そして私たちは変化する生き物

少し肌寒くなりましたね、みなさまお風邪など、そしていまどきインフルエン
ザなど罹られていらっしゃらないでしょうか?
料理をするようになりました。
一人暮らしがとっても長いのに一向に気力も沸かず、友人達の励ましにも応え
ず(ゴメンナサイ)、さてと、と、買い物をしてもときに数週間後に成長した
野菜に出逢うこと多々あった私です。


不思議なのですが、突然料理ができるようになりました。
以前から気づいていたのは自分にとって「料理をすること」がとても女性的な
感じがして自分にとっては違和感のあることでした。
化粧もそうです。化粧品の匂いがとても苦手だったのです。
料理はまさに「母の苦労=女性の苦労」のイメージだったのです。
さてさて、やり始めてみて感じたことは今更なのですが、「母の愛」でした。
彼女が以前作っていた料理をつくりながら、彼女がわたしたちにどんな気持ち
を向けてくれていたのかを始めてリアルにしるところとなりました。
なにかを支える・育む・犠牲でない・女性の愛情。
私が昔、(内面で)猛反発し、どちらかというと男性的な生き方のみを選択す
るにいたった経緯は、母の愛の元に溶け、役割としての女性でなく、同時に
(まるで八つ当たりのように)嫌っていた、ただの性別としての女性がやっと
自分の中に居場所を見つけたようです。
もう既に7-8年ほど前になるのでしょうか、「君に必要なのは、新しい女性
の人生(生き方)」だと師匠に言われたことがあります。
アラフォーといわれる世代となりましたが、統計をとったわけではないですが
、世間で言われているように主婦を選択した友人・そして私のようにキャリア
を優先した友人、とがどちらも自分達を全否定も全肯定もできずにおり、また
、両方を自然に統合させているケースはやはりまだまだ少ないように思うので
す。
今となって思うことは、「新しい女性の生き方」という言葉のなんと奥の深い
ことか・・・と思います。
そして、簡単でもないけれど、変遷は出来るのだな、と。
では、女性の生き方が変遷しているとしたら男性はどうなのだろうかしら。
パワーゲーム・マネーゲームの元でまだまだ男性が有利なようにも見えますし
、いろんな物を凌駕して、ビジネスでも成功する女性・管理職となる女性も確
かに増えてもいます。
男子は果たして、すべて草食系になったのかしらん?
最近のWEBの記事でめをひいたのは、都会辺りでは「スカートを穿く男子」が出
現しているという内容のもの。ええっと。目の前にそのような男の子がいて、
居るだけだったらまだ一緒に楽しめるかもしれないけれど、もしも、私の彼氏
だったら?!
昨今のサラリーマンの髪型などを見ても、私が見慣れていた落ち着きのある
(髪の毛の生えている方向にさして逆らわないような)風体でなく、無駄に後
ろ髪が長かったり、いろんな方向に髪の毛が向かっていたり。
実のところ、そんなことで人の価値は計れないと確実に思っているが、ちょっ
とドキマギもします。
3つボタンのスーツですら、最初に見た時には実はちょっとビビッていたくら
いに私の男性に関する観念ははっきりいって硬かったのですから。
彼らの感性が分からないにしても、理解しようとまずは試みてみました。
美しい、という感性を映し出すものを、昔は鏡として女性を使っていたのでは
ないかと思われるが、今はそれは男性自身にもむかっているのだろうな。
それぐらい、じつのところ、平和に豊かになり、闘わずともおられるような国
が実現もしているのかという見方もあるのでしょうか。
それとも、私たちの冒険心・探究心というものはいつしか何かを越えていくこ
とを常に求めているように思うのですが、それが女性はスカート・男性はズボ
ンと作られた常識を超えることをどこかしら清々しさのように感じているので
しょうか。
きっと本人達に聞けば、なんのことはない「こういうのが好きだから、イケナ
イ?」ということになるのでしょうけれど、分析したくなるものですし、それ
を通じて、自分の中の男性とは・女性とはという縛られている観念もはっきり
と見えてしまうことになります。
たとえば子の世代、子でなくとも後輩や部下、「若い(自分よりも)」もの、そ
ういう存在はずっと使っている観念を手放すというある種リスクを冒すことを
助けてくれる存在でもあるのかもしれません。
新しい価値観が発生した意味は、その影響もふくめ、論理としても切り取りよ
うによってさまざまなのでしょう。
ただ、奇抜さや常識を超えることは確実に感情的には抵抗を感じますが、それ
はいつも悪いことなのでしょうか?
意外と人類全体としてこれだけ世界中で増殖していたり、「発展している」と
いう歴史を感じるにつけ、1世代後に対しては批判したくもなりますが、それ
よりも教えてくれることのほうが多い、希望を感じさせてくれることのほうが
本当は多いのかしらとも思います。
観念が変わること、観念を超越して、対立しないこと。
それはひとつの冒険で、瑞々しい感覚をまた取り戻す手段となるという見方は
人に自由さも与えてくれるかもしれません。
「ヒーリング」「ワークショップ」という場に際して、いま現在おきている事柄自
体にフォーカスして、その事柄を体験的な価値観で判断していくのでなくて、
ただ感情を感じていくことにフォーカスします。
嬉しかった・楽しかった・悲しかった・悔しかった・恥ずかしかった・辛かっ
た。
切り捨てちゃうんですよね、私たち。
泣いて泣いて泣いて泣いて、笑って笑って笑って笑って。
これって、社会で生きているとかなりタブー。特に男性で上手に感情表現をも
ともと出来る人って珍しいって思います。
コワいことをコワいという。
辛いことを辛いという。
(ノンバーバル・非言語的な情緒であっても出さない方多いですものね)
その‘禁’を越えて、破って。
じぶんの‘感じていること’にむきあう、逃げない、ってとってもリスキーで
ワンダフル。
よく言うことですが、だんなさま(←注:奥様でも、お父さんでも、こどもで
も、上司でも、一緒です)があなたから逃げるとしたら、あなたがコワいんじ
ゃなくて(コワいかもしれないけど!)そこで出逢う自分の感情がコワい・・
・受け容れられる自信がないんですよぉ・・・。
感じることそのものが人生での大きな冒険をまた思い出すことと同じ意味とな
ります。
この記事を読んでくださっている、皆様にはコラムの冠のとおり40代(アラフ
ォー以上)の皆様がたもそうでない方もいらっしゃいますよね。もしかして
「飽き飽き」とか「退屈」とか「もう変化しない」とか、そういうときこそ、
何か(感情的な)大きな冒険だとか、生まれ変わりだとか、そんな可能性がき
っと秘められているのです。
そして、謳歌はきっといつもある!と信じています。
年齢だとか・性別だとか・信条だとかに関わらず、冒険の扉は意外といつもあ
るのかもしれませんね。
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