◇さらば、藤井寺球場

プロ野球のプレシーズンマッチ・オープン戦も終わりに近づきました。
パリー
グは、来週3月26日(土)から。セリーグは4月1日(金)から公式戦が始
まります。
そんな中、今年の1月いっぱいで静かに幕をおろし、閉鎖された球場がありま
した。藤井寺球場です。
大阪市の南東部、大阪府藤井寺市に位置するスタジアム。大阪の都心、JR天
王寺駅の真向い、近鉄南大阪線の始発駅「あべのばし」から準急で二つ目の停
車駅「藤井寺」から、歩いてすぐのところにあります。
昭和のはじめに開場したと言われるこの球場。僕らが知ってる風景は、金剛の
山々を仰ぎ見る、静かな住宅街の中のスタジアムの印象が強かったです。
ホームチームファン・ビジターチームファンの別なく、カネ・太鼓・トランペ
ットを使わない、声と手拍子、プラスチックメガホンを打ち鳴らす応援がメイ
ンでした。
僕も、仕事が終わってから駆けつけたものです。
泊りがけ仕事の後に会社でヒ
ゲをそり、歯を磨いて、髪をとかし、デーゲームに行った事もあります。
チケ
ットを手に入れ、スタンドに入ると、やきそばとビールを買って。一球一打の
スリルとサスペンスにのめりこむうちに、眠気も吹っ飛んだものです。
当時のゴールデンカードは、近鉄VS西武戦。3万2千人収容の場内に、立ち
見が出ました。
自由席通路の階段まで、すわれないファンの方でいっぱいの盛
況ぶりでした。
野茂英雄(現:タンパベイ・デビルレイズ)投手が活躍した頃
もそうでした。
ただ、夢の球宴・オールスターゲームや、年間チャンピオン決定戦の日本シリ
ーズが開かれる、華やかな舞台の場となったのは、かなりあとでした。
オールスターゲームや、日本シリーズなどの特別興行試合は、ルールがあり、
収容人員3万人以上で、ナイター設備がある球場で開催する事とされていまし
た。当時の日本シリーズは全部デーゲームで、日没後の延長戦を想定した上の
ことでした。
藤井寺球場に、ナイター設備が出来るまでには時間がかかりました。
それまで
は、近鉄バファローズが優勝した場合でも、日本シリーズをやる時は、別の球
場を借りていたものです。
1979(昭和54)年の、日本シリーズ第7戦で、江夏豊投手が、自軍・広
島東洋カープ最終回1点差リードで、バファローズには大チャンスだった、ノ
ーアウト満塁のピンチを21球で、かわしたシーンは有名です。
その時のスタジアムは、残念ながら藤井寺ではありませんでした。
今は亡き、
繁華街・なんばにある、南海(現:ソフトバンク)ホークスの本拠地、大阪球
場を間借りしていました。
藤井寺でオールスターゲームがはじめて行われたのは、それからまだあと。日
本シリーズ・近鉄VS巨人が開かれるのも、平成になってからでした。
その後、藤井寺球場は、近鉄バファローズ2軍の球場として、あるいは、夏の
高校野球大阪府予選の会場として、続いてきました。
そして、昨年、オリック
スブルーウェーブと近鉄バファローズが合併し、オリックスバファローズ誕生
に伴い、閉鎖が決まって、今に至ります。
いろんな企業さんが、球団の親会社さんとして参入しては、退出していかれま
した。それに伴い、身売り、本拠地移転などで新しく球場が出来たり、取り壊
しに、、、。
それは、各々の時代を代表する企業さんの顔ぶれが変わっていく歴史でもあり
ました。
まるで、世の中の動きを映し出す鏡のように。
野球の世界の出来事は、僕たちの日常生活の中でも見受けられるような身近な
出来事と、似てるような気がします。
例えば、みなさんのお勤め先や、学校でもそんなことはありませんか?会社や
学校を、先輩達が定年や卒業で去っていく。それは寂しいことですよね。
しかし、ある意味それは、終わりではなく再生と言う新しいスタートなのかも
しれませんね。
今シーズンは、新規参入球団やセ・パ交流戦、四国独立リーグ誕生など、新し
い時代の訪れを感じさせる動きがいっぱいあります。
このスタジアムの幕ひきは、ひとつの時代が終わり、また新たな時代の入れ替
わりを示す象徴なのかもしれませんね。
いろんな思い出を野球ファンに与えてくれた、スタジアムよ。長い間、本当に
ありがとう。藤井寺球場、、、あなたの名前は、永遠に球史に名を刻みつづけ
ることでしょう。
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