« 2009年10月 | メイン | 2009年12月 »

2009年11月24日

コンプレックス解消

僕には、夢がありました。

その夢とは、「マッシュルームカット」にすること。

なぜそれが夢になったのかはさておき、その夢は、叶わぬ夢なのであります。

なぜなら。僕の髪はくせ毛だから。

髪を伸ばしても前髪はパックリ2つに分かれ、毛先はあさっての方向へ向いてしまうために、実現しないのであります。

「マッシュルームカットが無理ならばリーゼントに!」と思えども、なぜリーゼントなのかはさておき、広いおでこと、この猫毛では、これまた叶わぬ夢なのであります。

「ストレートヘアがうらやましい」
「髪が立つ人がうらやましい」

何度思ったことでしょうか。

「パーマをあてなくてもウェーブが出ていいね」などと言われても、当人にとっては全然よくありません。

夢が叶わないわけですから。

この髪は、長年の僕の密かなコンプレックスなのでありました。


ところが、最近そのコンプレックスが解消されつつあるのです。

もちろん髪質は一切変わっていません。

それどころか白髪が随分増えました。

でも、それが嫌じゃなくなったんです。

きっかけは、娘でした。

娘の髪はクリンクリンなんです。

耳の上の辺りの髪などはクリンとカールして、毛先が上を向いています。

それが、めっちゃくちゃかわいいのです!!

僕は、そのクリンクリンの髪が大好きなんです。


ある日、風呂上がりにクリンとなった自分の髪を鏡で見た時、「娘と一緒だ!」と思ったんですね。

娘と一緒だと思った途端に、あさっての方向を向いている自分の髪のことが好きになっている自分に気づきました。

単純というか、バカというか、自分でも呆れて苦笑いをしてしまいました。


それにしてもびっくりしました。

一生付き合っていかなければいけないこの髪(いや、場合によっては失ってから気づく幸せになっているのかもしれませんが…)のことを好きになることがあるなんて、夢にも思っていませんでしたから。


僕の夢は相変わらず実現しそうにはありませんが、僕は自分の髪を見るたびに、幸せな気持ちになるようになりました。

そして、娘の髪を見ると、もっと幸せな気持ちになります。


コンプレックスを解消する鍵は、「愛」なのかもしれませんね。


投稿者 cseditor : 22:36 | コメント (0)

2009年11月17日

「楽しむ」ことで 挫折が転機に

こんにちは。嶽きよみです。
コラム初登場ということで、ちょっとどきどきしながら書いています。
どうぞよろしくお願いいたします。

最近、自分の身の回りに ちょっとした変化が起こっていて、
なんだか 次のステップへの準備が始まったのかしら…なんて 思う今日この頃なので、
今日は、過去に起こった私の転機について書いてみようと思います。

わたし達の人生に何か大きな変化があるとき、
その きっかけは 「挫折」 であることも多いのではないかと思います。
後になって振り返れば、「あれは 必要な痛みだったんだなぁ・・・」 なんて思えたりもするのですが、
苦しみの真っ最中の時には その先なんて もうないようにさえ感じてしまいますね。

だって、今まで 当たり前だったことが そうではなくなったり、
今まで それなりにバランスのとれていた自分の器が無理やりに大きく広がるのですから、
そのとき痛みがともなうのは、ある意味当然なのかもしれません。
それが転機だったな、なんて思えるのは、たいていは そのもっとずっと後のことなのですから。

私にとっての そういう 挫折から始まった転機が初めてやってきたのは、
20代後半も過ぎた頃でした。

それは、意外にも、
私の人生で これ以上好きだと感じることは出来ないだろう、と 思うくらい
大好きな人に出会ったことによって始まりました。
私は、そのとき初めて 本気で人を愛したい、愛されたい、と思ったんですね。
そんなふうに思える人に出会うなんて、それはまさしく、幸せの絶頂でした。

ところが、
出会ったと同時に、今まで 気づかなかったり 放置していた 自分のネガティブな部分が、
もう、嫌というほど 次から次へと露呈してきたんです。
それこそ、コミュニケーションの問題、コンプレックス、自己嫌悪、嫉妬、弱さ、依存心…などなど、
自分が嫌っていた全ての部分が、あらゆる場面で顔をもたげてきました。

今思えば たぶん、その人に対して ハートをオープンにしようとするうことで、
その他の 自分が隠してきた部分が 一緒に出てきたような感じだったんでしょうね。
近づけば近づくほど、怖くて怖くて どうしていいかわからなかったんです。
それまで 何の問題もなく 強気に生きていた私でしたから、
まさか そんなところで壁にぶつかるとは思っていませんでいた。

