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2002年8月30日

◇好きこそ物の上手なれ

「好きこそ物の上手なれ」という言葉、皆さんもよく聞く言葉だと思います。
最近私はこの言葉をなるほどなぁ〜とよく実感します。

でも、電話カウンセリングや面談でよく「自分の好きなことがわからない」
という声を聞きます。
皆さんは自分の「好きなこと」って自分でわかってあげてますか?

実はこの「好き」という気持ちはものすごくパワーを持っているんですね。
何でもいいんです。この「好き」と思うことに触れていると、生きる原動力の
ようなものが沸いてきます。

かく言う私も昔は「自分の好きなことって何だろう??」と思っていました。
私達はよく好きなものは?と考える時、自分が一番好きで、ものすごく
情熱を感じられて、これから先もずっと好きで、かつ仕事に結びつきそうな
もの・・。などと考えてしまうんですが、そんな大げさなものじゃなくても
いいんです。色々あるうちの中の一つとして、これが今は好き。と思える
程度のもので全然いいんです。

と、ここまで読んでいて何か頭に一つでも好きなものが思い浮かびましたか?

私が心理学に出会った時、「何か楽しいなぁ〜」と感じました。
他にももちろん好きなことがありましたし、それまでに好きだって思って
取り組んで挫折したものもありました。
その「何か楽しいなぁ〜」という気持ちで、せっせとスクールに通い続けて
気が付けば、いつの間にかベテランと呼ばれるポジションになり、もしも
出来ればいいなと思っていたカウンセラーにも結果、なることができました。
今振り返ってみれば、この「何か楽しくて好き」という気持ちに正直に
諦めずに続けてきたことが、今の私を作ったんだなと思います。

私の母も実はこの「好き」が結果、今ビジネスに結びついています。
趣味で物を作ることが好きな母は、今までも色んなものを作ってきましたが
今回、自分で押した押し花を、色を塗った板の上にレイアウトして、ニスで
コーティングしたものを、駄目もとで花屋さんに売り込みしたところ、見事
取引が成立したのでした!本人は元々趣味で作っていたにすぎなかったのですが
ふと思い立ったことがきっかけで、仕事にすることができました。

何かを目指して計画を立てて猛烈にがんばることも必要な時もありますが
この「好きだから」という理由は、何にもまさるパワーがあるような気がして
なりません。
その好きが転じて、どんなことが起こるのか想像するだけでもワクワクしま
せんか?
もしかしたら、その趣味の場で親友や未来のパートナーに出会うかもしれません。
誰かから声がかかって、仕事に結びついていくかもしれません。

皆さんも自分の「好き」を大切にして下さいね。

by 根本理加

投稿者 csadmin : 11:01

2002年8月27日

●楽しみを見つけていますか

友人と名古屋に行った時のことです。
名古屋には10日間ほど行っていたのですが、その滞在期間中は名古屋名物を食べること。
名古屋でおいしいと有名なお店で食べることが楽しみでした。
きしめん、ひつまぶし、味噌カツ、名古屋コーチン、食べたいものはいっぱいです。

友人とお昼ご飯を食べている時の話題は、夕飯の話題でした(笑)
「今夜なにを食べる?」
「ひつまぶし?カレーうどんも有名らしいよ」
お昼ごはんを食べながら、食べ物の話をして、そして夕飯を食べ終わった後の話題は、明日の夕飯の話題をしているのですから僕たちの食い意地は筋金いりです。
しかも友人は、明日はうどんを食べようと決めると前の日にインターネットでおいしいうどん屋さんリストを調べて印刷してきます。
僕がこの友人に感心したのは、本当においしいものを食べるということにこだわり、本当に食べることを楽しんでいることでした。
第三者的に見ていて本当に楽しんでいました、24時間中夕食を食べている1時間以外の23時間は、次の夕食のことを考えているのではないかと思うほど
楽しんでいました。ここまで楽しんでいれば見ていて気持ちいいものがあります。
ここまで徹底してこだわれば、本当に食べることが楽しくなるだろうなと思います。


徹底的に楽しみにしているものにこだわり、エネルギーを注ぎ込む、夢を膨らます、価値をみることで食事という日常生活が楽しみに変わるというのは、
すばらしいと思います。
一度の食事をたかが食事にするか、本当に楽しいものにするかは、本人の心の持ち方なのだなと思いました。

