●隣人

みなさん、お元気ですか?源河です。
このコラムを書いている今日、こんな出来事がありました。
夕方ぐらいでしょうか、うちの電話が鳴りました。
なぜか間違い電話、というよりは以前うちの電話番号をつかっていた人への電話が多いので、
相手「○○さんでしょうか?」
私「いいえ、ちがいます」
相手「番号は**−****で間違いないですか?」
私「はい、そうです・・」
相手「失礼しました・・」
というやりとりに慣れている(?)のですが、今日の間違い電話は、少しオモムキが違いました。
無言電話です。
(苦笑)
一人暮らしをしていた頃は、ウンザリするぐらいあったのですが、いつもの○○さんへの間違い電話が多い、
今日この頃、新鮮な感じがして、
「もしも〜し」
「どちら様ですか〜?」
と、面白半分でつきあってみることにしたんですね。
すると、しばらくすると電話の向こうで、話し声が聞こえてきました。
(遠くの方で) 「出た〜?」
「ちがう・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
ガチャンッ!
ムム〜?と思いながらも、受話器をにぎっていた相手が、明らかに小さな子供だったことが、
はっきりわかったので、きっとお母さんがそばにいて”電話をかけてみよう!”なるミッションを、
その子が忠実に遂行している姿が目に浮かんで、なんだか微笑ましい気分で、
私も受話器をおきました。
中断させられた用事をしながら、電話をかけてきた子供の言った、
「ちがう・・・」
という言葉の余韻が、程なくして私の心の中の”なにか”に響きだしました。
ちがう・・・って、私はその子にとって”誰”じゃなかったんだろう?
私はカウンセラーとして、クライアントの方と電話でよくお話をします。
誰にも聞いてもらえないような悩みや、いったいどうしたらいいの?というような相談。
ときには笑って、ときには泣いて・・・
そんな電話カウンセリングは、たった45分でも一緒に答えをさがして、心の内を一緒に見つめていく、
いわばクライアントの方の「心の相棒」をさせてもらえる、充実したひとときです。
誰もがなにかしらの悩みやわだかまりを持っていて、より良くなりたいと望んでいる。
そのお手伝いをさせてもらうことは、私にとっては仕事でもあるし、喜びでもあります。
でも、その子にとっては、ちがいました。
もちろん自宅だし、カウンセリングでもないことは百も承知、ただの間違い電話でしかないことは、
当然のことながら、わかっています。
(笑)
でも、まだ小学校に上がるかそのくらいの幼いその子の声は、とても印象深いものでした。
「ちがう・・・」
きっとお母さんも、そんな幼い子供に受話器をにぎらせるくらいです、電話に出るであろう相手は、
その子のお父さんや、もしくはとても親しい人だったにちがいありません。
声を聞けば、それとわかるであろう”誰か”。
その子も、その”誰か”が出るものと信じて、呼び出し音を聞いていたはずです。
ドキドキしながら・・・
私の「もしも〜し」に、とても戸惑ったにちがいありません。
思えば、最初の無言だったときの空気は、いたずらのそれとは、どこか違っていました。
電話でカウンセリングをしていると、いろんな空気があることがわかります。
まるで、相手の気持ちや感情が、回線を伝って受話器から「無音」の振動で耳に入ってくるように感じることも
あります。
その幼い子供は、受話器に耳をあてて、一生懸命なにかを探しているようでした。
きっと「ちがう・・・」という言葉を言うまでに、思考回路はフル回転だったでしょう。
ふと、自分のしているカウンセリングについて思わずにはいられなくなりました。
くり返すようですが、誰もがいろいろなことで悩みます。
そして、その悩みを解消すべく、私たちは尽力します。
でも、大人になって久しいみなさんなら、おわかりのように、悩みは尽きないものです。
小さなものから、一生を左右するような大きなものまで、生きていれば私たちは悩み続けます。
とても人間らしいことです。
でも、いったいなにを一番望んでいるんだろう?
その答えを、「ちがう・・・」と言った幼い子供が教えてくれたような気がしました。
自分のすぐ近くにいる人、心と心が隣り合うぐらいの、そんな身近な人。
声を聞いただけで、その人とわかる、親しい心の隣人。
「隣人を愛せよ」とは、よく言ったもので私はクリスチャンではありませんが、なるほどそういうことか、と、
勝手に私なりの解釈をして納得してしまいました。
その子にとっての隣人は、まぎれもなくお母さんやお父さん、もしかしたらおじいちゃんかもしれないし、
おばあちゃんかもしれない。
社会に出る前の、人間関係にもまれる前の、純粋に心の隣人を信じて受話器をにぎっていた、
そして私の声を聞いて「ちがう・・・」と言った、その子の素直な気持ちに、大切なメッセージが込められていました。
私たちが、一番望んでいること、それは自分のもっとも親しい人と心を通わせることではないでしょうか。
「近すぎて見えない」とは、よくラブソングでは使われる言葉ですが、
みなさんにとってのもっとも親しい人や愛する人、そんな心の「隣人」によせる想いや気持ち、
見えなくなっている、ということはありませんか?
ちょっとしたことに傷ついたり、ときにははしゃいだり、何気ない素振りで接している、
本当は、自分の心の中にずっとい続けているのに、まるで、いないように見せてしまう、
そんな心の「隣人」・・・
いつもは慣れた態度で接している、毎日同じ顔をつき合わせている、そんな私にとっての一番の隣人。
なんだか、ちょっと素直にダンナを愛しく感じて、夜遅くまでいつもは話さないようなことを、
とっても新鮮な気持ちで出来たのでした。
ともすると日々の生活の中で忘れてしまいそうになる、こんな単純なことが、たくさんたくさん積み重なって、
幸せはつくられていくんだな〜と、そしてそれが出来ないと感じている時、私たちは悩むのだと、
あらためて気づいたんですね。
あなたにとっての心の隣人は、誰ですか?
源河 はるみ

この記事を書いたカウンセラー

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