●紫陽花の頃〜〜〜生まれた季節〜〜〜

 紫陽花があちらこちらに咲く季節です。
この季節、梅雨時の6月は私と、年子の弟の生まれた月でもありますが、じめじめして鬱陶しいとか、出かけるのが億劫だとか、大人になってからのこの季節の印象はそんな感じです。
でも、紫陽花に似合うのはやっぱり青空より雨だれや水たまりやな、とも思うんです。
また紫陽花は私の生まれ育った神戸市の市花でもあります。
なので神戸に来ると紫陽花を模したタイルなどがアクセントとして見られたりします。
私にとってはとても身近な花なのですが、いざ紫陽花について書こうと思ったら案外何も知らないことに気がつきました。
で、ちょっと調べてみたんです。
 
「学名−Hydrangea(ハイドランゲア。『水の容器』の意。)、原産地は日本。毬状に小花が咲く。花の色は薄緑から白になり、赤系、青系へと変化をする。青は土壌が酸性に傾いたとき、赤はアルカリ性に傾いたとき。」
ドイツ人の医師・シーボルトは古代種のシチダンカ(七段花、と書きます。
)を愛したともここには書いてありました。
そうか、原産地が日本・・・。日本的な色彩と言うか微妙なあの色は私にとってもとても魅力的です。
桜も好きですが、紫陽花も秋桜も好きですね。花はどれも一生懸命な気がして好きですが、この季節はやっぱり紫陽花に魅力を感じます。
古い記憶の紫陽花と言うと、何と言ってもお気に入りの傘とレインシューズで友達と雨の中を出かけては、ちょっとした空き地なんかに植わっている紫陽花を覗き込んで葉っぱの裏のデンデンムシを見つけるのが楽しみだったこと。童謡のままにツノに触れては引っ込む様子やそろりそろりと草の上と言わず裏と言わず這う様子を飽きもせずに眺めていたこと。そして、咲く場所により花の色が違うかもしれない、と思いつつも自分の家の花は青でとても残念な気分だったこと・・・などなど。そして、もっと幼い頃にはナメクジにもいつか殻が生えて?来ると信じてやまなかったので、ナメクジにお塩をかける母に涙で抗議をしたこと、など、鮮烈なイメージで覚えています。
しかし因果応報というか・・・保育所時代に息子たちが得意満面な笑顔で、「おかあさん、良いものあげるよ!」と差し出したのが、彼らの掌の塩分でへたれているナメクジだったり、一掴みのダンゴムシだったり、彼らの言うところの「ピカピカのお団子」・・・あまりにも美しく仕上がった泥団子だったりと・・・子供の頃見えていた世界って本当に今見えているものよりも何倍も美しいものだったに違いありません。そんな風に思うと、自分が幼い頃に感じていた世界で少しだけ遊びたくなりました。
春、母が植えたチューリップに露を見つけ、おやゆび姫を探したこと。まだ裏山があった頃にたくさんいたアマガエルのどれかがかの王子様に違いない、と思ったこと。夜中に鏡を見たら鏡の世界に入ってしまう、と年上の幼馴染に教えられそれが怖くて夜中にひとりでトイレに行けなくなったこと。高熱を出した夜、ぐるぐる天井が回り投げ出されそうに感じて母の手にしがみついたこと。天井板の木目を凝視しながら昼間に読んだお話を思い出していたら母が驚いて揺り起こしたこと。亡くなった祖母が大事にしていた古い絵を、そこに描かれている川のほとりにつながれた屋形船の中を想像しながらいつも見上げていたこと。飼っていた犬たちが「わんわん物語」の1シーンのようにスパゲティを食べたらどうだろう、と想像したこと。安寿と厨子王のお話の理不尽さに毎晩泣いたこと。買ってもらった大きなパンダのぬいぐるみを独りぼっちにするのがかわいそうで、両親に頼み込んで一緒に帰省したこと。小さなお地蔵さんがいたに違いない祠を小人の家だと長い間信じていたこと。家の前の坂道から見える山の中腹にある、夕暮れ時に鮮やかに光る窓がるお寺を、読んだお話の中に出てくる「ひなたが丘」だと考えたこと。
事実を知っている今の自分なら、何ていうことはないことばかりなのですが、ありふれた日常の中にたくさんの夢と輝きがあったことを思います。
実際に変わっていった景色もあれば、心の中の「風景」としてしまいこんでいたものもあるのですが、あの頃の鮮やかさはもう取り戻せないものなのかもしれません。それは成長の証でもあるのですが、現実を生きる厳しさとあいまってさらに懐かしく感じるのは私だけなのでしょうか。いや、そうじゃないな、きっと。トトロに逢いたい。ミッキーマウスたちと仲良くなりたい。スヌーピーと一緒に遊びたい。今の科学の力では行くことができない古代の世界や、まず普通には生きていないだろう未来の世界に行ってみたい。そんな思いが誰の中にもあるからこそ、映画やお芝居、ミュージカルにテーマパーク・・・そう言ったものが廃れることはなく、続いているのでしょう。
人の心は本当に計り知れません。脳についての解剖的な研究がいくら進んだとしても、それぞれの中にある「心」は自分だけのエリアを持ち続けるのかもしれません。でも、それを表現してみたい、と思う心が文学や美術や音楽や、様々なエンタテイメントとしてまた新しく想像の世界を拡げていく。そして、いろんな変化をし続けて科学や芸術や、いろんな形になってまた私たちのところに届くのでしょうね。
この季節、私はまた一つ年を重ねるのですが、子供の頃に感じていたイメージや楽しさや、いろんなことへの好奇心をこれからも持ち続けていくことになると思います。
それはもしかしたら、身の周りの人たちにはちょっと迷惑だったり(笑)、変わってるなぁ、と感じられることになるのかもしれないのですが。でもね、実は 生まれたこの季節、梅雨は以前はあまり好きではなかったんです。
出かけるのが面倒だったり、湿気が多かったり、少し前のきれいな空は隠れてしまうし。子供の頃、傘を持ってたくさん雨が降る中を出かけるのはとってもイヤだった記憶があります。
何でイヤなんだろう?とふと思ってみると、まず濡れるのが嫌だった、とか、濡れた洋服が嫌だった、とか、そんなことより、たぶん、「母に悪い」と言うちょっとあり得ないような答えが自分の中から出てきました。
変なの・・・。
 「母に悪い」と言うのはそれくらい慢性的な感覚になっている気がします。
女の子に生まれてきたこと自体、母を傷つけている気がずっとしていたと感じているんです。
年子の弟がいて、もちろん私とは性別だけではなく個性も全く違うのですが、「お姉ちゃんがお腹の中に忘れてきたものを持ってきた」とずっと言われてきて、ほんまにそうや・・・という感覚が随分長くありました。
もしかしたら、今でも残っているかも知れないのですが・・・。
 