楽しみを作るというのは、そういうものではないかなと思います。

僕は昔、遠出をするというのが苦手なほうでした。
例えば、明日はキャンプに行く、旅行に行くとなると、『つかれるだろうな』『夏のキャンプは暑いだろうな』と嫌なイメージを想像しては憂鬱になっていました。
実際キャンプや、旅行にいってみると楽しいのですが、前の日は嫌なイメージのおかげで最低の時間をすごしていました。
今から思えばあの時、前の日から『キャンプで何をしようかな』『バーベキューがしたいな』『旅行先で名所をめぐろう』と思うことができれば、前の日から楽しめて、楽しみは2倍になっていただろうなと思いました。
少年時代、遠足前に何回もリュックサックの中身を出しては入れなおしていた頃のように本当に心の中で想像を膨らませ、これからおきることに夢をみることができれば、本当に楽しくなっていたと思います。

趣味の世界というのは、他人からみれば面白くもなんともないことが、趣味をもっている本人にとっては、楽しくて夢中になって仕方がないわけです。
ちがいは、趣味に対しての価値をどれだけ見ているかという違いがあります。
心の持ち方が違うわけです。


皆さんは楽しみを見つけていますか?

日常生活のなにげないことや、仕事の中でも、その中に価値を見つけることができれば楽しみが増えると思います。
心の持ちようを変えてみれば、楽しみを作ることもできます。
毎日の生活で楽しくない、つまらないことはありませんか?
夫婦生活が・・・、会社で面白くない・・・、つまらないこと、面白くないことが増えていませんか?
そんな時こそ楽しみを作ることがいるのではないかと思います。
鍵は、自分の心にあります。
僕は自分の心がたのしみを作ることができると思うと、人生自分しだいという気がします。自分しだいというのはとても希望がわく言葉です
人生をどう楽しむかは、誰かが鍵になるのではなく、自分が鍵を握っています。

楽しみが見えなくなった時、楽しみ作りにチャレンジしてみてください。
楽しみがある人は更に楽しむことをチャレンジしてみてください。
人生に豊かな色が付いてくると思います。

原 裕輝

投稿者 csadmin : 10:56

2002年8月20日

●情緒

まだ薄暗く、夜が明けきらない午前5時前。
「本当に、今日は晴れるの?」というぐらい雲のぶ厚い、霧の濃い、奈良の山奥。
蜩の声で目覚めて、そこが、あまり面識もないのに一晩泊めてくれた、先輩の”お隣さん”宅なのに、不思議な居心地の良さを感じながら、身支度を整えていました。
お盆休みに、先輩宅経由で大台ケ原にキャンプに行ってきたんです。

よく、日常生活を離れて旅行なんかに行くと、いつもは悪い目覚めも、なぜかスッキリしていたりしますよね。
朝は、めっためたに弱い私ですが、そんないい目覚めを経験して、ふと「おかしなもんだなぁ」と感心していました。

ほとんど乗り物酔いなどしない人間でも吐きそうになるくらい、悪い道。
人気のない山奥に入り込んでも、同じ感覚を味わいました。どこからともなく目覚めがやってくる。

私は子供の頃、とても身体が弱かったために、海と山に挟まれたとてもいい環境に移り住んでそこで育ったのに、自ら進んで外で遊びたいとは思わない子でした。とはいえ、都会に育った子に比べれば、夏は山に川に海に友達と出かけてはいたんですけどね。
どうしても、知る限りのまわりの人たちと自分とを比べるのが私たちですから、自分のいる世界の中では”ひ弱”だと思い込んでいました。

でも、大阪に帰ってくると、なぜかそんな田舎が恋しくて、遠ざかって初めて良さを知るのか、せっせと夏が来てはわざわざ遊びに行ったものです。”す潜り”が出来るようになったのも、大人になってからでした。
それからは、なぜかまわりの人たちに比べて自分がワイルドになったような気がしました。
そして、それから出会った人たちには、私は、たくましく映るようです。

主人も、そんな風に私を見たひとりでした。
でも、”思い込み”というのは恐いもので、「そんなことないのに・・・私、ひ弱なのに・・・」と、
『わかってもらえない』という気持ちに付きまとわれたものです。
そこから、自分がどんなに弱い人間なのかの証明が始まりました。
思い返しても、おぞましい(笑)”私、ダメダメ人間なんです攻撃”ですね。

