いつか見た夢のように~~デジャビュ(既視感)とジャメビュ(未視感)~~

 見慣れない着た服を着た自分が、誰かと旅をしている。目に映る風景は明
らかに初めての風景。なのに、なぜか懐かしい。なぜか、道を知っている。
 例えば、夢の中のこんな感覚をデジャビュ(既視感)、と言います。
 反対に、日常的に良く行く場所なのに、ふとした瞬間に、まるで異国の町
にいるような、異空間に来たような、そんな感覚を、ジャメビュ(未視感)
と言うのだそうです。


 そう言った感覚とは違うのかもしれないのですが、見たことがあるのか、
想像の世界なのか、いくつかの風景・光景が頭の中にあります。
 質素な木製の台車に、溢れそうな程の花束。ひと際大きな花束が添えられ
たその下には、穏やかな顔で眠る老婆。
 悲しみの歌が流れる中、厳かでもありどこか晴れ晴れとして、台車が向か
う先は、町外れの共同墓地。サテンの布の様に、ところどころ色を変える光
が、老婆の人生を物語っているかのようです。
 その人生に、平凡な少女だった時代もあれば、力強く生きた母の時代もあ
り、全体的に見れば人と関わることを楽しんだ人生であったようです。
 私はその光景をどこから見ているかと言えば、「少し高いところ」から、
なのです。空からでもなければ、地面に立っているのでもなく、少しだけ高
い場所。
 また、愛する人と喧嘩して別れた直後に何らかの事故に遭い、彼が戻って
来た時には虫の息。ありがとう、を言えなかった。彼の、叫びを聞いて、そ
れでやっと、愛されていることを感じられたのに。
冷たい石畳に、吸い込まれるような感覚が、肌に残っているようです。
こう言ったイメージは、自己瞑想をしている時に出てきたものなのですが、
カウンセリングの現場でも、応用させていただいています。実体験ではない
瞑想での「体験」もまた、感情や感覚を非常に動かしますから、深層意識へ
のアプローチには、自分自身が感じたイメージ、夢に出てきた感覚、時には
映画や絵画の中に入ってゆくような感覚を、広げてみることもあります。
 話は、デジャビュに戻りますが、日常生活の中で、初めて来た場所なのに
も関わらず、何だか良く知っている場所のように思えたり、実際に、道を知
っている感覚になったことがあります、またそれが間違ってなかったのが更
に不思議だったんですけどね。
 こう言った感覚を、「錯覚」と言ってしまえば、確かにそうかもしれませ
んが、話はそこまでになってしまいます。そして、錯覚と思えないところが
また、人の感覚の面白いところですね。
 かつての職場で、認知症の方にお会いしたことがあります。それはもう、
とてもリアルに、20年位前のことを話だけではなく行動で示されます。時
には、季節さえ錯誤されているので、真冬に麦藁帽子、だったりします。
 そんな風に考えると、脳の中には、(映画などを含む)実体験であれ夢で
あれ、あるいは瞑想や誘導催眠、絵画や文章からの空想などで「行った」場
所、とった行動、そして感情などは、とても大雑把に片付けられているもの
なのかもしれません。
 夢を題材にした小説や映画は少なくありませんし、とても魅力的です。私
は時に、夢が見たくて、空いた時間に眠っていたりするんですけど・・・寝
入りばなが一番キケンですね、ほんの一瞬に現実ではありえないことが頭の
中に去来して、飛び起きたり。
 人間の感覚は、鍛えないでいるととっても鈍感です。それを示すような、
こんな実験がありました。
 あるテレビ番組での話なのですが、目隠しをして何人かが素足で座ってい
ます。足の指を触って、何指かを言い当てさせるのですが、親指、示指、中
指は当たります。ところが・・・薬指は、小指と勘違いすることが多いので
す。
 
