサンチマンを受け継いでしまったようです。
家族への想いの中で、歪んでいる何かを感じることがあります。
それは、母の持つ、こんな想いに似ているのかもしれません。
 だとしたら、私が一つひとつ気づいてゆくことで、母へ還元できるかもしれない、と思っているのです。
 母には母なりの人生があった。
 良いことも、悪いこともひっくるめての、母の人生。
 それをきちんと認めていることを、改めて思っています。
 私たち三人の子供たちが、母から教えられ、守られたことは数知れずあるでしょう。でも、母にとって私たちの存在は、ただそれだけで心癒されるものだったのかもしれないな。
 そう感じられることは、とっても少なかったけど、少なくとも私は。いつも自分の不足を責めていたようで。
 こんな想いが、母の古いルサンチマンにつながっているのも知れないな。つまるところ、私が一番母に似ているのかも。
 さて母は、二度入院しているのですが、どちらも私が付き添ったり、荷物を持っていったりしていました。
 その二回ともが、母の涙を見る機会になり、日常は見せない母の姿に戸惑ったものです。
 思えば、母が涙を見せる時というのは、よほど弱っている時だけのようです。
そう考えると、私は本当に破格に泣き虫です。
でも、私と母は似ているところはあれども、別の人間です。
 私はずいぶん幼い頃からそう思っていましたが、どうやら母は、自分と私の境目が曖昧なところがあるようでした。
だいぶ変わったのは、父が亡くなってしばらくしてからのような気がします。
 考えてみれば、これも愛情なんですよね。でも、私としては居心地はよくなかったなあ。
 母と私の一番の違いは、人の感情をどう感じるか、自分の中にどう受け入れるか、というところに尽きるのかもしれませんが、母にはそのことがなかなかわからないようでした。
 自分と似たところは受け入れられる。でもそうではないところは、変わっていると思われる。
 これが母の特徴のひとつ、と言えるかと思いますが、そうすると、私は否定される。なぜなら、いつもいつも母に同意できるとは限らないから。
 いつしかこれが私の頭の中に公式のように出来上がっていました。
 私の成長と、この恐れは常に共存していた気がします。
母の顔色を見つつ、自分らしくやると、必ず何か言われるんです。
今思うと、私が過剰に母の顔色を見ていたからかもしれないのですが。
 でもそのことに段々慣れてきて、そのうちに麻痺にも近くなって。母に言わないで一人でやってしまうことが多くなりました。
 器用に一見従っているように見せることなど、私はできなかった。まして恋愛相談なんて、もってのほか、でした。
 そう思うと、うちの息子たちは私よりはるかに人間ができてるなぁ、と思います。
・・・と言いつつ、私が人生から学んだことを少しは活かせてるのかもなぁ、とも思えるようになりました。
 母は、今日も元気です(たぶん)。
 こうして母とのことを振り返り、こうして文章化することがなぜ挑戦なのか、というと、母の目に触れる恐れがあるからなんです。
まあその危険は、殆どないのでしょうが、要はそれほどまでに、母の目を私は気にして生きてきたんだ、ということからの訣別にしたい、と思っているのです。
 母との葛藤をいつまでも置いておくことより、私のやり方で一歩進んでみよう、と思ったからです。
 母は、一番弱ったとき、困ったとき、あるいは、私を気にしてくれた時に、連絡をくれるのかもしれません。そう、入院したときのように。
一番近くに住んでいるからこそ、どこかで遠くにしていたいのかもしれない。
 でないと、お互いにべったり一緒に居てしまうかもしれない、と思っているのは母なのか、私なのか。 
 いろんな思いが入り混じるけど、それでも母のことを思わない日はありません。母にとってもたぶんそうなのでしょう。
 これからも、自分らしく生きるために、こんな形で私は母と一緒にいます。
 母のくれたものの偉大さに気づきつつ。母の愛の大きさに感謝しつつ。

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1件のコメント

  1. 母に対する気持ちを整理して書かれてあるので参考になり、落ち着きます。
    どうもありがとうございます。