「当たり前」は有り難い ~たったひとことの「ありがとう」が伝えてくれるもの~

子どもが成人したら、一人前の大人として認めて、尊重してあげることはとても大切なことだと思います。
いえ、本当は成人したらではなく、ある程度大きくなったら、なるべく大人と同様に扱ってあげられるのが理想かなとは思うのですが、残念ながらそれは結構難しい事も多いようです。
さて、この春、我が家の次女が無事、大学を卒業して社会人になりました。
娘もこのご時世で、就活に苦労していたことも知っているので、親とすればなかなか感慨深いものがあります。
もちろんそれだけでなく、生まれてからのあれやこれやを思い返して、つい涙ぐみそうになったりして(笑)。
私は本当に涙もろいので、こういうとき、次女にはよく笑われるのですが、世のお父さんお母さんには私の心情をご理解していただけるのではと思います。
でもここ数年、出来るだけ子離れをしていこう、私なりに娘たちを信頼して、一人前の大人の女性として尊重していこうと、私も努力していたのですが、そのおかげかな(笑)?
最近の彼女はとてもしっかりしてきて、わが娘ながら頼もしいなと目を細める親バカ全開の私です。
そして、そんな私に呆れたような目をして「ハイハイ、わかったわかった。良かったね」と体よくあしらうのが、次女のいつものパターンなのです(笑)。
さて、そんな次女ですが、新社会人となって数日め、入社三日ほど経ったあたりのことです。
いきなり、帰宅してこう言ってくれたのです。
「今朝、朝ご飯作ってくれてありがとう。朝、早く起きてくれてありがとう」
なんと!朝6時に起きて、7時の電車に乗る為に家を出る彼女にしてみれば、「朝、早く起きて、朝ご飯を出してくれるだけでありがたい」のだそうです。
そして次の日、お弁当を作って持たせたら、お昼過ぎにLINEのメッセージが入りました。
「お弁当ありがとう。卵焼きとかめっちゃ美味しかった」
さらに夜、帰宅して晩ごはんどきには、「帰って来て夕飯出してもらえるだけでありがたい」ですって?
うわー、こんなこと言われたの初めてですよ?びっくり。
「いやいや。そんな、大したモノつくってないやん。半分は前日の残りだし……」
答える私に、「そんなことないよ、いつも本当にありがとう」と返す娘。
なんだろう、これは……?
「ありがとう」の洪水です。
いや、「洪水」というのは大袈裟かもしれませんが、でもねえ……。
だって、今までこんなにマメに、こんなにたくさん「ありがとう」を言ってもらった記憶はないからなあ。
まあ、嬉しいですけど。
母とすれば、通勤ラッシュの中、1時間以上かけて都心まで通い、フルタイムで研修を受けて来る娘は、まだ若いとはいうものの、体力的には大変だろうなとか、いろいろ思うわけです。
となると、せめて朝はご飯くらい私が作ったものを食べさせて送り出そうとか、夜、疲れて帰って来るだろうから、すぐにあったかいご飯が食べられるようにしておいてあげようとかね。
そして、職場にお弁当を持って行ってもいいということが判明したので、早速お弁当を作って持たせたところだったのです。
でもさすがに朝は早いし、あまり手の込んだものは作れないので、若い女の子のお弁当箱にしては地味な感じも時々漂いますが、それでもすごく喜んでくれるんですね。
そのうえ、「そんなに手の込んだことしなくて、全部冷凍食品でもいいよー」なんて笑って言ってくれるのですが、さすがにそれはね、ちょっと申し訳ないので、出来るだけ頑張ってみたりもしています。
ちなみに今日のお弁当には旬の苺を入れてみたりしたので、見た目がすごく可愛くなり、大満足の母です。
という感じで、そういったことの一つ一つに、感謝を示してくれたりしたわけなので、これはもう、私としては本当に嬉しいものです。
もともと、どっちかというと中身は男っぽいところがあり、普段からおおざっぱでぶっきらぼうな彼女がそんな風に言ってくれるなんて、ホントに感動したんですね。
なんていい子なんだろう、どんな素敵なお母さんが育てたのかなって、……それは私か(笑)。
と、まあ、くだらない冗談はさておき、でも、そんな風に言ってもらえると、もっと喜ばせてあげたい、頑張ってる娘のために私も頑張りたいなって思うようになります。
こう見えて私も、根がかなりの単純バカですからね(笑)。
でも、誰かが伝えるたった一言の「ありがとう」には、そんな力があるんです。
元々「ありがとう」という言葉が「有り難い」から来ていることは、ご存知の方も多いと思います。
「有り難い」は「あることが難しい」=「滅多にないこと」ですよね。
そうそうあることじゃないからこそ、それが得られる幸運に心から感謝して、そうして発する言葉だったはずなんです。
