●遊び 〜新しさを感じること

先日、久々に会った仕事仲間と、「夜遊びしよう!」ということになりました。
仕事を終わらせて、5人で夕方から4時間ほど、難波へ遊びに行きました。
賑やかな商店街をぶらぶらしながら、タイムサービスのお店でご飯を食べて、
道頓堀の側道の、整備され、綺麗になっている辺りをまたぶらぶら。
遊びのメインは、「おしゃべり」でした。
近況報告にはじまり、共通の人物の話題から、流行のファッション、音楽、
映画など、時には仕事中には聞きにくい仕事のことも。
ぶらぶらしながら、あ、そこのアレ何だかんだ…とずっと話し続けていました。
カラオケにも1時間だけ行ったのですが、歌の間奏中はまた喋る。。
最後は、大合唱でしめくくられお開きとなり、とても楽しいひとときを
過ごしました。
そして、ほろ酔い気分&遊び疲れた〜と「良い気分」で帰宅した時に、
あることに気付いたのです。
「今日何したか、次、何をするか、、、忘れてる・・・!!」
すっかり忘れていました(叫)
(注)…実際には、仕事を終える前には、一日の振り返りをして必要なことは
メモしていますし、次のTo Doも一覧にしてあるので、全く問題はありません
でした。
むしろ、この夜遊びがよい気分転換となったらしく作業効率も上がりました。
気付いたのは、このすっかり忘れた、ただフワ〜とした感覚は、
脳に余裕の空間が作り出された感じというか、
肩の荷を全部降ろしている感じというか、
とっても楽チン♪ かろやか〜なよいものだということでした。
「遊び」って、生き生きした感覚を簡単に作ってくれる、そして、この
生き生きした感覚は、新しい物事、考え、人々を受け入れやすくしてくれる、
と改めて思いました。
皆さんは、最近、いつ「遊び」ましたか。
皆さんにとって、「遊び」というとどんなことでしょうか。
私にとって、「遊び」は、かつてこんな感じでした。
…ブランコ、鬼ごっこ、ままごと、自転車レース、町中探検、泥団子作り、
 フラフープ、バレーボール、バトミントン、ゴム跳び、ケンケンパ、
 絵本や紙芝居の暗唱、ぬりえ、トランプ、あやとり、バトン、
 人生ゲーム、お化け屋敷ゲーム、オセロ、ファミコン、
 マンガ、小説、カセットテープの編集、アイドルの物真似…
これらは、中学3年生くらいまで、好きだったこと、楽しかったことなんです。
(ファミコンがあって、PS2(プレステ2)がないあたりが世代を表している
かもしれませんね。
(照))
子供の頃は、お昼過ぎから夕方まで、同じ遊びを何回も、何十回も、たぶん、、
何百回も、飽きずに遊んでいたように思い出されます。
同じ鬼ごっこでも、時にはただ追いかけるだけではなく、気がつかない芝居を
してみたりとか、近所のチビッコもいる時は、恐そうに追いかけて、あと少し
で捕まる!という所で逃がしてあげるとか。
(チビッコは「ひよこさん」と呼ばれ、例え鬼に捕まっても鬼にならない
ルールがありました。

あやとりでは、ゲームオーバーだと思われるぐちゃぐちゃな状態から
糸をとって復活させるのが尊敬されたので、永遠と続いていましたし、
暗唱が十分出来た物語は、3つの話を一つに作り直してみることもあれば、
ままごとの新しいストーリーになったり、新作の歌や踊りになったりも
していました。
…鬼ごっこに関しては、本当は、私はどんくさい子供だったので、
よく鬼になっては皆に逃げきられてビービー泣いてもいましたが、それでも
懲りずに毎日、何で遊ぼう?何か新しい驚かせることないかなぁ?と
夢中でした。
皆さんの子供の頃は、どんなことが好きでしたか。
飽きることなくやっていたことは、どんなことでしたか。
仕事だけでなく勉強でも趣味でも、追求していくと、私達には「すること」
っていくらでも出てくるんですよね。
アレもコレもソレもしたい…という意欲的な状態でさえ、私達は調整し、
成し遂げていく為に、多くのエネルギーを消費しています。
が、その中に「出来ない理由」「嫌なこと」などが混じってくると、
膠着状態となったり、非生産的な思考に捕われたり(これらも悪いことでは
ないんですが…。)して悩ましい問題や感情が生まれてしまいます。
(本来、仕事や勉強、趣味は、楽しんで出来るものなんですが、
こういう状態が起こり得るから、重く苦しく難しいだけのものだという誤解が
生じたり、葛藤が起こったりするのですね。)
カウンセリングでお手伝いさせていただいていることは、
この混沌としてしまった感情を見つめたり、整理整頓したりしながら、
埋もれてしまった本当にしたいこと、好きなこと等を見出し、
繋りを取り戻していくことですが、
「遊び」がもたらすこの、生き生きとした感覚は、こだわりや思い入れなどの
縛り付けを緩めて、軽くしてくれるので、
問題や感情を軽く扱えるようになることも多いです。
なのでセラピーでも応用されますが、日常でも心がけて使っていくことが
出来るものです。
そしてどうなるかというと、新しいもののすばらしさや未来に喜びがあることを受け取りやすくしてくれるのです。
今回の経験では、私はそれまで、高校以来の親友が海外に嫁いだことから、
少し漫然とした寂しさに捕まっていたのですが、
寂しさよりも彼女との友情を大切にしようという意欲が戻ってきましたし、
これまでに出会って来た人々、最近出会った人々のいい所、優しさ、面白さ、
ちょっとした心遣いを嬉しく思う感覚をより鮮明にして取り戻すことが出来
ました。
生き生きした感覚の大切さと、この効果を思い知らされた気がしたのでした。
今の私にとって、「遊び」というとこんな感じになります。
今後の予定ですが…。
○友人宅にて、某ドラマの韓国料理レシピをお題にクッキングパーティをする。
○すでに観て来た『ベルリンの至宝展』と『ミラノ展』で、宗教関連の作品を
 観る時、誰が誰なのかがピンと来なかったので、漫画か初心者用ので
 キリスト教の本を一冊読む。
○趣味で続けてきた語学(英・仏)の試験を受ける。
普段、連絡を取らない時間帯に友人と連絡を取り合ったり、
行かない本屋のコーナーを見て回ったり、音にじっくり耳を澄ましたりする
時間は、新鮮で楽しいものです。
けれど本当は、「遊び」から得られる生き生きとした感覚は、
何もイベントがなくても得ることが出来るんですね。
朝早く起きたり、夜遅く寝たり…そんな風に日常を変えたり、
家に帰ってすることを変えるだけでも、感覚は刺激され、
生き生きしてくるのです。
そうやってみること、新しさを感じてみることで、感覚は生み出されます。
子供たちが同じ「遊び」を、毎回夢中で変えていたように。

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