 もちろん、順番に触っていくとわかるのですが、親指や示指の次に薬指を
触ると、「それは小指!」と言います。そして次に小指を触ると「えっ!!
さっきのは何指!?」という感じ。・・・お試しくださいませ。
 末端になれば、それくらい感覚が鈍い、ということなのだそうですが、こ
んな錯誤は、身体の感覚だけではなく、視覚や聴覚にも起こります。
 脳は、認知の臓器だと思うのですが、それくらい大雑把な面もあれば、非
常に細かい音の違いを聞き分けたり、微妙な色の違いを見分けたりもしてい
ます。
 その膨大な情報は、日常生活でもいろんな使われ方をするのですが、時に
は勘違いしてしまうこともあります。
 そのこと自体、誰にでもあることなのですが、状況によっては大変なこと
になってしまったり、勘違いから始まりそのまま文化になってしまうことも
あるかもしれません。
 そんな風に思うと、私たち人間が作っているこの社会は全て、誰かの頭の
中にあるものの体現だと言えると思います。人間ってスゴイ、と思うのは何
もそんな時ばかりではないのですが、あったらいいな、を形にしてきている
んですもんね。やっぱりスゴイことだと思います。
 寝ている時の夢ではなく、「将来の夢」「夢の実現」のようにも、夢という
言葉を使いますが、睡眠中の夢が時には発明や事業のヒントになったことも
少なからずあるようです。
 白昼夢、という状態は、覚醒中にみる夢のようなものですが、言ってみれ
ば一種の解離状態で、精神的(脳の気質的な変化や脳内物質のバランスのズ
レにより起こる変化、と私はよく考えますが)な疾患などの状態で感じる幻
覚だけではなく、瞑想中に感じることもあれば、読書中や音楽鑑賞中に、頭
の中に情景を描いたりすることがあると思うのですが・・・、子供の時には
そんなイメージとよく遊んでいた気がします・・・今でもそうか(笑)。
 そう考えると、どんな人の頭の中にもきっと、無限なものがあるに違いな
い、って私は思ってしまいます。表現する手段がない、と思っていたり、社
会的規範の枠があったり、ということもあると思うのですが、それよりも、
どこか自分自身で制限を作っていることが多いのかもなぁ、と思ったりする
のです。
 夢の中に、明晰夢というものがあります。コレは夢である、と自覚してい
る夢のことですが、トレーニングにより自由に夢を構成できることもあるの
だそうですよ。自分で夢が創れる!これで嫌な夢は見ないですむかも!
 また、瞑想はキリスト教・仏教を始め、様々な宗教でも用いられるようで
すが、宗教だけではなく、ただ自分に向き合うために静かな時間を持つ、と
言うような意味にも使われているように思います。
 
 心をもっと自由にさせてあげましょう。勘違いだって、楽しんでしまいま
しょう。難しいことよりも。
 もちろん、大切な場面での勘違いや失敗は、困ったことになりますが、
「禁止」「制限」は失敗の助長になります。緊張感もその原因のひとつだと
考えますが、してはいけない、と思えば思うほど無意識的にその方向にこと
が進んでいることは少なくありません。
 
 自分の夢の中や、想いの中くらい、自由でいられたら、案外緊張による失
敗は減るものではないかな、と思っています。
 そんなことを今も思い続ける「夢見がち」な私、もうすぐ49歳です。
 眠るのも大好き、瞑想も大好き、そして自分の人生にまだまだ夢を持ち続
けています。
 今日見た夢は明晰夢で、うちの社長に「女性専用のセミナーがしたい!」
「子供を連れて来れるセミナーよっ」「幼稚園や学校のある時間のセミナー
が開きたい!」と綿々と話していながら、これは夢やんな、そう、夢やで、
と言い聞かせているのでした。
 そう、これ、私の夢なんです。
 子育て中の女性、仕事と家庭で忙しい女性、家族の介護に当たる女性、こ
れは男性においても同じ条件ももちろんあるのですが、少なくとも私の周り
では、そのためにセミナーに出られない、と諦めているのは多くは女性なの
です。
 そんなセミナーをまず作ることから、始まる何かがあるな、と思っていま
すし、逆に、夜間や休日にしか参加できない人のためにも、そんなセミナー
が必要です。
 ああっ!!セミナーが開きたい!色んな人が楽しめるセミナーがっ!色ん
な条件で今は来れない人にもたくさんの機会を作りたいっ!!
 切に切に思っています。
 冒頭の、花に囲まれたお弔いのイメージを遡ると、お昼間の教会でいろん
な人と話している姿に辿り着きます。
 やはり「夢」は、たくさんの示唆をいつも与えてくれているのかもしれま
せん。
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