子供の頃から持っていた 「理由のない自信」は 根こそぎ崩れ落ち、
自分に何が起こっているのか分からないまま、自分自身に振り回され、
恋愛も 仕事も みんな ぐしゃぐしゃになっていきました。
それまで、クールでドライでかっこよかった私(本当は、そう装っていただけなのですが)は
微塵もなくなってしまい、弱くて情けない 大嫌いなウジウジした自分だけが そこに存在していました。


そうして2年ほど のたうち回ったあと、私はふと 自分が少し興味を持てる 新しいことに出会います。
自分を責めることに疲れきっていた私は、まるで自分のネガティブさから目をそむけるかのごとく、
最初はゆっくり、いつのまにか どんどんそれに没頭していきました。


そして、それから 数ヶ月が経ったとき、私の人生はすっかり変わり始めていました。

そこにきてやっと、私は、全ての歯車が狂ってしまった大きな原因が、
自分自身が 心から「楽しむ」 ということをしなかったところにあったんだ、と 気づきました。
私はどこか、「楽しむ」ことを 抑圧しているところがあったんです。
彼との関係も、ただただ 楽しめばよかったのに、
じたばたと 恐れるあまり 彼自身をも苦しめてしまったということにも、やっと気づきました。

『自分が楽しむこと』 は、私にとっては、挫折が転機に変わる 重要な鍵でした。
ただ、その時も、いきなりふって湧いたように、最高に楽しめる何かが見つかった! ということではありません。

ほんの少し楽しい と思えることを、一つ、また一つ、と 積み重ねていくことで、
次の楽しいことが しだいにたぐりよせられてきた、という感じでしょうか。
たぶん、「楽しい」 という感覚は、与えられるものではなく、
能動的なときにこそ より多く感じることができるんだと思います。

そうして 私の次のステージが始まり、「楽しむこと」は、私のライフワークにもなっていきました。

でも、それで 仕事も恋愛もうまく行っていたはずの私の人生は、
また10年くらいたって30代が終わりに近づいてきた頃、挫折します。
(人生って そんなに簡単じゃないんですね。)
長くなるので内容は割愛しますが(知りたい人は、直接にでも聞いてくださいませ)、
次に私が手に入れたキーワード、それは 『自己表現』 というものでした。

私は、その10年の間に、自分が表現することをとても抑圧するようになっていました。
今度は、もう一度 「本来の自分自身を取り戻す」、というような課題がやってきたようです。

私は 以前から 色んな自己表現をしてきていたつもりでしたが、
実は、そこにも 表現することの恐れが まだまだ隠れていたんですね。
そこに向き合うことは、今までで 最も 「怖さ」を感じたことでした(私は本当に怖がりですね…)。
もちろん これは今もなお 追求中で、きっと死ぬまで続いていく研究分野だと思っています。

さて今度は、40代が終わりに近づいてくる頃に、また 何か挫折がやってくるのかもしれません。
でも、今度はもっと 自分から進んでそこに飛び込んでいけるような気がします。
いや、そうでありたい、という 希望ですが(笑)。
でも今は、少なくとも、挫折しても それが 転機と変わることを信じることが出来ます。

まぁ、そう 信じられるようになったことだけでも、
私が毎日毎日 泣いてのたうちまわった日々の元は取ったな、という感じでしょうか^^。

今回のコラムは、「自分が楽しむこと」 の重要さに気づいたときのことを書かせていただきました。
これから さらに、私自身がもっともっと 幅広い経験をして、
色んな視点からみなさんとお話が出来るようになっていきたいと思います。

「種の中に大木がある」 
この言葉を みなさんに 贈りたいと思います。
ほんの小さな喜びの中に、これから人生の主軸となる 大きな希望が隠れているかもしれません。


最後まで読んでくださって ありがとうございました。

嶽きよみのプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2009年11月10日

僕と妻と、もう一人の父の話。

先日、僕達夫婦は入籍後初めて妻の実家へ行きました。妻の実家は遠方なのでちょっとした小旅行気分。いつもは妻の実家で、家族4人でマッタリと過ごすのですが、今回は少し予定変更。

ひょんなコトから、僕たち夫婦と妻の両親とで日帰り旅行をすることになったんです。

僕も、普段なら「家族旅行っていいね!」と思うところですが、今回ばかりはそうも思えない事情がありました。それは義理の父の体のこと。

実は義理の父。以前から体調を崩し、入退院を繰り返していて、実は旅行できるような状態では無かったんです。
正直、僕自身も、今回の旅行が決まったとき、「義理の父が遠出できるのか?体力的に持つのか?」とても心配していましたし、妻も僕と全く同じ意見でした。