”攻撃”というのには、訳があります。
私たちが、自分が何者なのか?を、その思い込みから証明しようとするとき、必ずそこには、なにかしらの感情を抑圧している『怒り』があります。
心理学講座でもご紹介しているように、引きこもりは一種の『怒り』の表現なんですね。
「私がこんなに暗いのは、しんどいのは、アンタたちが、わかってくれないからよ!」と、怒っているわけです。
その気持ちを素直に表現するのではなく、「もう、ダメ・・・」「もう無理・・・」と訴える事で、いかに自分の思い込みが、正しいのか?を思い知らせるための、いわば”戦い”です。

でも、この”戦い”は、実は最初から”負け戦”。
だって、自分が自分のことをどんな風に思い込もうと、それはあくまで『思い込み』だからです。
それでも、悪あがきをして、なんとか「わかってもらおう」とすると、後に残る手段は、さらに『怒り』を心の奥底に押し込めて、”なにもできない、やる気がしない、非人間”になるしかありません。
どうしてかというと、うっかり『怒り』をあらわにしてしまったら、元気なのがバレてしまうからです。
それでは、みもふたもありません。”戦い”に負けてしまいます。

ここ最近、溜めに溜め込んだ仕事を目の前にして、にっちもさっちもいかなくなっている自分に気付きました。
そして、無意識的にこの”戦い”をこっそりとしていたようです。
表面的には、普通にしているんですが、一向にやる気が出ない、「どないせーっちゅーねんっ」状態だったんですね。
そんな私に、いとも簡単に、早起き、いい目覚めをさせてくれる自然に、感服せずにはいられませんでした。

先輩宅を経由したのは、その村で行われる花火大会があったからです。
素朴で、でも山奥の、頭の真上に打ち上げられる花火に感動して、霧の立ち込めるお外でご飯を食べる。
たいして寝てもないのに、蜩の声で目が覚める。
整備された場所ではなく、人のあまり踏み入らない山奥で、ただただお日様のサイクルで寝起きをし、ご飯を食べる。
そんな昔の人たちは皆やっていたようなシンプルな生活をすることは、とても情緒のあるものでした。

よく、カウンセリングなどで、心の中を見つめ感情を解放していくと「雰囲気が変わってくるんですよ」というお話をするんですが、その逆もまたしかりでした。
情緒を感じると、心の中に溜まっていた感情も解放されるんですね。

季節を楽しむことの好きな日本人、友人の話では、情緒を歌にするのは日本だけなんだそうです。
学校で音楽の時間、習った歌なんかは、そうですよね。
でも、近年、この日本独特の『情緒』の無さが認識されつつあります。
情緒よりも気持ちや思いを重視するあまり、情緒不安定なお子さんが増えているのも事実。

この『情緒』、英語では『emotion』。
”愛情や悲しみなどの強い感情”と”雰囲気”という両方の意味があります。
なるほど、心を見つめても、季節を楽しんでも、同じなわけです。

ただ、自然が失われつつある昨今、その楽しみを外に見出そうとしても限界があるのかもしれません。
人気のない所を見つけ出しては繰り出していた私たち夫婦でしたが、一度人が立ち入ると必ず整備され次の年には、たくさんの人がキャンプをしていたりします。

私たちにできること。
それは、自分自身の中にある『情緒』を楽しめるようになることなのかもしれませんね。
”思い込み”から自由になることができれば、”戦い”をするのではなく心の中の未踏の自然な部分にたどり着く事ができれば、あとは、いかに楽しむか?だけです。
一筋縄ではありません。
それこそ、険しい山道を行くような感覚がすることさえあります。チャレンジの連続。
でも、 自分の仕事がまさにその未踏の地へのナビゲーションなのかと思うと、おかしなことにやる気が湧いてきました。

そういえば、友人に教えてもらったその山奥への案内役を引き受けて、地図を片手にあらゆる地元の人たちに行き方を聞いてまわっていた主人には、いつもと違う充実した笑顔がありました。
いとおかし、です。

源河 はるみ

投稿者 csadmin : 10:55

2002年8月16日

◇おかん最高!

