誰かの歓びとなり世界が変わる

10歳の時、友人と一緒に交換日記をしていた私は、「10年後、ハタチになったこの交換日記を持って会おうね!」と約束した覚えがあります。
残念ながら、二十歳になったときは当時の約束も忘れ、ただただバイトと学校との往復の日々を過ごしていました。
それは、10歳の時に自分が思い描いていたハタチとは到底想像もできないような現状でした。
どうも当時のワタシには夢があったようで、10年後の「ハタチ」に希望や光を抱いて自分なりの人生を思い描いていたことは思い出されます。
10歳からの10年後を想像していたのですから、まるで未来年表を作るようなものですよね。
いつの間にか10年後に思いを馳せるような時期も過ぎ去り、その10年後に到達したときにはすっかりそんな構想は忘れていたわけなのです。
どうして10歳のときには夢のような10年後を思い描くことができ、今となってはできなくなってしまったのか。そんな心理学的な、というか若年寄り的なことを思いつくようになった自分に精神年齢の高さを感じるわけなのです。
一応、ミソジを迎える今年、10年前のハタチを思い返すと・・・もっと遊んでいればよかった、とか、もっと恋すればよかった、とか、もっと違う職業を目指してもよかった、とか、もっと旅に出ればよかった、とか・・・
すごくいっぱい思うのです(笑)・・・悲しいくらいに。(照れる汗とともに涙が流れる感じで)
でも、今から楽しんだって遅くはないし、心は自由に変容できますから「いつまでも22歳!永遠の22歳!」とか言っちゃうのも(痛々しいけど何か?)自分次第なんですよねっ!!
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若い時に若々しくいられなかった自分を思い出すと本当に背伸びしすぎていたように感じます。
世の中をわかったつもりになって、自分を悟ったようになって、何かを探求することもなく。
もったいない時間の過ごし方でしたし、何も知らず何もわかっていない自分に気づくことすらなく、つまらない人間だったと思います。
私が感じているものは世の中のほんの一部でしかなく、この世の中にはもっと美しいものも、もっと素晴らしいものも、もっと歓びをかんじるものも、いつも自分のすぐそばにありふれていることさえ知らずにいました。
自分一人が死んだところで何も変わることはないし、何が起こるとも思っていませんでした。
生きていても死んでいるような感覚に襲われるとき、いつも自分は一人で居ました。
でも、そうじゃない・・・私の存在が誰かの歓びになっていると知ったとき、不思議と死んだような感覚は消えて自分の存在を大切なものとして扱ってもいいのかな、と思えるようになりました。
自分の中にある内的世界、つまり自分のことを自分でどう見て、どう扱って、どう作り上げていくか、ということが変わると、世の中も違う角度から捉えることができるのですね。
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これから10年後、ヨソジになったときがどんな自分になっているか、楽しみで仕方がありません!
誰とどこでどう過ごしているのか?毎日どんな美味しいものを食べて過ごしているのか?
どんな体型でどんな服を着こなしているのか?結婚しているのか?離婚しているのか?
子どもはいるのか?ペットは飼っているのか?株は儲かっているのか?
いろいろと想像は膨らみますが、きっと10年後も「思ってたのと違うじゃん!」と突っ込みを入れて笑って過ごしているに違いない・・・と確信してしまうのはハタチのトラウマが続いているのかもしれませんね(笑)
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