 これは、エレクトラコンプレックスのとても典型的な影響です。
なので私は「忘れてきたもの」以上の何かを手に入れるべく、頑張ってきたのかもしれません。ところが、3歳の時の事故で、私は健康な脚を手放すことになります。
これを心理的に考えていくと、3歳にして既に「デッドゾーン」に入っていた、と言うことになります。
つまり、「もう無理だ」「何もできない」と3歳にして感じていたと言うことになるのですが、現実の私は満1歳の直前にして姉になったので、たぶん赤ちゃんとしては満ち足りた感覚は持っていなかったのでは、と言う推測ができます。
実際自分の行動を振り返りカウンセラーとして眺めて見ると、「さもありなん・・・」と思うのです。
ほぼ1歳の年の差、と言うと物心ついた頃にはすでに「一人っ子」ではなかったということは、長子であると必ずあるはずの「一人っ子時代」が殆どなく、体の大きさなどの面からも双子に近い状態です。
実際やや早産で生まれてきたと聞いている弟より私はさらに小柄で、足に負傷したすぐ後に家の中でおめかしして貰って二人並んでいる写真の裏には、母の字で「まだ(私の方が)少し大きい」と書かれてあり、後に抜かれて今に至ります。
なので、近所の小児科の先生には私の方が妹だと思われていたり、そうですね、父の取引先の方にもそう思われていた、と言うことをうっすら覚えていますが、おそらく弟にこの記憶はないと思われます。
そんな環境下で子供時代をすごしていた私は、3歳にして何かに関して「もう無理だ・・・」と思ったようなのです。
いやもしかしたらもっと幼い頃からだったかも、とも思います。
 幼少期の私は引っ込み思案でちょっと恐い先生に何か言われるとすぐ泣き、先生に「この子は泣き虫だ」と言われた記憶もあります。
もう、40年近くも前のことですが、場面まで覚えていたりする。まさに三つ子の魂・・・でございます(笑)。雨の記憶の多くに、4年生以前のイメージがあるのは、幼い頃の心の中の自分自身へのイメージなのかもしれません。
 雨はいろんな物をもたらします。
乾いた大地に潤いを。植物や野生の動物にはまさに天からの恵。私たちにとってもとても大切なライフラインで、水そのものだけでなく、水の持つエネルギーを利用しているのが水力発電ですものね。物理的なものだけではなく、なんとも言えない美しい世界を見せてもくれます。
雨を歌った数々の素敵な曲も多いですし。クラシックには「雨の庭」(ドビュッシー)や「雨だれ」(ショパン)、と言う名曲もありますね。紫陽花を引き立てる背景となり、苔や石灯籠に味わいを添えたり、毎日通っているアスファルトの道さえも、玉虫のように輝かせたり・・・虹を見つけるチャンスも増やしてくれる、素敵な季節。
 今年は自分の生まれたこの季節をもっと楽しんでみよう、と思っています。
「楽しむ」と言うことは、いろんなできごとを・・・雨のように美しく素敵なものに、きっと変えていくのでしょうね。

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