おかん、関西では母親のことをおかんと呼ぶことがあります。
つい先日、『おかん最高!』と思うことがありました。それは、
祖母の初盆の為に田舎に帰省していたことでした・・・

祖母の初盆の為、母と二人で田舎に帰省しました。半日かけて帰省の旅を
終え祖母がいなくなった家についた僕は祖母の家にある少し古めのテレビを
みながら、疲れた両足を投げだして座っていました。
座り込んで2時間ほどたって、『お腹が空いてきたな』と思っていると、
目の前のテーブルからカタンと軽い音がしました。その音は料理がのったお皿が
テーブルにのる音でした。僕が「疲れた〜」といいながらテレビを見ている間に
母親は息子の為に夕飯を作っていてくれたのでした。
『おかん最高!』『感謝!』一人暮らしで自炊をしている僕にとって、
とっても嬉しくて、とってもありがたいことでした。 

でも、小さい頃から息子に夕飯を作ってきた母親にとっては、今回の夕飯を
作ったことは特別なことではなく、ごく当たりまえのことだったかもしれません、
子供の頃の僕も母親が夕飯を作ってくれていたことをごく当たり前のことのように
受け取っていました。
大人になって一人暮らしをして、改めて母親のしてくれていたことのありがたさが
身にしみました。
身近な人のありがたさって、ついつい見落としがちです。
まだまだ “見落としがちなありがたさ”って僕にもいっぱいあると思います。
そのことに気づかせてくれた母親に感謝を送りたいと思います。

          『おかん最高!ビバおかん!』


by 原裕輝

投稿者 csadmin : 10:53

2002年8月13日

●「ま、いいか」が招くもの

皆さんは「ま、いいか」とか「ま、しょうがないよな」という言葉をどのくらい使ってますか?

今日中に仕上げなきゃいけない仕事があって、でも、7時に友達と待ち合わせしていたので「ま、明日でもいいか」と開き直って会社を飛び出たとしましょう。
次の日はどんな結果が待ち受けているでしょうか?
上司や先輩から大目玉を食らうか。
はたまた「ま、しょうがないな」と許してもらえるのかな。

今度の休日こそ部屋の掃除をしようと思って前の日はやる気まんまんでベッドに入ったんだけど、起きたら時計は午前11時をさしています。
一気にやる気が失せて「ま、いいか。また今度にしよう」と思ってみたり。

今日は久々に彼とデート。でも、朝気合を入れて鏡に向かっているとケータイが鳴って「ごめん、急な仕事が入った。今日は会えない」と。
落ち込みつつも「でも、仕事なんだからしょうがないよな」とあきらめてみたり。

お義母さんから電話があってちょっと目を離した隙に、がっしゃーんと子どもがおもちゃ箱をひっくり返して唖然とするあなた。でも、気を取りなおして「小さいんだから、しょうがないか」と思うようにしてみたり。

いろいろな場面での「ま、いいか」「しょうがない」という言葉を使う機会は大人になるに連れて増えていくものだと思います。
「ま、しょうがないでちゅね」と言ってる3歳時はあまり見かけませんもの。

この言葉が“悪い”てわけではもちろんありません。
「しょうがないなあ」は寛容さ、優しさ、気遣い、理解、許しを表す言葉です。
「ま、いいか」も、本来は気分を切り替えるための手放しの言葉ですよね。

でも、意識のどこかに「寛容にならなければ」「理解しなければ」という観念は埋まっていませんでしょうか?
「あいつも悪気があってやったわけじゃないわけだし、許してあげなきゃ」とか。
「いつも忙しいわけだし、今日一日寝過ごしたっていいよな」とか。
そうするとその寛容さは甘さに、気分の切り替えが抑圧になってしまうこともあるみたいです。
甘さはやがては自己嫌悪を招きます。
抑圧は自分の心を圧迫していきます。

また、心のどこかに「諦め」はありませんでしょうか?
「ま、いつもなんだもの。いまさら言ってもしょうがないよな」とか。
「どうせ誰に迷惑をかけるわけでもないし、ま、いいか」とか。

かくいう僕も「ま、いいか」「しょうがない」のヘビーユーザです。
どんな場面でもそんな寛容さを見せなければ、理解してあげなければ、と思ってやってきました。
その人の「事情」もわかりますしね。
しかも、カウンセラーなわけですから、なおさらわかってしまうことも多いのかもしれません。

でも、あるときから「ま、いいか」「しょうがないよな」では済まされないことが多発するようになりました。
当時はなぜかは分からなかったんだけどね。
「ま、いいか」と思った後で、無性に腹が立つんです。
「しょうがないよな」と言った後で、「いやいや、しょうがなく無いがな」とむかつく僕がいました。