むしろ、父の体にわざわざ負担をかけてまで、旅行しなくてもいいんじゃないか?そう思っていましたね。だからこそ、今回の旅行、決めるだけでも躊躇いがあったんです。

しかし、父は違いました。「俺は行くぞ!」そう言い続けるのです。それはそれは強いコミットメント(決意)で揺らぐ様子も無く。さらに、あろうことか「俺が運転する!」と言い出しはじめたのです。

「寿和くんも、不慣れな土地で道も分からないだろう?俺が運転しないとダメだよな。だから任せなさい!」

「いやぁ・・・任せるたって・・・いくらなんでもそれは無茶では?」それが僕の本音です。僕も妻も、妻の母もきっと同じ思いだったでしょう。

僕たちはこう思っていたんです。
もし、無理して体調を崩したら、旅の途中で大変なことになりはしないか・・・せっかくの旅行なのだから、できればゆっくり楽しんでもらいたい・・・。それもコレも全て、「父への気遣い」から生まれる心配だったのですが。


しかしあることを切欠に、僕の思いは変わります。
「あぁ、ココは父に任せたほうが良いみたい。きっと大丈夫だ。」そう思えたんです。
僕は見てしまったんですよね。父の喜びの表情の中にある、少し物憂げで寂しさを湛えた父の目を。

コレは僕の思いで、父の本心とは違うのかもしれません。
でも、きっと父は自分の体のことを誰よりも知っていたのでしょう。だからこそ「これから先、4人で旅する機会がどれだけあるのか分からない」と感じていたように思うのです。

今を大切にしたい。自分の出来ることをしておきたい。自分がまだ頑張れるうちに。そう感じていたのではないかな?と思うのです。

そして「これから先、自分達にどれだけの思い出が残せるのか?」実は僕たち家族全員が感じていた不安を、父は一人で吹き飛ばそうとしたのかもしれません。

「まだまだ俺は大丈夫だ、心配するな」

男って、こんな不器用な愛しか表現できないときがあるのかな?って思います。

きっと体が辛かったに違いない父は、見事に4時間以上運転し続けました。辛そうな顔、一つ見せずに。もちろんそんな父の姿を見て、妻も母も心配そうにしていました。

でも僕には、父の不器用な家族愛を感じずにはいられないのでした。きっと父はこれからも、まだまだ元気で笑っているんだと思います。

浅野寿和のプロフィールへ>>>

投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (0)

2009年11月 3日

愛されている赤ちゃん

少し前のことなんですが…

ある日、私はリビングでぼけーっとしていました。頭の中は気持ちがいいぐらい空っぽ。平穏だけど、退屈なわけでもない。そんな瞬間を味わっていたというか…、まあそんな感じでした。

すると…、ふっと古い記憶がよみがえってくるような感覚を感じました。

ずーっと長いこと深い池の中に沈んでいたものが、瞬く間にすーっと浮き上がってきたような、そんな感覚。

そして、私の心の中に見えたもの…それは、父の腕に抱かれている、まだ寝返りもできないぐらいの赤ちゃんの自分でした。

満たされて、何の不満もない私。穏やかな優しい目でみつめてくれる父。

へえ~、これって何だろう~?本当に私の記憶なのかなあ~?って、思いましたが、人はすべての記憶を脳に刻んでいるっていわれていますよね。ただ、思い出せなくなる記憶がたくさんあるのだと。ということは、これって本当の記憶なのかもしれません。

赤ちゃんの自分を思い出した(んだろうということにしておきます)のと同時に、ああ、私はお父さんのことが大好きだったんだなあ、と改めて思いました。そして、お父さんももちろん、私のことがかわいくてしかたなかったんだなあと思えました。

とても、温かい感覚でした。

誰でも赤ちゃんの頃、誰かに抱っこされて、ただただ愛おしい、という目で見つめられたことがあったはずですよね。それがお父さんやお母さんではなくても、そこにいるのは「愛されている赤ちゃん」だと思います。

私たちはみんな、もともと愛されているんですよね。

でも「自分は愛されていない」という誤解をしてしまうことがあります。誤解は誤解を生んでしまい、誤解の海の中で身動きが取れなくなる。私自身がそんな感じでした。誤解は人生をややこしく、難しくするのだということを、私は経験から学びました。

そして真実は、人生をシンプルで豊かなものにするのだということも学びました。その真実は何かというと、誰もがそもそも愛される存在だ、ということです。

すべての人がかつて、「愛されている赤ちゃん」であったんですよね。そして、心の奥深くに、愛された記憶を持っているのでしょう。その記憶は忘れられることはあっても、けしてなくならない。一人ひとりの心の中に、確かにある。

みんな、心の中に愛を持っている。なんてワンダフルなんだろう!

私たちの探しものは、自分の心の中にあるんですね。


投稿者 cseditor : 00:00 | コメント (1)