だから、私からすればそんな大したことないこと、して当たり前で、ちっとも「有り難い」ことではないと思っていたことを、娘が「有り難い」ことと思ってくれたこと、その価値を認めてくれたことが、私にはとても嬉しかったんですね。
私の方こそ、そんなに有り難がってくれてありがとう、って気持ちでした。
「当たり前」は「やって当然」ということなので、やれるのが、出来ているのが普通です。
つまり、「当たり前」は「通常」のことであり、その価値は「ゼロ」です。
でも「有り難い」ことは「通常」のことではないので、とっても価値がある。
誰かがしてくれる「当たり前」のことも、本当は全く当たり前では無いのですよね。
私たちはそれを「当たり前」と思った時点で、感謝をすることを止めているのかもしれません。
娘の「ありがとう」の言葉は、私に改めてそんなことを思い起こさせてくれました。
家族の問題が起きて、心理学やカウンセリングの世界と出会う前の私は、いろんなことを「当たり前」の一言で片づけて、ろくに感謝をして来ませんでした。
でも、本当なら、私たちの身の回りにあることはすべて「有り難い」ことであり、感謝できることはとてもたくさんあるようです。
例えば、私が子どもだった頃、私は母が家事をしてくれてもそれを当たり前だと思っていて、ちっとも感謝をして来ませんでした。
もちろん、母の日や誕生日、勤労感謝の日など、折々に感謝を伝えたことはたくさんあるけれど、次女が私に伝えてくれたように、本当の本当に心から母に感謝を伝えたことがあっただろうかと省みてみれば、「YES」とは全く言い切れない気がします。
心理学を学び始めて、母に対してはようやく葛藤が少しずつ解消されてきたように思いますし、折に触れ、感謝を伝えてはいますが、それでもまだまだ足りないなあと思うんですね。
私自身が娘たちとの間に問題を抱えていたように、私もまた、母との間に問題を抱えていました。
親子関係は悪くはなかったと思いますが、私の長女が今から7年ほど前に心の病気になった頃から、私の中に両親に対して「怒り」や、たくさんの「恨みつらみ」があることをはっきりと自覚するようになりました。
そしてそうした感情を持つことで、私は母からの愛情を拒絶し、また母を愛することをやめてしまったのだと思います。
母がしてくれたことを「親なんだから当たり前」としてしまうことは、母の愛を「ゼロ」と言ってしまうことになるのかもしれません。
でも、心からの感謝をもってそれを「有り難い」と思えたなら、私は今からでもたくさんの愛を受け取れたことになるのでしょう。
私が娘から「ありがとう」を伝えてもらって、本当に嬉しかったように、私からももっとたくさん「ありがとう」を伝えたなら、母も心から喜んでくれるはず。
偶の電話でさえも、とても嬉しそうにしてくれているのですから。
「子どもは3歳までに親の恩をすべて返している」という言葉があります。
それは、親からすれば本来、子どもは「可愛い」だけでその苦労に報いてくれるものであり、生まれて来てくれただけで「有り難い」、愛すべき存在だという意味なのでしょうね。
残念ながら、子どもたちが幼かったころに彼らにとって「いいお母さん」とは言い難かった私が、そんな風に子どもに対して思えるようになったのは、ここ数年のことです。
けれど、そのたった数年の間に、もう幼くはない娘たちを数え切れないほど「可愛い」「愛おしい」と思えたことが、本当に有難いことなのだと私は今、心から感じています。
だからきっと、私が両親のもとで育った子供時代、母も父も、私に対してそんな風に感じたことはきっとたくさんあったはずです。
そして、そのことが両親にとってどれほど幸せなことだったのかは、私自身の経験から推して知るべし、だとも。
そう――、長い時間をかけて、ようやく私もそう思えるようになったのです。
それは私にとってはとても嬉しいし、誇らしいことでもあります。
今でもまだ、「私は母に愛されていた」と私自身の心で感じることは難しいときもありますが、それでも私はこれから先、母からの愛を「無かったこと」にせず、「有り難い」ものとして受け取っていこうと思います。
娘たちを、いいお手本にして――。
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

三枝 みき

家族や親子の問題、子育て、友人との関係など対人関係の問題や、罪悪感、自己否定など心や性格についての問題を得意とする。 長女の自傷と強迫性障害がきっかけでカウンセラーとなる。特に母子関係については、自身が母との問題、娘との問題の両方を経験しており、ライフワークとして取り組んでいる。