いけない、いけない。

何年も前のお話ですのでお許し願いたいのですが、カウンセリングをしながら「それは仕方ないことですよ」と言う半面、「でもなあ、仕方ない言うても・・・」と納得できない自分もいました。
また、誰かの一言に対して「ま、ええんちゃう?しゃあないし」と言いながらも「いやいや、それはあかんやろ」とむかついてる自分もいました。
でも、当時の僕はそんな怒っている自分を許せず、「あ〜、こんなことでは駄目だ。カウンセラー云々以前に人間ができてないじゃないか!」と自己嫌悪したりしてました。

気分は最悪。

でも、あるとき気づいたんです。
「ああ、俺は怒ってはあかん、と思っているんやな」と。
怒りを感じることを禁止してたようです。
なんで「しょうがないよな」が多発するか?っていうと、それくらい怒りが僕の心に溜まっていたからみたいです。
だから、ちょっとしたことで「腹が立つ」→「でも、怒っちゃだめだ」→「ま、しょうがないよな」を高速で繰り返す羽目になったわけです。

そんな風に「ま、いいか」という言葉を使うときを振り返ってみました。
「しょうがないな」という言葉を使ってるシーンを思い出してみました。
もちろん、本気で「それはしょうがないよ」と思っている場面もたくさんありました。
でも、顔では笑っていても、心は煮え繰り返ってるときも多くありました。

そのとき気づきました。
ああ、その言葉は僕にとっては許しや手放しではなく、怒りを抑圧するための合言葉になってしまっているんだなあ、と。

で、とりあえず怒ってる自分を許してみることにしました。
口で言うのは簡単だけど、実現には結構時間がかかります。
今でも人前で怒りを露にするというよりは、理解を選んでしまう自分もいます。
でも、とりあえずはむかついていることを自分なりに認められるようにはなりました。
めちゃくちゃ怒ってることを自覚し、それを意識的に抑圧しなくても済むようになりました。

そしたら、とても楽なんですね。不思議な事に。

強烈な怒りを感じたこともありました。
髪の毛が逆立つってこういうことか?って感じるくらいに。
足の先から頭の上に向かってものすごい熱い塊が突き抜けていくような感じ。
その塊を龍が駆け上ってくるように感じたものです。
でも、その尻尾が抜けた後はなぜかほんわか暖かい気分になってしまいました。
そして、その後は熱いやる気のような、元気のようなものが出てきました。

不思議で面白い体験だけど、一つの気付きにはなりました。
怒った方がいい。いや、正確には、怒りを感じたほうが良い、と。

自分自身の変化やクライアントさん達の変化を目の当たりにしてきて思うことがあります。
何か大きな変化が起こるときって必ず激怒があるんです。何かに。
そして、そこを抜けると新しい自分になったような気がします。

「ま、いいか」「しょうがない」も大切だけど、怒ることも大切です。
それはきっと選択できるもの。
選んだ上での「しょうがないですよ」は深みを持ちます。
自分で選択すれば「ま、いいか」の効能もぐっとアップします。

怒りを扱うのはなかなか難しいけれど、まずは自分の心を振り返ってみるところから。
そのきっかけに「ま、いいか」「しょうがないな」を使ってみて下さい。

根本裕幸

投稿者 csadmin : 10:53

2002年8月 6日

●当たり前ということの有難さ

先日、あまりの寝苦しさに午前5時ごろ目が覚めました。
汗もかいていたので、顔を洗おうと蛇口をひねったのですが、水がでません!
「おかしいなー」と思いつつ家中の蛇口をひねっても、やはり出ません。
「なんで!?」「断水の知らせもなかったはずなのに・・。」
もしかしたら断水かもしれないと思い、知らせが貼られていないか一階に見に行ってみることにしました。


うちのマンションの給水タンクは一階に設置されているのですが、玄関を出ると下の階のご夫婦も給水タンクを覗いていました。
「お水出ませんよね?」と話し掛けると出ないということだったので、とりあえずうちの家だけではないんだ。と少しホッとしました。
そしてその給水タンクの上には点検中の警備会社の人がいました。聞いて見るとポンプの故障で、作業をするので少しお待ちくださいということでした。

その後、コンビニへお水を買いに行き(気が付けば無意識のうちにカゴは飲み物で一杯でした(笑))、待てども待てども水がでません。
「もう5時間以上もたっているのに何でまだ水でないの!」「一体何の作業をしてるの!早くしてよ。」と次第に腹が立ってきました。
普段はあまり気づいていませんが、水がないとできないことがホントたくさんあります。洗顔も、歯磨きも、料理・片付けも、もちろん洗濯も、あと、トイレ!!(幸い前日に半身浴をしていたので、バスタブに溜めていた水でトイレも気持ちよく使えましたが・・。)
主婦にとって水なしでは何の作業もできず、ただただ「水ぅ〜!!」と待っているのは嫌な気分でした。

