●母の死がくれた妹との絆

私には、4歳年下の妹がいます。
少し年が離れていたので、小さい頃から、あまり一緒に遊んだ事がありませんでした。
2人姉妹ですが、顔も体つきも、全然似ておらず、もの心のついた頃から人生に絶望していた私は、妹とは、きっと親が違うんだというふうに思っていた部分がありました。
たぶん、そう思う事で、自分を慰めないとならない事がたくさんあったからのようです。
「お姉ちゃんだから我慢しなさい」、と言われ続け、私は我慢大賞を受賞できるぐらいの我慢をしてきた覚えがあります。
そして、我慢をする事は、私のステイタスのようになってしまっていました。
我慢をし過ぎると、我慢を我慢って感じたり、思ったりしないのですが、周りの人間は見ていられないという感じになります。
今、衛星放送で甦っている世界的ヒロイン「おしん」のような世界ですね。
私の人生で、阪神大震災を神戸の真ん中で被災し、全ての生活機関も麻痺し、町も人も絶望しきっている中で、母の突然の病死が来ました。
あまりに突然で、私は涙も出ませんでした。
そんな涙がでない自分自身にとても驚きました。
それでも、葬式を済ませると、看護婦という仕事に戻り、普通に生活していました。
そして、時が過ぎ、母を亡くしたという事実をやっと感じられるようになった頃、私は、母よりも重症の人が助かって行く、そんな仕事の現場に自分の身を置いている事が出来なくなりました。
悩んだ末、、やっとの思いで父にそれを伝えた所、父の返事は「お父さんも頑張っているんだ。お前もそんな事を言わずに頑張れ。」というものでした。
私は、この我慢大会は、慣れ親しんだ大会だったのですが、さすがにこの時ばかりはどうしようもなかったようです。
そして、そのやりとりを見ていた妹が、私に、泣きながら
「お姉ちゃんがそう思うのなら、辞めたらいいよ。このままじゃ、お姉ちゃんが次に死んでしまう。私は、お姉ちゃんに生きてて欲しいから、私からお父さんを説得する。」と、
それまで、弱弱しく、自分の想いなど殆ど話す事のなかった妹が、この時ばかりは私の命を救ってくれました。
たぶん、私は、本当に仕事を辞めたかった訳ではなったようです。
ただ、私を理解してくれる人や必要としてくれる人を感じたかったのだと思います。
20代の後半まで、殆ど話す事のなかった姉妹が、初めて必要とし合うという感覚が芽生えました。
それからは、私達姉妹は、お互いがそれぞれの専任カウンセラーです。
「私カウンセラーになりたい」といって、その道の大学に進学した妹は、挫折しかかったこの夢に向かって、ようやく動き出しました。
また、妹のこの発言を聞いていた私は、そんな道があるんだって事を、その時に知り、ふとしたきっかけでこの世界に入ってきました。
とても分かり合う事などできないと思ったり、許すもんかと恨んでいた妹との関係性は、母の死をきっかけに、今もますますよい方向に変化しています。
良くなれることを習得できた今では、これで母が生きていてくれたら、もう何も悲しむ事など必要なかったのにと思います。
でも、そうやって後悔ばかりしたり、自分を責めているのは、母の死を無駄にし、そこから何も学ばないでいれば、もっと母の魂は悲しんでいるという事になるでしょう。
だから、私達姉妹は、『命』という事に関して、語り継いで行く職業を選び、これからも語り合って行くんだと思います。
今度は、手遅れにならないうちに、出来る事からでも始めていきたい。
それが、私達が母から受け取った愛のようです。
もう、一人じゃないから、困った時には、話を聞いてくれる人がいる。
だから、恐れてばかりいないで、前に進んで行こう。
私の目標は、あの日、妹がくれた言葉のように人を命を助けてあげる一言をあげられるような人になることです。
そして、それを受け取ってくれた人が、また次の人にそれを投げて行く、そんな繋がりが
世界中にまで及ぶ事です。
この世界中が、愛で包まれる日は、私が生きている時間では難しいかもしれませんが、時代が続く限り、きっときっと今自分が生きている事に意味があったって思えるような、人からも思ってもらえるような、そんな人生を創っていきたいものです。
深澤三津子

この記事を書いたカウンセラー

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