でも、その時気づきました。「蛇口をひねって水がでるのは、当たり前じゃないんだ」ってことに。
コップを片手で持って、顔を洗いながら思い出したのは、テレビで時々見かける水が余り豊かにない国の人が水を大切にして、少しの水で片手で顔を洗ったり、一日何度も遠路をはるばると水を汲みに行っている姿でした。
そういう気持ちで自分の日常を振り返ってみると、「当たり前」「当然」と思っていることの何て多いことか・・。

さらに思い返すと、それは物質面だけではありませんでした。
毎日顔を合わしている夫のことも、どこかで、一緒に居て当たり前と思っている私がいます。今仲良くしてくれている友人のことも、育ててくれた両親のことも、意識をしないでいれば、当然のように思っている部分があります。

そういう気持ちで周りを見ると、何もかもが有難いと感じられます。

私達はよく、今自分が手にしていないものを欲しがってしまいます。それ自体悪いことではないんですが、今自分の持っているものの有難さを十分わかっているんだろうか?と思いました。健康、パートナー、家族、仕事にしても失ってから初めて気づくことが多すぎるんじゃないかと思いました。

水のない不便さから色んなことに思いを馳せられて、いい機会でした。
こういう機会がなくても、日頃から当たり前のことを当たり前で片付けてしまわないで、感謝できる自分でいたいなと思います。

根本理加

投稿者 csadmin : 10:52

2002年8月 2日

◇メイワク

先週の心理学講座を読んでくださった皆さんに頂いたメールの中で、意外にも
一番多いお声が「迷惑をかけてはいけない」という観念について。
この機会にそのお話を取り上げさせていただこうと思いました。

あなたは「人に迷惑をかけてはいけない」ってどれくらい強く思ってらっしゃる
でしょうか?
僕たちは学校や親からそう教えられますね。
あるいは自分の経験からそれを学ぶ人も多くいらっしゃるでしょう。

でも、逆説的に僕たちは人に迷惑をかけなければ生きられないのも事実です。
小さい頃はお母さんにご飯を食べさせてもらわなければ生きられないし、
社会人になったら先輩に面倒見てもらわないと仕事が覚えられません。
色んな局面で誰かの手を借りながら、僕たちは今日、ここにいるのです。

でも、そこで「人に迷惑をかけてはいけない」と強く思っていたとしたら、
先輩に仕事を教えてもらうときも、床に落ちたフォークを取り替えてもらう
ときも、待ち合わせに5分遅れてしまったときも、必要以上に自分を罰し、
嫌悪してしまうでしょう。

要は心の持ち様なのですが、この基準は本当に千差万別で、一度アンケートを
取ってみたくなるほどです。

そして、何よりもこの観念が強ければ強いほど、実は「ごめんなさい」や
「ありがとう」が言えなくなってしまいます。

遅刻をすれば大抵は「ごめんなさい」で許されます。
誰かに何かを教えてもらったら「ありがとう」で、その人を喜ばせてあげる
ことだってできますね。

あなたは遅刻したときにどんな態度を取りますか?
「ごめんなさい」も言わずに憮然としていたり、当然のような顔をしている
人にはどんな気持ちを抱くでしょう?

「ごめんなさい」が言えないために、何度不必要な諍いを僕たちは招いて
来たのでしょうか?

もし、そんなところに思い当たる節のある方、一度、自分の「迷惑」の基準を
改めて思い返してみましょう。
そして、その一つ一つに「これは『ありがとう』かな?『ごめんなさい』かな?」
と当てはめて見てください。

例えば「人を困らせること」が迷惑だとしたら、その場合は「ごめんなさい」を
言えるようになろう。
「道を教えてもらうこと」が迷惑だとしたら、その場合は「ありがとう」と素直に
言えるようになろう、など。

もちろん、謝ればいい、感謝すればいいって問題でもありませんが、
「迷惑をかけてはいけない」という観念を少しでも手放せる事ができたら、
どれくらい自分の生活が楽になるかを思い浮かべて見てください。

by 根本裕幸

投稿者 csadmin : 10:51